【本編20万字完結】カストラート 〜傾国の歌劇(オペラ)〜【幕間更新あり】
かつて実家を捨て、血塗られた危険な世界へと旅立った幼き日の自分と、今、自分の制止を振り切ってあの『毒の花園』へと迷わず歩みを進める娘の背中が、恐ろしいほどの既視感をもって完全に重なった。
「ジジ……!ジョヴァンナ――ッ!!」
足元に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくるアイシャの震える肩を抱き寄せながら、僕は千切れんばかりの胸の奥から、愛娘の名を叫ぶように呼んだ。
けれど、必死に伸ばした僕の右腕は、ただ虚しく冷たい潮風を掴み、宙を掻くだけだった。
彼女は一度も振り返ることはない。
ただ、きらびやかな光の射す王都の方へと、真っ直ぐに歩んでいく。
その時、脳内の『私』が、どこか哀しげに、けれどすべてを諦め、理解したように静かに呟いた。
『……止められないわよ、カース。だって、あの子はあなたの娘だもの。血の繋がりなんて関係ないわ。あの子の瞳は……私たちがかつて、あの冷酷なトラッドの家を飛び出したときと、全く同じ熱を孕んだ目をしているわ』
『私』の言葉が、僕の胸に冷たく突き刺さる。
そうだ。
かつて僕を突き動かした、あの狂おしいほどの野心と、運命への反逆。
形は違えど、今あの子の胸で激しく燃え盛っているものは、紛れもなく僕が最高峰の教育で与え、僕の背中を見て育ってしまった『執念』の炎なのだ。
「——ああ、そうか。これが、僕の報いなんだね……」
僕は、引き止めようと伸ばしていた手を、ゆっくりと下ろした。
溢れそうになる涙をぐっと堪え、ただ小さくなっていく愛娘の背中を、静かに見送る。
自分がかつて親を出し抜き、実家を滅ぼし、教皇すら傀儡にして玉座の影に座ったように。
今度はあの娘が、王都に新しい時代の波を起こし、誰かを欺き、誰かを滅ぼして、自らの栄華を掴み取るのだろう。
それが僕たちの歩んできた『トラッド』の、そして『カース』が新たに生み出した、因果の形。
僕は、あの子をもう縛らないと決めた。
ただ、あの子の行く末に、僕たちが味わった以上の絶望と孤独がないことだけを祈りながら、乾いた唇を開いた。
「――また会う日まで、また会う日まで、神のまもり汝が身を離れざれ――」
トロペイアの崖の上、朝焼けの海に向かって、僕の清澄なソプラノが響き渡る。
それは、娘の無事と、いつか訪れるであろう再会をただ一途に祈る、哀しくもどこまでも美しい賛美歌。
かつて世界を狂わせ、血の歴史を紡いだ『影の宰相』にして天才カストラートの歌声は、今、愛する娘の苛烈な旅路を鮮やかに彩る祝歌のように、静かな港町に、いつまでも、いつまでも響き渡るのだった。