余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
黒金の覇気が、ガルザヴェインの体から噴き上がった。
黒だけではない。
金だけでもない。
魔神性の黒。
エリラの実に似た命の金。
そして、何度も敗北し、それでも立ち上がった傷の色。
それらが混ざり、深部手前の白い霧を押し広げた。
ゼルヴァンの黒冠が、ガルザヴェインの額で軋む。
黒い命令の紋が、まだ残っている。
消えてはいない。
だが、もう深くは入らない。
内側から、押し返されていた。
ガルザヴェインは立った。
片膝ではない。
両足で。
白い床を踏み割り、操られた配下たちの前に、黒冠軍第七牙の前に、そして余の声を奪ったゼルヴァンの前に。
「オレ、マモル」
その声は、魔神戦王の声ではなかった。
もっと低い。
もっと広い。
まるで、彼の声だけで迷宮の壁が震えているようだった。
「オレ、カエス」
管理音声が、白い部屋で告げた。
《進化反応、確定》
《魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェイン》
《進化完了》
《新規個体名》
《魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン》
白骨書記の骨筆が、震えながら走った。
フィルエが息を呑む。
「覇王……」
余は、何も言えなかった。
言葉が出なかった。
ただ、見ていた。
ガルザヴェインの傷跡が光っている。
アレクの白銀傷。
天蓋の猟犬の六牙帰星の傷。
ルオの白鱗打ちの痕。
ゼルヴァンの黒冠が刻もうとした命令の傷。
それら全てが、消えたわけではない。
むしろ、残っている。
残ったまま、王の証のように黒金の光を放っている。
ゼルヴァンが、初めて眉を動かした。
「進化……?」
メルゼアが、血晶瓶を握りしめる。
「魔力格が変わっています。黒冠隷命の食い込みが、押し返されています」
オルグが骨札を投げようとして、手を止めた。
「隊長、これは」
「まだ支配は切れていない」
ゼルヴァンは冷静に言った。
だが、その声にはほんの少しだけ硬さが混じっていた。
「押し込め」
黒冠隷命が、再びガルザヴェインへ向かう。
黒い冠の命令が、額へ、胸へ、精神核へ入り込もうとする。
だが、ガルザヴェインは逃げなかった。
避けなかった。
ただ、息を吸った。
そして、吠えた。
「黒金覇王圏」
その言葉を、誰が教えたわけでもない。
ガルザヴェイン自身の中から出た名だった。
黒金の覇気が、円となって広がった。
◇
それは、ただの威圧ではなかった。
強者が弱者を怯えさせる圧でもない。
魔神の咆哮でもない。
命令だった。
だが、ゼルヴァンの黒冠隷命とは違う。
従え、ではない。
戻れ、だった。
お前たちは、黒冠の兵ではない。
お前たちは、余の迷宮の配下だ。
お前たちは、ガルザヴェインの仲間だ。
お前たちは、エリラを守る者だ。
その声なき命令が、黒金の圏となって広がる。
まず、霧喰い刃ゴブリンたちが止まった。
額に刻まれていた黒冠の紋が、びしりと割れる。
「ギ……?」
一体が刃を落とした。
次に、もう一体。
その次に、三体。
彼らの目に、迷いが戻る。
迷いが戻るということは、心が戻ったということだ。
「ギギッ!?」
霧喰い刃ゴブリンたちは、自分たちの手に血がついているのを見た。
仲間の血だ。
自分たちが斬った、同じ迷宮の配下の血。
小さな体が震える。
その震えを見て、余の胸がまた痛んだ。
だが、今は止まらない。
黒金の圏は、さらに広がる。
ハイハネの霧が揺れた。
黒冠軍を守るようにまとわりついていた灰霧が、突然、方向を失う。
羽音が戻る。
ふぁさ。
ふぁさ。
さっきまでの苦しそうな羽音ではない。
怯えながらも、自分で羽ばたく音。
《ハイハネ制御霧、外部命令から離脱》
「ハイハネ!」
フィルエが声を上げる。
灰霧が一気に反転した。
黒冠軍を守る霧ではなく、黒冠軍の視界を遮る霧へ。
ハイハネが戻った。
次に、カゲヌイの影糸が震える。
ガルザヴェインの足を縫っていた影糸が、ひとつ、またひとつと抜けた。
黒い糸が自分自身の影へ戻り、裂けた影を縫い直していく。
《カゲヌイ、外部支配命令から離脱中》
カゲヌイの影が、ガルザヴェインの足元から離れた。
そして、今度は黒冠軍の影を狙う。
リシェが即座に影へ沈もうとした。
だが、カゲヌイの糸がそれを追った。
「影が戻った!」
リシェが鋭く叫ぶ。
ゼルヴァンは歯を食いしばらない。
顔を大きく歪めもしない。
ただ、状況を見て、判断を変える。
「黒帰将、再制圧」
黒帰将・落武者が刃を掲げる。
しかし、黒金覇王圏がその刃にも届いた。
黒帰将の黒い鎧が軋む。
灰白の下地が、一瞬だけ見えた。
本来の軍帰路喰らいの落武者。
余の配下だった残響。
黒冠の軍令と融合し、黒く染まった将。
その内側に、まだ灰白の帰路喰らいが残っている。
「戻れ」
余は思わず言った。
聞こえたかは分からない。
だが、ガルザヴェインの黒金覇王圏が、同じ意味を押し広げる。
黒帰将の刃が震えた。
完全には戻らない。
強い。
ゼルヴァンとの相性が悪すぎる。
軍令と帰路喰らいが、まだ深く噛み合っている。
だが、黒冠の命令は揺らいだ。
◇
グズの黒泥城が、低く唸った。
「グ……ズ……」
門が震える。
黒冠軍の背後を守っていた泥門が、開く。
いや、違う。
開くのではない。
向きを変える。
黒冠軍の進軍路を守っていた城が、今度は彼らの足元を飲み込もうとする。
「グズ!」
余は叫んだ。
「戻ったか!」
「グズ!」
泥が力強く鳴る。
グズは戻った。
完全ではなくとも、自分で動いている。
バロウの足元が沈む。
「ぬっ!?」
大盾の巨体が一瞬バランスを崩す。
メルゼアが血晶で足場を作ろうとする。
だが、グズの黒泥がそれを食う。
「隊長、泥門の制御が戻っています!」
「分かっている」
ゼルヴァンの左手の黒冠紋が、さらに濃くなる。
だが、今度は奪えない。
黒金覇王圏が、グズの泥核を包んでいる。
支配命令が触れる前に、黒金の圏が弾く。
湿骨王列も動いた。
黒冠軍のために作っていた骨橋が、ばらばらに崩れる。
骨槍が方向を変える。
黒冠軍へ。
ただし、まだ迷っている骨もある。
黒帰将の刃が、湿骨王列の一部を縛っているからだ。
それでも、戻り始めている。
《湿骨王列、一部制御権回復》
《霧喰い刃ゴブリン、多数回復》
《赤金果守ゴブリン、外部命令解除進行》
赤金果守ゴブリンたちが、その場で崩れ落ちた。
小さな袋を抱えたまま。
泣くように鳴いている。
「ギ……ギギ……!」
フィルエが叫んだ。
「袋を置いて! もう大丈夫!」
赤金果守ゴブリンたちは、震える手で袋を床へ置いた。
エリラの木へ向かう足が止まる。
余は、そこでようやく息を吐いた気がした。
まだ終わっていない。
だが、最悪の一つは止まった。
◇
そして、マネ。
余の声を奪われていた配下。
白い壁の奥で、マネは震えていた。
黒冠の命令が、まだ声帯のような核に絡みついている。
余の声で命令を出す。
それが、ゼルヴァンに与えられた役割だった。
マネは、また声を出そうとした。
余の声で。
「ガルザヴェイン、従――」
言葉が詰まった。
黒金覇王圏が、マネの核へ届いた。
マネの中に残っていたものを揺らす。
お前は、声を奪うための道具ではない。
お前は、声を真似る配下だ。
ロードの命令を偽るためではない。
ロードの声を広げるために、ここにいる。
マネの声が崩れた。
余の声ではなくなる。
知らない声。
小さく、震えた、本来のマネの声。
「……ろ……ど……」
白い部屋で、余は固まった。
マネが、自分の声で言った。
「ロード……ゴメン……」
その瞬間、余の中で何かが切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、返すべき言葉だけが、真っ先に出た。
「謝るな」
白い部屋から、余はマネへ言った。
「お前が悪いのではない」
マネの核が震える。
「ゴメン……声……とられた……」
「奪った奴が悪い」
余はゼルヴァンを見た。
「お前の声を奪った奴が悪い」
黒冠の命令が、最後にもう一度マネへ食い込もうとした。
だが、ガルザヴェインが吠えた。
「カエレ!」
黒金覇王圏が、さらに強く広がる。
マネの中の黒冠紋が砕けた。
《マネ、外部支配命令から離脱》
マネは、しばらく震えていた。
そして、今度は自分の意思で余の声を真似た。
だが、さっきの偽声とは違う。
黒冠に汚された声ではない。
余の命令を、迷宮へ広げるための声だ。
「皆、戻れ」
それは余の声だった。
だが、今度は本物に聞こえた。
いや、本物だ。
余がそう命じ、マネがそれを広げた。
「皆、戻れ。黒冠の命令を捨てろ。余の配下は、余の元へ戻れ」
マネの声が、霧に広がる。
ハイハネが羽ばたく。
グズの泥が唸る。
カゲヌイの影が震える。
湿骨王列の骨が鳴る。
霧喰い刃ゴブリンたちが刃を落とす。
赤金果守ゴブリンたちが、泣きながらフィルエの方へ走る。
《外部支配命令、広範囲で破断》
《黒冠隷命、低位配下への支配維持失敗》
《配下制御権、回復》
白い部屋で、余は拳を握ったつもりになった。
「戻った……」
フィルエが、小さく泣きそうな声で言う。
「戻った」
◇
だが、黒帰将はまだ残っていた。
黒帰将・落武者。
軍帰路喰らいの落武者が、黒冠の軍令と融合して変質した存在。
他の配下の支配は剥がれた。
だが、黒帰将だけは、まだゼルヴァン側に立っている。
灰白と黒。
二つの色が鎧の上でせめぎ合っていた。
ゼルヴァンは、冷静に状況を見た。
操っていた低位魔物の大半を失った。
霧も、泥も、影も、骨も、かなり戻された。
マネも奪い返された。
ガルザヴェインは進化した。
黒金の覇気は、黒冠隷命への強烈な対抗場になっている。
普通なら撤退判断の場面だ。
だが、ゼルヴァンは退かなかった。
「メルゼア」
「はい」
「記録しろ。支配解除能力あり。中心は魔神級ゴブリン」
「記録します」
「オルグ」
「はい」
「撤退路を確保」
「承知」
「バロウ、正面。リシェ、右影」
「応」
「了解」
ゼルヴァンは、黒剣を構えた。
「奪えないなら、測る」
余は、その冷静さに吐き気を覚えた。
まだ測るつもりか。
まだ、ガルザヴェインを、余の配下を、迷宮を戦争の材料として見るつもりか。
「もう十分だ」
余は低く言った。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「殺せる敵を殺せ。今度は、配下を気にする必要はない」
ガルザヴェインの金色の目が、黒金に燃えた。
「ワカッタ」
その声は、以前より深い。
魔神覇王。
戦う王ではなく、奪われたものを取り戻す王。
彼は一歩踏み出した。
その一歩で、黒金覇王圏が前へ押し出される。
ゼルヴァンの黒冠紋が、わずかに軋んだ。
「黒帰将」
ゼルヴァンが命じる。
「止めろ」
黒帰将が刃を構える。
ガルザヴェインは、その刃を見た。
帰路を喰らう落武者。
黒冠に染められた、迷宮の軍の残響。
「オマエモ」
ガルザヴェインは言った。
「カエス」
黒帰将が刃を振るう。
命令の道を斬る黒い刃。
ガルザヴェインは避けない。
拳を上げる。
ただの拳ではない。
黒金の覇気をまとった、魔神覇王の拳。
「覇王拳――黒金砕冠!」
拳と刃がぶつかった。
黒い冠の紋が砕けるような音がした。
黒帰将の刃が、半ばで止まる。
鎧の黒が剥がれ、下から灰白が覗く。
落武者が揺れる。
ゼルヴァンの左手の黒冠紋が、びしりとひび割れた。
「……!」
初めて、ゼルヴァンの表情がはっきり変わった。
ガルザヴェインは、さらに拳を押し込む。
「カエレ」
黒帰将の鎧に刻まれた黒冠が、砕けた。
灰白の霧が噴き出す。
軍帰路喰らいの落武者が、黒い将の姿から引き剥がされる。
《黒帰将・落武者、黒冠支配崩壊》
《名称変質解除中》
しかし、完全には戻らない。
黒冠との融合で、落武者は深く変質している。
それでも、ゼルヴァンの命令下からは外れた。
黒帰将の刃が、床に落ちる。
がしゃん、と音がした。
その音は、余には奪われたものがひとつ戻った音に聞こえた。
◇
黒冠軍第七牙は、一瞬で不利になった。
奪った魔物の大半を失い、黒帰将まで崩された。
ゼルヴァンの黒冠隷命は、ガルザヴェインの黒金覇王圏に押されている。
だが、彼は崩れない。
「撤退線」
ゼルヴァンが言った。
オルグが骨札を展開する。
「構築済み」
「目的変更。素材回収を放棄。情報を持ち帰る」
「承知」
余はそれを聞いた。
「逃げる気か」
逃がすものか。
余の配下を奪い、殺させ、声を汚し、ガルザヴェインを兵器にしようとした男を。
「逃がすな!」
余が命じる。
グズの泥門が動く。
ハイハネの霧が回る。
カゲヌイの影が伸びる。
湿骨王列の骨が門を作る。
マネが、余の声を広げる。
「閉じろ」
今度は本物の命令だ。
迷宮が、黒冠軍の背後を塞ぐ。
ゼルヴァンは黒剣を構えた。
「バロウ、道を開け」
「応!」
バロウが大盾を前に出す。
だが、ガルザヴェインがその前に立った。
黒金の覇気をまとった魔神覇王。
バロウの顔が引きつる。
「これは……正面は厳しいですな」
ガルザヴェインは拳を握る。
「オマエラ、ニガサナイ」
その声に、迷宮全体が応えた。
奪われていた配下たちが、今度は自分の意思で黒冠軍を囲む。
霧喰い刃ゴブリンは震えながらも刃を構える。
グズの泥が門を閉じる。
ハイハネの霧が逃げ道を隠す。
カゲヌイの影が足元を狙う。
赤金果守ゴブリンたちは、エリラの木の方へ逃げ込んだが、振り返って小さく鳴いた。
「ギギッ!」
怖い。
それでも、敵を見ている。
余は、その鳴き声を聞いて、静かに言った。
「よく戻った」
マネが、小さく自分の声で言った。
「ロード……」
「マネ」
「声、返す」
「ああ」
マネは深く震え、そして余の声を迷宮中へ広げた。
「黒冠軍第七牙を逃がすな」
白い霧が、閉じた。
黒冠軍第七牙は、初めて本当の意味で、迷宮の腹に閉じ込められた。
ゼルヴァンは、それでも笑わなかった。
怯えもしなかった。
ただ、黒剣を構え直す。
「いいだろう」
彼は言った。
「ならば、帰るために戦う」
ガルザヴェインが一歩前へ出た。
魔神覇王の黒金の圏が、深く広がる。
「ココハ、ロードノ、メイキュウ」
その声は、黒冠の命令よりも重く響いた。
「オマエラノ、グン、チガウ」
次の瞬間。
魔神覇王と黒冠軍第七牙の、本当の戦いが始まった。