転生貴族リデル・バートンの野望
リデルは刺客の腹を蹴り飛ばし、血に濡れて負傷した右手とは逆の左手を、流れるような動作で上着の外套の内側へと滑り込ませた。
引き抜いたのは、極限まで銃身を短く切り詰めた、特製のフリンテ式短銃であった。
背後から迫る刺客は、リデルが銃器を抜き放ったその刹那、一切の躊躇なく同時に連動した。
左右へと鋭く散る。それは銃口が持つ唯一の弱点──「射線の死角」へと回り込むための、澱みのない洗練された機動であった。
(──こいつ、フリンテの特性を完全に熟知しているな)
単発式の短銃から放たれる弾丸は、一直線にしか飛ばない。銃口の延長線上から僅かでも身を外せば、通常の射撃で捉えることは不可能に近い。刺客たちの動きは、それを骨の髄まで理解している人間のそれであった。
だが──リデルの氷の理性は、一寸の揺らぎもなかった。
バートン領を発つ前、彼はこの短銃の薬室に、通常の弾丸ではなく「あるもの」を装填していた。さらに、火薬の装薬量は通常よりもあらかじめ二割増しに調整してある。すべては、この最悪の状況を覆すための「仕掛け」に他ならなかった。
刺客が、あと三歩という至近距離まで踏み込んでくる。
リデルは一切の迷いなく、引き金を深く絞り込んだ。
鼓膜を破らんばかりの凄まじい轟音が、静寂の庭園へと炸裂した。
閃光が走り、濃密な白煙が視界を覆い尽くす。
そして──銃口から放たれたのは一発の弾丸ではなく、不規則に牙を剥く「無数の鉄の礫」であった。そう、リデルが仕込んでいたのは、面を制圧するための散弾だったのだ。
「なっ──!?」
刺客は、同時に肉体を極限まで捻った。両腕を瞬時に交差させ、最も致命的となる急所を死守する動き。それは過酷な訓練によって叩き込まれた、条件反射の賜物であった。
だが、至近距離から扇形に飛散した鉄の暴風を、完全にかわし切ることなどできるはずがない。無数の鉄の礫が、刺客たちの腕を、肩を、そして無防備な脇腹を容赦なく打ち据えた。
同時に、凄まじい反動がリデルの左腕へと直撃した。装薬を二割増しにした代償は、想定していた以上に重い。彼の左肩は後ろへと烈しく弾かれ、関節の奥が鈍い悲鳴を上げた。
「……っ!」
短い呻きが、リデルの唇から漏れる。
立ち込める白煙の向こう側で、刺客が片膝を突いた。へし折られた腕からどっと鮮血が 流れ落ちている。散弾の礫が骨深くまで食い込んだのだろう。致命傷には至らずとも、その戦闘能力を削ぐには十分な一撃であった。
追撃する余力は、現在のリデルには残されていなかった。
右手の深い切り傷からは、今なお衣服を赤く染め上げるほどの鮮血が流れ続けている。動かすたびに鋭い激痛を放つ左肩の具合も芳しくない。それでもなお、彼の意識だけは極限まで明瞭なままであった。
その時、庭園の奥深くから、こちらへ急行する複数の足音が聞こえてきた。
「リデル様──!」
引き裂くような悲鳴は、リーフィアのものであった。
彼女の背後には、異変を察知した複数の衛兵たちが抜刀して続いている。
駆けつけてきた増員の数を一瞥し、二人の刺客は瞬時に退却を即断した。前方の男が執念で立ち上がり、背後の者と合流を果たすと、脱兎の如く庭園の硬固な石塀に向かって走り始めた。
足の速い衛兵がそれを追おうと身を乗り出す。
「追うな、戻れ」
リデルが、静かに、しかし絶対的な威厳をもって制した。
「庭の外に、伏兵が潜んでいる可能性がある。戦力を散らすな。この場を完全に固めろ」
衛兵たちは新宰相の冷静沈徹な命令に圧倒され、即座に足を止めて周囲の警戒へと回った。
リーフィアが、なりふり構わずリデルの前へと滑り込み、その場に膝を突いた。
「ご無事ですか、リデル様……! 御手が血塗れに……!」
「問題、な──」
言いかけ、そして、リデルの言葉が不自然に途切れた。
得体の知れない奇妙な感覚が、腹の奥底から這い上がってきたのだ。
熱、であった。
右手の傷口が、まるで灼熱の鉄を押し当てられたかのように熱い。それだけではない。その異質な熱は、血管を伝うようにして瞬く間に腕を駆け上り、全身の神経へと拡散していく。
(──毒、か)
そう確信した瞬間、鉛を詰め込まれたかのように頭部が重くなった。
急速に視界の端が、暗い霞に覆われてぼやけ始める。
「リデル様……? リデル様!」
リーフィアの焦燥に満ちた声が、まるで水底から聴いているかのように遠ざかっていく。
リデルは最後の力を振り絞り、左手でリーフィアの肩を掴んで身体を支えようとした。
──だが、その指先は虚空を掴むに留まった。
「医者を、呼べ。ここ、に……」
視界のなかの石畳が、ぐにゃりと不自然に傾いた。
否、傾いたのは世界ではなく、自分自身の肉体であった。
「リデル様っ──!!」
耳の奥に届いたリーフィアの絶叫を最後に、リデルの意識は深い闇の底へと沈没していった。
───
最初に脳髄へと返ってきたのは、凄まじい「痛み」の感覚であった。
全身の細胞が、内側から焼かれるように熱い。指先から肩の関節に至るまで、あるいは内臓の奥底から皮膚の表面に至るまで、どこもかしこもが激しく疼き、拍動を繰り返している。
リデルは、重い瞼を静かに押し上げた。
視界に映り込んできたのは、見覚えのない天井であった。
白い漆喰で塗られた、簡素だが上質な天井。そこは天国でも地獄でもなく──そして、かつて過ごしたバートン伯爵邸の自室でもなかった。
ここは、ヴェーデル公国の宰相府における、己の私室だ。一拍の遅れを伴って、理性が現状を的確に把握した。
(──生きているな)
全身を苛むこの猛烈な痛みが、何よりの証明であった。完全に死に絶えていれば、苦痛を感じることなどあり得ない。前世において死を迎えた瞬間、彼が最後に体感したのは、すべてが凍りつくような「冷たさ」であった。この身を焦がすような生の熱さは、未だ現世の側に踏みとどまっている人間にしか許されない特権だ。
リデルは、視線をゆっくりと右側へと巡らせた。
そこには、リーフィアの姿があった。
彼女は椅子に腰掛けたまま、寝台の傍らの机に突っ伏すようにして、深い眠りに落ちていた。
その艶やかだったはずの髪は酷く乱れており、普段の彼女の完璧な身だしなみからは到底考えられないほどに荒れていた。顔色もいつもより一層青白く、その閉じた目の下には、うっすらと色濃い疲労の陰影が刻まれている。
小さく、規則正しい寝息が、静まり返った室内に響いていた。
リデルは、その無防備な臣下の寝顔をじっと見つめた。
今すぐにでも、彼女に問い質したいことは山ほどあった。現在の状況はどうなっているのか、刺客たちの行方は、自分を侵した毒の正体は何で、他に不審な被害は出ていないか──。冷徹な問いが、脳内で次々と構築されていく。
だが──。
声が、出なかった。
正確には、声を出す気に、どうしてもなれなかったのだ。
その乱れた髪と、青白い肌、そしてひっそりとした寝息を前にして、己の都合で彼女を揺り起こし、冷酷に問い詰めるという行為が、どうしても拒まれた。
リデルは再び、視線を天井へと戻した。
(……奇妙な感覚だ)
胸の奥を占めるその違和感に、彼は内心で眉をひそめた。
前世の七十年において、誰かが自分のために夜を徹して尽くしたとしても、彼はそれをただ「各々の役割を果たしたに過ぎない」と冷淡に受け取るだけだった。当然、形式的な感謝は示した。だが、それによって己の心の平穏が揺らぐことなど、ただの一度もありはしなかった。人間とは性能の異なる道具の延長線上に過ぎない──それが、あの過酷な七十年で染み付いた彼の絶対的な人間観であったはずだ。
それなのに今、このリーフィアという少女の憔悴しきった寝顔を見て、彼は主君としての命令を下すことを躊躇している。
己の内に、明らかな「情」が湧き上がっている。その事実に直面した瞬間、リデルは自分自身の手で、冷水を浴びせられたかのような強い衝撃を受けていた。
それは、静かで、しかし恐怖に近いほどの確かな驚愕であった。
(──この肉体の、若さゆえの過ちか。精神が肉体の未熟さに引きずられ、衝動的に揺らいでいるのだろうか。しかし、このままでは……)
そう理由を並べ立て、合理的に解釈しようと試みる。だが、原因はそんな単純なエラーだけではないことも、彼の卓越した知性はどこかで正確に悟っていた。
リデルはみたび、白く冷たい天井を見つめた。
そして──他者の感情を都合のいい道具として利用し、支配してきたからこそ、その「情」という不確定要素が孕む致命的な危険性を十二分に知り尽くしている男は、静寂のなかで、一人冷酷な決断を下すのであった。