電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
工房の中は、まだ暗い。
ヘルマンは作業台に向かって座っていた。指先が端子盤の配線を送り出している。三十八スケアから五・五スケアまでの各種IS電線、被覆は深緑、スライム絶縁被覆。手の動きは止まらない。けれど目は、何度か入口の方を向いていた。
外で、雪が降っていた。湿った雪ではない。電線天蓋の隙間から、細かい粒がちらちらと落ちてくる。コロナ放電の紫が、雪片の輪郭をうっすらと縁取っている。
バルトは定位置に伏せていた。胸の魔石核が、ぼう、と青く光っている。低い唸りが、地鳴りのように床を伝ってくる。
ヘルマンは電線を置いた。
「……あいつ、来ねえな」
バルトが、ぼう、と唸る。
このところ毎朝、レナは来ていた。雪を払いながら、扉を押して入ってくる。「おはようございます」と言う。フェネクが『おはようございます、親方』と続ける。
今朝は、来ない。
ヘルマンは立ち上がった。バルトの前に回り込んで、胸の整備パネルを開ける。油圧シリンダーの圧、よし。リレー接点の磨き、よし。擬似精霊石の調子、よし。
(……いつも通り)
(……いつも通りなんだ、こいつは)
カチ、と接点を閉じる音が、工房の天井に小さく跳ね返る。
ヘルマンはパネルを閉じた。
「バルト」
ぼう、と低い返事。
「たぶん、今日、出番だ」
バルトの胸の核が、わずかに強く光った。
ヘルマンは作業台に戻って、引き出しを開けた。中から革のコートを取り出して、肩に羽織る。古い、何度も縫い直した跡のあるやつ。袖口の革が黒ずんで光っている。
机の上に、つなぎかけの電線が残っていた。ヘルマンはそれを布で包んで、棚の隅に置いた。
(……戻ったら、続きをやる)
戻ったら、と思った瞬間、舌打ちが漏れた。
「ちっ」
戻る前提で考える癖が、まだ抜けねえ。
ヘルマンはバルトの背中に、ぽん、と乗った。革のコートの裾が、バルトの装甲の上で広がる。
「行くぞ」
バルトが、ゆっくり立ち上がる。油圧シリンダーが、しゅう、と短く鳴る。
工房の大扉に向かって、ヘルマンは手をかけた。ぎい、と重い音。
外の冷気が、ぶわっと入ってくる。
雪と、電線の天蓋と、コロナの紫。いつもの朝。
ヘルマンは扉の縁を、指で軽く叩いた。
「……行ってくる」
返事をする者は、いない。
バルトが、外へ一歩、踏み出した。装甲の足が、雪に沈んで、軽く擦れる音を立てた。
***
地下水路の入口は、迷宮都市の最下層にあった。
レナはフェネクを肩に乗せて、入口の前に立っていた。石組みの坑道が、口を開けて闇に続いている。廃水の管が壁を這って、奥へ消えていく。湿った空気が、足元から這い上がってきた。
革の防寒着。ノート。ペン。計算機。素材標本。線守ギルドから借りた安全ヘルメット。それから、ヨナスが昨日「念のため」と寄越した借り物の棍棒。
戦闘装備は、ない。レナは冒険者ではない。
『レナ、心拍数が、上がっています、レナ』
「……うん、緊張してる」
『昨夜、ヘルマンに、ご連絡されましたか』
「フェネク、それは、いいの」
『了解しました、レナ』
入口の奥から、廃水の滴る音がした。ぴち、ぴち、と一定のリズム。レナはノートを開いて閉じた。開いて、閉じた。
(……前に出ない)
(……ヨナスさんに従う)
そのとき。
「お嬢さん」
低い声。レナは振り返った。
ヨナスが立っていた。長弓を肩から下げ、革鎧の上に外套。古い傷跡のある左頬が、坑道の暗がりで影に沈んでいる。
その横に、もう一人。
ライナーだった。ギルドでしょっちゅう見かけるサイボーグの元冒険者。義脚の関節が、軽い金属音を立てる。義眼が、薄暗がりでわずかに光る。
「お、おはようございます」
「ああ」
「あの、ライナーさんも、来てくださったんですね」
「コーリュウ討伐に誘ったら、来た」
ライナーは無言で、軽く頷くだけだった。
ヨナスがレナの装備に目をやった。視線が、棍棒で止まる。安全ヘルメット。ノート。それから、戦闘装備がないことを確認するように、肩から腰まで一度撫でるように見る。
軽く、頷いた。
「お嬢さん」
「は、はい」
「今日の依頼は、お前の企画だ」
「……はい」
「だから、お前がリーダーだ。俺は戦闘のコンサル。戦闘の判断は、俺がする。だが、企画の判断は、お前だ」
「……はい」
レナは頷いた。ノートを握り直した。安全ヘルメットの紐を、ぎゅっと結び直した。
(……リーダー)
(……ダイナモンキー保護の会の)
ライナーが、義脚の関節を一度鳴らした。低い金属音。
入口の奥から、足音が近づいてきた。複数。
「すみませーん、遅れましたー!」
ガロンだった。魔法使いのローブをはためかせながら、走ってくる。ミラ、メイ、ノラがその後ろからついてくる。
「ガロン先輩が遅刻した、っす」
メイが両手剣を肩に担ぎ直しながら言う。
「(またミラに寝坊見つかってたっす)」
ノラが、こっそり付け加える。
「すまんすまん、っす」
ミラは、白衣の上から防寒着を着ていた。腰に、回復道具のベルト。新調された革のベルトだった。留め金がぴかぴかで、まだ革が硬い。歩くたびに、革の擦れる音がする。
「ガロン、魔法使い初心者なんだから、まだ無茶しないで。具合が悪くなったら私のとこに来なさい」
「は、はいっす……」
メイとノラが装甲の留め具を確認していた。メイは両手剣、ノラは盾とメイス。盾の表面に、新しい引っかき傷が一本入っている。
ヨナスが全員を見渡した。
「揃ったな」
「っす!」
「コーリュウ討伐だ。地下水路の最深部に向かう」
ヨナスは続けた。
「目撃は二十年以上ない。実在するか、進化がどこまで進んだか、現在の出力はいくらか。全部、わからん」
「(改めて聞くと、結構、怖いっすね)」
メイが両手剣の柄を握り直す。
「(ロマン枠を超えてる)」
ノラがメイスを背中に回す。
ヨナスは構わず続ける。
「俺とライナーが前衛。ガロンは援護魔法、後衛。ミラは医療、後衛。スライム狩り娘たちは中衛、側面警戒」
それから、レナを見た。
「お嬢さんは、隊の真ん中。ミラのすぐ前。戦闘には入るな」
「……はい」
「もしコウリュウが出たら、お前はミラと一緒に後退しろ」
「はい」
ヨナスは最後に、付け加えた。
「コーリュウはドラゴンの初期形態だ。だが、それでも災害級寄りだ。逃げる判断は、俺がする。全員、俺の判断に従え」
「了解、っす」
四人の声が、ハモる。
「……はい」
レナも頷いた。
ヨナスは入口の闇の方を向いた。長弓を持ち直す。
「行くぞ」
ヨナスが歩き出した。ライナーが続く。義脚の金属音が、坑道の壁に低く跳ね返る。
レナは一歩、踏み出した。大きめのヘルメットの中で、自分の呼吸の音が、思ったよりも大きく聞こえた。