余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
翌朝、餌が置かれていた。
迷靄洞の入口から少し離れた場所。
封鎖線のさらに外側。
昨日までは何もなかった黒焦げの地面の向こうに、荷車が一台、ぽつんと残されていた。
車輪は片方が壊れている。
荷台には食料袋。
油壺。
古びた革鎧。
血の染みた布。
割れた水樽。
そして、負傷兵らしきものが、布をかぶせられて横たわっている。
「……」
余は白い部屋で、それを見た。
見た瞬間、思った。
「罠だろ!!」
《はい》
「即答するな! 怖いだろうが!」
《非常に罠です》
「非常に罠ってなんだ! 餌の顔をした罠だろ、あれ!」
《はい》
分かりやすすぎる。
いや、分かりやすいように作られているのかもしれない。
あれは赤泥蟻穴に向けた餌だ。
物資。
血。
負傷者。
荷車。
どれも外周で奪いやすい。
赤泥蟻なら、地中から出て噛みに行く。
迷靄洞から見ても、封鎖線を乱せる餌に見える。
だが、うますぎる。
うますぎる餌は、餌ではない。
針だ。
「管理音声」
《はい》
「人間は何を見たい」
《赤泥蟻穴の地中経路、迷靄洞の外縁干渉範囲、両迷宮の反応》
「そうだな」
《はい》
「なら、餌を見るな」
《はい》
余は白い部屋の外を、さらに広げて見た。
荷車ではない。
荷車の周りでもない。
もっと外。
森。
茂み。
低い岩。
風下。
見晴らしの悪い斜面。
「餌を置いた者を見ろ」
外縁滲出の維持費が引かれる。
《外縁滲出維持:−20》
《現在ソウル:296》
ソウルは減っている。
火影縫い大蜘蛛の進化で大きく使ったからだ。
だからこそ、餌には飛びつきたくなる。
だが、今飛びつけば人間の思う壺だ。
「外縁迷霧は薄く」
《はい》
「荷車には届かせるな」
《目的は》
「届かないふりをする」
霧を伸ばせば、人間は範囲を測る。
なら伸ばさない。
今の迷靄洞は、あそこまで届かないと思わせる。
その代わり、入口前の湿灰床だけを静かに濡らす。
火影縫い大蜘蛛は天井で動かさない。
グズは傷の手当てを兼ねて奥に下げる。
ミルは入口の暗がりに立たせるが、見せない。
マネは……勝手にミルの真似をしていたので、少し奥へ押し込んだ。
「ギィ?」
「お前はまだ出るな。罠を見てからだ」
「ギィ」
多分分かっていない。
だが、それでいい。
ポフキノコだけは使う。
「ポフキノコ、胞子を細く」
《胞子放出》
「血の匂いを拾え」
入口から出た胞子は、霧よりさらに薄い。
空気の流れに乗る程度。
荷車まではほとんど届かない。
だが風がこちらへ流れた時、血の匂いが少し戻ってきた。
《血液反応》
「本物か」
《一部は本物です》
「一部?」
《布に獣血。荷台下に人血微量》
「負傷兵は」
《不明。動きなし》
「ふむ」
人間は本物の血を混ぜている。
雑な罠ではない。
獣血だけなら赤泥蟻に見抜かれるかもしれない。
だから少量の人血を使った。
つまり、置いた者は迷宮と蟻の両方を分かっている。
「……ただの封鎖兵ではないな」
《可能性高》
最初に動いたのは、赤泥蟻穴だった。
地中反応。
小さい。
速い。
荷車の下ではなく、少し離れた場所から近づいている。
「来た」
《赤泥蟻小型群。数六》
「強気だな」
《偵察兼回収と思われます》
赤泥蟻たちは、すぐには地上に出なかった。
地面の下をぐるりと回る。
荷車の真下へは行かない。
罠を疑っている。
だが、血の匂いと食料の匂いに引かれている。
「若い牙め。馬鹿ではないか」
《はい》
赤泥蟻穴も学んでいる。
正面から噛み杭蟻を送ってきた昨日とは違う。
今日は小蟻で探っている。
その時、荷車の下で小さく金属音が鳴った。
ちりん。
ちりん。
鳴子だ。
地中の振動に反応して鳴った。
同時に、荷車の底から白い粉が落ちる。
《浄化粉》
「地中へ落とす仕組みか」
白い粉が地面の隙間へ吸い込まれた。
赤泥蟻が二匹、地中で暴れる。
地面が盛り上がる。
そこへ、荷台の横に仕込まれていた油壺が倒れた。
火打ち石が弾ける。
火がつく。
「蟻を地中から出させて、そこを焼く罠」
《はい》
人間側の罠は発動した。
赤泥蟻二匹が地上へ飛び出す。
片方は火に巻かれた。
もう片方は足に白い粉を浴び、動きが鈍い。
残りの蟻は地中で逃げようとしている。
だが、荷車の周りには細い杭が何本も打ち込まれていた。
地中の進路を狭めるための杭だ。
「うまいな」
《はい》
「腹立つくらい、うまい」
赤泥蟻穴の道を見ようとしている。
どこから来て、どこへ逃げるのか。
そのために餌を置いた。
今、人間側の観察者は必ず見ている。
「探せ」
《はい》
余は火や蟻ではなく、外を見る。
火が上がった瞬間、森の鳥が逃げた。
だが逃げない影がある。
茂みの中。
岩の後ろ。
木の上。
そして、遠くの斜面。
そこに細い光。
硝子か。
望遠具か。
「いた」
《観測者を確認。距離、外縁滲出範囲外》
「遠いな」
《はい》
「届かぬ」
《現状では》
「なら、観測を狂わせる」
赤泥蟻を助けるためではない。
人間の目を潰すためだ。
「煙迷い」
《火災、煙、湿り、条件成立》
「荷車の火に混ぜろ。ただし薄く」
《実行》
火は人間がつけた。
煙も人間が作った。
余はそこに、ほんの少し湿りを混ぜる。
煙の向きが、半拍だけ変わる。
赤泥蟻の逃げ道を隠す。
観測者の視界を白く濁す。
同時に、地面から上がる焦げ臭さに、焼けた赤泥触角の粉を混ぜた。
蟻の道が、二つに見えるように。
《赤泥蟻群、逃走方向に乱れ》
「よし」
《人間側観測、誤認の可能性》
「よし」
火に巻かれた赤泥蟻は死んだ。
浄化粉を浴びた一匹も動きが鈍い。
だが残りは逃げた。
ただし、人間が見ていた方向とは違う方へ。
人間側は、蟻穴の位置を読み違える。
完全に騙せたかは分からない。
だが、真実には届かせない。
赤泥蟻穴から投函が来たのは、その直後だった。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“湿ったの。今、何をした”
⸻
「気づいたか」
《はい》
「返す」
⸻
【“迷靄洞”より】
“人間の目を濡らしただけだ”
⸻
返事は少し遅れた。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“助けたつもりか”
⸻
「誰が」
余は鼻で笑った。
「助けるわけがない」
⸻
【“迷靄洞”より】
“お前を助けたのではない。人間に道を見せたくなかっただけだ”
⸻
今度は返事が早かった。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“ならそれでいい。次は餌を先に噛む”
⸻
「まったく反省していないな」
《赤泥蟻穴らしい反応です》
「まあよい」
赤泥蟻穴が死にすぎれば、人間は蟻道を読む。
赤泥蟻穴が人間を喰いすぎれば、余の餌が減る。
今は、どちらかが潰れるのは早い。
人間の目を潰しながら、赤泥蟻穴とも奪い合う。
面倒だが、それが外周だ。
人間側は、罠が一部成功したと思っているようだった。
荷車の火が弱まると、遠くの茂みから二人が出てきた。
観測者ではない。
回収役だ。
顔を布で覆い、長い鉤棒を持っている。
荷車の残骸から、鳴子と金属板を回収するつもりらしい。
「来たな」
《はい》
「近いか」
《外縁滲出の端です》
「殺せるか」
《誘導次第》
ここで焦ってはいけない。
二人は荷車を見ている。
入口は見ないようにしている。
足元にも注意している。
しかも互いに縄で繋がっている。
片方が引かれたら、もう片方が戻す仕組みだ。
「学んでいる」
《はい》
だが、縄は影を作る。
鉤棒も影を作る。
火の残りも、黒い煙も、影を作る。
火影縫い大蜘蛛が天井で脚を広げた。
「まだだ」
《はい》
二人は荷車の残骸へ近づいた。
赤泥蟻の焼けた死骸を見つける。
「一匹焼けてる」
「触るな。甲殻だけ取る」
「記録係に渡すのか」
「ああ。査定官殿が欲しがる」
査定官。
その言葉を、余は聞き逃さなかった。
「管理音声」
《はい》
「査定官と言ったな」
《はい》
「もう来ているのか」
《不明。少なくとも接近予定はあります》
迷宮査定官。
ただの冒険者ではない。
迷宮を読む人間。
罠を見て、魔物を記録し、危険度を測る者。
こいつらは、その前準備をしている。
「……なら、記録は渡させぬ」
二人の回収役が、焼けた赤泥蟻の甲殻片を金属箱へ入れた。
さらに、荷車の裏から記録板を取り外す。
そこには罠の反応が刻まれているのだろう。
蟻がどこから来たか。
火がどう燃えたか。
霧がどう動いたか。
それを持ち帰られるのはまずい。
「餌ではなく、記録を取る」
《はい》
だが二人を直接引き込むには遠い。
なら、記録板を奪う。
「火影縫い大蜘蛛」
《反応あり》
「鉤棒の影ではない。記録板の影を縫え」
《距離、ぎりぎりです》
「やれ」
火の残りが揺れる。
回収役の手元にある記録板の影が、地面に落ちる。
その影へ、火影糸が伸びた。
細い。
薄い。
今にも切れそうな糸。
だが、届いた。
記録板が、わずかに重くなる。
「ん?」
「どうした」
「板が引っかかった」
「置け。無理するな」
「いや、これを持ち帰れって――」
その迷いが欲しかった。
「煙迷い」
《発動》
荷車の残り火に湿りを混ぜる。
煙が二人の間を流れる。
縄が見えにくくなる。
片方は板を引く。
もう片方は戻れと言う。
縄が張る。
影が伸びる。
「二糸」
《実行》
縄の影を縫う。
身体ではない。
縄でもない。
影だけを縫う。
二人は互いに引いているつもりなのに、足がずれる。
「下がれ!」
「板が!」
「捨てろ!」
「査定官殿の命令だ!」
命令。
責任。
持ち帰るべき記録。
人間は、物に意味を乗せる。
意味のある物を捨てるのが遅い。
その遅さが餌だ。
「ミル」
「ギィ」
ミルが入口の暗がりに立つ。
回収役の片方にだけ見える位置。
煙の向こう。
焦げた荷車の影の奥。
じっと、見る。
「……見てる」
「何が」
「入口に、何かが……」
「見るな!」
見るなと言われると、人間は見てしまう。
片方の足が、湿灰床に乗った。
まだ入口からは遠い。
だが外縁の端。
そこに、余の湿りがある。
「マネ」
「ギィ!」
「声を真似ろ。小さく」
マネが、回収役の声を真似た。
「……下がれ」
下手だった。
少し濁っていた。
だが煙の中なら十分だ。
「下がれ」
「え、今お前――」
「俺じゃない!」
判断が割れる。
縄が張る。
記録板の影が縫われている。
煙が目を刺す。
ミルが見る。
そして、遠くの斜面の観測者が身を乗り出した。
「いたな」
《はい》
「観測者が動いた」
《はい》
余の狙いは、回収役だけではない。
荷車を見る者。
回収役を見る者。
それを探していた。
斜面の岩陰。
硝子の光。
その背後に、もう一人。
記録者。
遠くて殺せない。
だが位置は分かった。
「管理音声、記録」
《記録しました》
これでいい。
今日は、餌を食うだけの回ではない。
餌を置いた者を見る回だ。
回収役の片方は逃げた。
縄を切って、転がるように後退した。
正しい判断だ。
もう片方は、記録板を離すのが遅れた。
火影糸が板の影を引く。
本人ごとではない。
記録板だけを、少しずつ入口側へ滑らせる。
「板を捨てろ!」
「くそっ!」
男はようやく手を離した。
遅い。
記録板は煙の中へ消えた。
男は助かった。
だが、記録は助からない。
火影縫い大蜘蛛の糸が、記録板を外縁の端まで引く。
そこから先は、小蜘蛛を使う。
《縫い影蜘蛛一匹展開》
「慎重に」
《はい》
小蜘蛛が記録板の影へ潜り、ずるずると引きずる。
外では弱い。
だが、湿灰床の上なら動ける。
記録板は少しずつ入口へ近づく。
回収役たちは追わない。
追えば喰われると分かっている。
遠くの観測者は動かない。
自分の位置をこれ以上晒したくないのだ。
やがて記録板は、迷靄洞の内側へ落ちた。
《人間記録板を取得》
《解析可能》
「よし」
ソウルは増えていない。
誰も殺していない。
だが、得た。
これは餌だ。
情報という餌だ。
白い部屋に、記録板の内容が浮かぶ。
⸻
【回収記録板・一部解析】
対象:迷靄洞
分類:Dランク新興迷宮
暫定特性:
・外縁湿霧
・煙中認識阻害
・火影反応の可能性
・赤泥蟻との競合時、干渉挙動あり
・入口付近に未確認拘束要素
対象:赤泥蟻穴
分類:既知Dランク外周型
確認事項:
・小型蟻による物資回収
・大型固定個体消失
・地中経路の一部推定失敗
追記:
迷靄洞は単純な低位洞窟型ではない。
赤泥蟻穴との接触により、外縁変質中。
次段階、迷宮査定官の直接観測を要請。
⸻
「やはり来るか」
《はい》
「直接観測」
《はい》
「嫌な響きだな」
《はい》
迷宮査定官。
次はそいつが来る。
普通の兵ではない。
罠を踏むための者でもない。
迷宮を見るための者。
迷宮の癖を暴き、構造を記録し、ランクを再査定する者。
つまり、余にとってかなり面倒な敵だ。
「管理音声」
《はい》
「今回の収支は」
《表示します》
⸻
【外周戦闘収支】
外縁滲出維持:−20
撃破:なし
取得:人間記録板
取得情報:査定官接近、迷靄洞暫定分類、観測者位置
縫い影蜘蛛損耗:なし
現在ソウル:296
⸻
「ソウルは増えぬか」
《はい》
「だが悪くない」
《はい》
以前の余なら、不満だっただろう。
ソウルが増えていない。
殺していない。
餌を逃した。
そう思ったはずだ。
だが今は違う。
人間は餌を置いた。
赤泥蟻穴は餌に噛みついた。
余は、餌ではなく、餌を置いた者の手を見た。
それで十分だ。
「……少し分かってきた」
《はい》
「殺すだけではない」
《はい》
「敵の意図も、餌になる」
《記録します》
夜、ダンジョン新聞が震えた。
⸻
【地域短報】
・迷靄洞外縁にて人間側の囮荷車作戦を確認
・赤泥蟻穴の小型蟻群が接触、一部損耗
・迷靄洞は荷車本体に接触せず
・人間側記録具の一部が迷靄洞内へ消失
・迷靄洞、人間側観測行動への反応を示す
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交流欄が動く。
⸻
・“朽縄井戸”井守:餌に飛びつかなかったか。成長したねえ
・“玻璃宮の姫”:いい判断ですわ。置かれた宝は、たいてい宝ではありませんもの
・“灰冠のロード”:次は見られるぞ。見せるものを選べ
・“赤泥蟻穴”:湿ったの。俺の道を濡らしたな
⸻
「まだ言うか、若い牙」
《はい》
余は少しだけ考えて、返した。
⸻
・“迷靄洞”:お前の道を見せたくなかっただけだ。見られれば、次に焼かれる
⸻
赤泥蟻穴からの返答は短かった。
⸻
・“赤泥蟻穴”:……それは、分かる
⸻
初めて、ほんの少しだけ棘が減った。
信用はしない。
だが、赤泥蟻穴も人間の目を嫌う。
そこは同じだ。
すると、フィルエから投函が来た。
⸻
【フィルエより】
“査定官が来るなら気をつけて。
彼らは強いから怖いんじゃない。
君が何を隠したがるかを見るから怖いんだよ”
⸻
「何を隠したがるか、か」
《はい》
「つまり、見せたくないものを見る」
《はい》
「嫌な敵だな」
《はい》
ミル。
グズ。
火影縫い大蜘蛛。
外縁迷霧。
煙迷い。
湿灰床。
赤泥蟻穴との競合。
残響核の気配。
見せたくないものはいくらでもある。
全部隠すのは無理だ。
なら、何を見せ、何を隠し、何を誤解させるか。
そこを選ばねばならない。
余は白い部屋で、静かに息を吐いた。
「管理音声」
《はい》
「次の敵は、喰う前に見る敵だ」
《はい》
「ならば」
余は入口の暗がりを見た。
「余も、見られる前に見る」
餌を置く者は、餌の後ろにいる。
餌を見るな。
餌を置いた者を見ろ。
次に来る迷宮査定官こそ、今までで最も厄介な餌になる。