電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
朝、レナはいつものように、フレークの保存容器と、温めた山羊乳の水筒を抱えて、宿を出た。
雪は今朝も降っている。けれど、昨夜のような湿った重たい雪ではなく、ぱりぱりと乾いたいつもの粉雪に戻っていた。
靴底が、しゃり、しゃりと軽い音を立てる。電線天蓋の薄紫光が、朝の薄暗がりの中で、ぱち、ぱち、と控えめに明滅していた。
傷病兵舎の廊下を、レナはもう何日もそうしているように、迷いなく歩いた。
配膳室で皿にフレークを盛り、山羊乳を回しかける。
湯気の立つそれを、両手でミユンの病室まで運ぶ。
扉をノックする。
「ミユンさん、おはようございます」
「どうぞ」
扉を開ける。
レナは皿を持ったまま、しばらく入口で止まった。
ミユンは、起きていた。けれどいつもの療養着ではなかった。
革のジャケットを羽織っている。
長い金髪は後ろで一つに結われていて、ベッドの脇には見たことのない長い杖と、革の弓のケースが立てかけてあった。
右肩の包帯は、もう外れている。
「ミユンさん、どこか、行くんですか?」
レナは、皿を机に置きながら訊いた。
ミユンは、軽く笑った。
「ダイナモンキーの、大規模討伐依頼が、出されたの」
レナは、湯気の立つ麦の雪の皿を、両手で持ったまま止まった。
ダイナモンキーの、大討伐。
頭の中で、ぱっ、と、いくつかの像が立ち上がった。
――市場の片隅で屋台のおじさんが、地面に落ちた野菜くずを、ぽいっと放り投げる。電線の上からするすると降りてきた、毛むくじゃらの小さな手が、それを、ひょい、と、拾っていく。尻尾の先で、ぽわっと青いLEDが灯る。屋台のおじさんは振り返らない。
――市場の通りの上空で、二匹のダイナモンキーが、お互いの尻尾を、グルーミングするように、絶縁テープで巻きあっている。下を歩く人間は、誰も見上げない。
――朝、自分の腰の後ろから生えていた、毛深く長い、ケーブルのような尻尾。
「……ダイナモンキー」
「ええ」
「……あの、市場の?」
「ええ」
「……可愛い、お猿さんの?」
ミユンは、ふふ、と、笑った。
「そう、可愛い、お猿さんの」
レナはしばらく、ミユンの顔を見た。
「……本当に、討伐するんですか」
「さあ、それは、現場で、決まることね」
ミユンは、麦の雪の皿を、机から受け取りながら、軽く肩をすくめた。
「私は、討伐に、参加するわけでは、ないの」
「え」
「『研究』しに、行くの」
「研究」
「ええ。『人間と、モンスターの、境界』を。こういう日は、面白いものが、見られる」
レナは、ミユンの言葉を頭の中で、二回繰り返した。
人間と、モンスターの、境界。
面白いもの。
ミユンは、スプーンで麦の雪を、一口運んだ。何でもないことのように、ゆっくり口の中で味わった。
「今夜は、戻らないかも、しれない」
「……お気をつけて」
「ええ」
レナは、汗ばんだ自分の手のひらを、しばらく見ていた。それから、ふと、もう片方の手で、無意識に自分の腰の後ろを押さえた。
レナは自分に尻尾が生えたあの朝から、時々、そこを、押さえる癖が、ついている。
ミユンが、その動作を見ている。視界の隅で確かに、見ている。けれど何も言わない。
やがて、レナが扉に向かおうとして、振り返った時。ミユンがぽつりと、付け加えた。
「ああ、レナ」
「はい」
「……念のため、聞くけれど」
「はい」
「あなた、ダイナモンキー、では、ないわよね?」
レナの、肩が、ぴく、と跳ねた。
「わっ」
「ふふ」
「ち、違います! 私は、人間です! ダイナモンキーじゃ、ありませんよ!?」
ミユンは、軽く、笑って、それ以上は何も言わなかった。
レナは頬をふくらませながら、病室を出た。扉を閉めてから、もう一度、無意識に腰の後ろを押さえた。
(……あの事件、誰にも、言ってないのに)
(……ミユンさん、何か、知ってる?)
レナは、首を、傾げながら、廊下を、歩いた。
(……「人間と、モンスターの、境界」)
(……「面白いもの」)
ミユンの言葉が、頭の隅で、ちらちらとしていた。
けれどそれ以上は、追わなかった。
そこから先は、冒険者の管轄だ。
外では雪がまた、ちらちらと、降り始めていた。
***
工房に戻ると、ヘルマンはいつものように、作業台でコイルを巻いていた。
バルトは定位置。プラントは片隅で、ごー、と回り続けている。
「ただいま戻りました」
「おう、おかえり」
レナは書類鞄を下ろして、量産プラントの点検を始めた。
給粉ホッパーの残量、ローラーの隙間、温度計の数値。一つずつノートに書き込んでいく。
工房の隅の、魔導通信機が鳴った。
長く、二回。
レナは、ペンを止めた。断線のときに初めて聞いた『出動要請』の信号は、短く三回だった。今のは、それとは違う。
ヘルマンが、コイルを巻く手を止めずに、ぽつりと言った。
「『周知のみ』だ」
「……周知」
「全工房に、知らせるだけ。出動は、しなくていい」
「何の、知らせですか」
ヘルマンは、コイルを巻きながら、続けた。
「今夜、ダイナモンキーの、大規模討伐だそうだ」
「……ミユンさんから、聞きました。本当にやるんですか」
「お前は、家に帰る時間に、気をつけろ」
「え?」
「冒険者が街中を移動する日だ。変な奴も出る」
「……あ、はい」
ヘルマンは、それ以上は何も言わなかった。
レナは、ノートに何かを書きかけて、止めた。
(……ヘルマンさん、今日は、いつも通り、なんだ)
(……冒険者の、仕事、だから)
ヘルマンの作業台の上で、巻きかけのコイルが、いつもの速度で巻かれていく。
バルトはリレーの低い音を、定位置で立てている。プラントは、ごー、と、回り続けている。
工房の中の何もかもが、『いつも通り』、だった。
レナは、ペンをノートに戻して、量産プラントの点検の続きを始めた。
外では、雪がちらちらと、降り続けていた。