電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
レナは、いつものように出張所のデスクで、設計図を開いていた。
リアクトルの量産プラントの配線系統図。来週には王都の本社に提出する。
夜に、麦の雪を食べながら気づいたこと――リアクトルが本当に守っていたのは、コイルだけではなく、電線網そのものの寿命――その理解を、ここ何日か設計に織り込みつつある。
通信端末が、ぴこん、と鳴った。
王都の同僚からのメッセージ。「ねえ、聞いた? あなたのお父様、迷宮都市に派遣されるって」
レナの指が、止まる。
メッセージの続き。「対策本部長ですって。すごいわね、お父様」
レナは、すぐには返信しない。デスクの上に端末を置く。少し考える。
それから、もう一度、端末を取り上げる。社内ネットワークに入る。
全社共有の業界誌コーナー。最新の電力業界ニュース。
《国営電力会社、第十七管区に緊急対策本部を設置》
《対策本部長は転移塔事業の立役者、カーシュタイン氏》
記事の本文に、父の経歴と、就任記者会見での発言が引用されている。
《「問題を解決する方法はあります、世界システムによる無電線化です。迷宮都市のすべての電線網を、無電線化することです」》
レナは、画面をしばらく見ている。
(……世界システム)
(……迷宮都市の、すべての、電線網)
レナは知っている。父がそれを言うのは、当然だ。
20年前の悲劇の夜の経験から、王都の電線網を完全に無電線化した男。
「人を、死なせない技術」を、人生を捧げて作ってきた人。
冠雪害も、盗電も、感電事故も。
すべてが根本から消える解決策。
父の発言はまっすぐで、立派で、おそらく正しい。
レナとは違う。
子どもの頃の夕食の席を思い出す。
父が転移塔の図面をテーブルに広げて、母が「またその話?」と、ポトフをよそいながら笑った。
父は、「これができれば、もう誰も、あの夜のような目に遭わない」と。
いつもの硬い顔で、言った。
レナは「あの夜」を知らない。
父が何度か口にしたが、詳しいことは教えてくれなかった。
――けれど今、レナの頭の中で、別のことがぐらぐらしている。
デスクの上の、量産プラントの配線系統図。
来週、本社に提出するはずだった設計書。
(……今回、無電線化されるのは、迷宮都市だけ)
(……他の都市の電線網は、当分そのまま)
(……ということは、リアクトルはまだ売れる)
(……むしろ迷宮都市の冠雪害が、業界の話題になった今、追い風だ)
レナは、自分の指先が、わずかに冷たくなっていることに気づく。
何も、悪い話ではない。
業務上の話としては。
むしろ王都本社の上層部は、ほっとする。
モンスターによる災害の恐れがある迷宮都市から、量産プラントを引き上げる。
電線網のない街に、電線網用の部品の製造拠点を置いておく理由はない。
輸送コストばかりがかかる。
量産プラントは、王都郊外か、他地域の工業団地に建つだろう。
そして設計エンジニアは、その立ち上げにつく。
(……たぶん、私だ)
(……当然だ。私が開発している製品なのだから)
レナは、ペンを置いた。
(……ヘルマン式リアクトルは、ヘルマンさんの、手から、離れる)
レナは、それをずっと前から知っていた。
量産化、という言葉の意味は、そういうことだ。
同じものを、何千、何万と作る。
職人の一個一個の手仕事ではなく、機械とレシピと、検査基準で作る。
ヘルマンが、毎日アース線をボビンに、ぐるぐる、ぐるぐる、と巻く――あの動作は、量産プラントにはない。
代わりに巻線機が、定速で回る。
検査員がロットごとに、サンプルを抜く。
それでヘルマン式リアクトルが、何千個、何万個、と世に出ていく。
(……ヘルマンさんは、特許のライセンス料をもらう)
(……それで、終わる)
(……ヘルマンさんには、工房の他の仕事がある。船の部品も、ゴーレムも、義肢もある)
(……ヘルマンさんの能力を考えれば、一個一個、同じものを巻き続けるのは、無駄だ)
(……だから、この量産化計画は、正しい)
レナは、設計図の配線系統の一本一本を、目でなぞる。
間違いがないのを確かめるように。
この工場で作られるリアクトルが、製品として立ち上がる。
業界標準になる。
家電だけではなく、おそらく送電網の補助部品としても、世界各地で使われる。
需要は増える。製造拠点は拡張される。
開発部の次の課題が、彼女に降ってくる。
レナの仕事は、続く。
(……いずれここを、離れなきゃ)
レナは、自分がその意味を、まだよく飲み込めていないことに気づく。
リアクトルが、ただのエアコン補助部品だったら、もう少しここにいられた。
ただコイルの焼損事故を防ぐ部品だったら。
空調機や暖房エアコンは、迷宮都市にも必須だ。
その製造を、部品工房のヘルマンに委託する。
――そういう現場の、長い長い付き合いが続いた。
けれど、今のリアクトルはその意味が決定的に変わった。
電線網そのものの、寿命を延ばす発明。
これは、もう放っておかれない。新しい事業が立ち上がってしまう。
立ち上がるから、現場の付き合いは終わる。
(……成功すれば、するほど、離れる)
レナは、自分の指先を見た。
無電線化は、その流れに、最後の軽い一押しを与えただけだ。
元々、レナが迷宮都市にいる業務上の理由は、薄れつつあった。
(……ヘルマンさん)
(……バルトさん)
(……マリアさん、テレビのおばあちゃん、市場のお猿さん、ギルマス、ミラさんと、ガロンさん、スライム狩りの娘たち)
レナは、設計図を机に置いたまま、立ち上がる。
コートを羽織る。マフラーを巻く。
――ヘルマンさんに、知らせなきゃ。
頭の中で、自分を説得する言葉が、いくつも湧いてくる。
「父が来るから知らせる」「事業がどうなるか、相談する」「ヘルマンさんも、関係者だから」
――どれも正しい。けれど、どれが本当の理由なのか、レナにはわからない。
ただ、足が先に動く。
***
工房に駆け込むと、ヘルマンはいつものように、バルトの胸の前で配線を巻いていた。週末でもないのに、巻いている――たぶん雪害対策で、追加の補強をしているのだろう。
レナは、息を整えるのも忘れて、口を開いた。
「ヘルマンさん、国営電力会社が、送電問題の対策本部を、作りました」
ヘルマンは、顔を上げない。
「そうか」
「……対策本部長が、私の、父です」
ヘルマンの手が、ほんの一瞬止まった。それから、また動き始めた。
「そうか」
レナは、ヘルマンの背中を見ている。何を考えているのかわからない。けれど、何かは考えている。それはわかる。
レナは、息を整えて続けた。
「父が、記者会見で、迷宮都市の、すべての電線網を、無電線化する、と」
ヘルマンは、配線を、巻く手を、止めない。
「ふぅん」
「……ヘルマンさん、リアクトル、どうなるんでしょう」
ヘルマンは、ようやく配線の手を止めて、振り返った。レナの顔を、しばらく見る。
「お前の会社の、判断だろう」
「……はい」
「他のところに、売ればいい」
「……はい」
ヘルマンは、それ以上は言わない。
配線を巻き終わって、バルトの胸板を、ぽん、と軽く叩いた。
バルトが、ぼう、と低く唸った。
――ヘルマンは、慌てていない。事業として、何も困らないのだ、ということが、レナにも伝わる。
彼の工房の本業は、船の部品も、ゴーレムも、義肢も、AGマギクラフトへの部品も、無電線化とは関係ない。
電線の保守は、冒険者ギルドの依頼でやっていることで、地域の青年団的な仕事だ。
緊急の事故さえなければ、職人がやらなくていい仕事だった。
無電線化で、それが消える。仕事に集中できるし、リアクトルを設置しなくても、街の人たちの身が危険から守られる。
ヘルマンには、むしろ悪い話ではない。
そして、リアクトルも。
「他のところに、売ればいい」――その台詞の、軽さが、レナの耳に、残る。
ヘルマンは、祖父から受け継いだリアクトルの技術が自分の手から離れることを、最初から織り込んでいる。
職人の手仕事が量産化されるという意味を、ヘルマンは、たぶん、レナよりもよく知っている。
レナは、それを頭では理解する。
けれど、自分の指先が、まだ冷たい。
理屈ではない、漠然とした不安が、彼女に覆いかぶさっていた。
「で、お前のおやじは、何をやる気だ」
「……世界システムです。転移塔を使った無電線送電システムを作ると……それ以上は、まだ、わかりません」
「ふぅん」
ヘルマンは、もう一度首を振る。それから、少し考えて言う。
「ギルマスのところに、行くか」
レナは、頷いた。