転生貴族リデル・バートンの野望
霊峰インテグロモンテ──。
帝国の西方領域と豊かな南部とを分かつ境界線上に、その壮大な山脈は連なっていた。
山脈の中腹には、古めかしい白い建造物が佇んでいた。
最初の建物が建設されたのは、およそ三百年前のことである。帝国創建に絶大な貢献を果たした三傑の一人、メニーラ司祭が終の棲家として選んだ慎ましい小さな聖堂であった。
メニーラ本人の意図は、ただ静かに余生を送りたいという質素な望みに過ぎなかった。
しかし、後継者や教団の支援者たちは、その純粋な意図をそのまま受け取らなかった。偉大な司祭であり軍師でもある彼が最後の地として選んだ山には何か特別な神聖な意味があるはずだ──そう勝手に解釈を歪め、礼拝堂を建て、大教会を造り、大規模な修道院を建造していった。
三百年という長い歳月をかけて幾重にも重ねられた増改築。
今や山の中腹から山頂に至るまで、無数の女神教施設がひしめき合う一大聖地へと変貌を遂げていた。毎年、帝国全土から絶え間なく巡礼者が訪れ、信徒たちにとっては「死ぬまでに一度は拝むべき聖地」と称えられていた。
だが、この地が聖地としてこれほど劇的に発展した背景には、単なる信仰上の理由だけではなく、明確な地理的・軍事的な理由も存在していた。
インテグロモンテ山脈は、西方の荒野と豊かな南部とを隔てる絶好の自然の障壁であった。かつての大諸国時代、南部の富を狙う西方の勢力は、幾度となくこの山脈を越えて侵略の爪痕を残してきたのだ。
それを未然に防ぐ知恵こそが、この地域の「聖地化」であった。
いかに野心に満ちた軍隊であれ、女神教の神聖な聖域を踏みにじる行為は全教徒からの激しい非難を免れない。南部側はその宗教的心理を巧妙に利用し、山脈全体を不退転の聖域に仕立て上げることで、事実上の通行不可な不可侵領域を作り上げたのだった。
その建前は、三百年にわたって見事に機能し続けてきた。
しかし──今やそのお題目は完全に形骸化していた。
グランツと聖母派との対立が決定的なものとなった今、聖母派にとって戦略的価値の極めて高いこの地を「ただの聖地」として放置しておく理由など存在しなかったのだ。
彼らは「聖域の保護」という都合の良い名目を掲げ、実に一万に及ぶ武装兵をインテグロモンテへと進駐させていた。
表向きは聖地警護と称していたが、その実態は紛れもない牽制と威圧であった。
ヴェーデル公国の南端はこの山脈と接している。山上から一万の精鋭が見下ろす構図は、ヴェーデルに対する永続的な軍事圧力を意味し、グランツ陣営に対する強力な牽制として機能していた。
同時に、西方領域から帝都へと至る補給線をいつでも脅かせる絶好の拠点でもあったのだ。
軍事的に見れば、この地を聖母派に押さえられている状態は、グランツ陣営にとって喉元に突きつけられた刃に等しかった。帝都周辺の差し迫った脅威を排除したリデルが、この致命的な不快感を放置するはずもなかった。
───
十一月。
リデルはヴェーデル公国の宰相府へと帰還していた。
名目は傷の療養と、滞っていた領国運営の処理であった。実際に彼の右足の傷は完治にはほど遠く、ヴェーデルの内政もまた、長期間の不在によって処理すべき書類が山積みとなっていた。
どちらも事実であったが、彼が戻った真の目的は別にあった。
執務室で積み上がった書類と向き合っていると、扉を静かに叩くノックの音が響いた。
「入れ」
入ってきたのは、黒い修道女の装束に身を包んだ一人の女性であった。
年齢は二十代後半ほどであろうか。穏やかな顔立ちと無駄のない整った所作は、どこからどう見ても敬虔な女神教の信徒そのものであった。
しかしリデルは、その可憐な外見が計算された偽りの姿であることを熟知していた。
彼女の名は、アリシアであった。
「……例の情報整理が完了いたしました」
低く静かな声であった。
リデルは傍らに控えていたコールへと視線を向けた。
「コール、少し席を外してくれ」
「承知いたしました」
コールが恭しく一礼して退室し、重厚な扉がカチリと閉まった。
室内には二人だけが残された。
アリシアは手にしていた地図を、執務机の上に静かに広げた。
描かれていたのは、インテグロモンテ山脈の全容であった。
たった一枚の地図ではあったが、そこに描き込まれた情報の密度は常軌を逸していた。建造物の詳細な位置関係、敵兵力の詳細な配置、多層的に張り巡らされた輪形防衛拠点、公の巡礼路と人知れぬ細い山道、そして水源の位置に至るまで──。
リデルはその精緻な地図を凝視した。
「……まるで、最初から軍事拠点として設計されたようだな」
「ええ」
アリシアは淡々と答えた。
「事実、ゲオルクスが教皇の座に就いた二十年前から、急速に要塞化工事が進められたと言われております。表向きは『聖地の再整備』として進められましたが、配置を見ればその意図は一目瞭然です」
「二十年前、か……」
リデルは地図から目を逸らさずに呟いた。
「つまり奴は、私がこの世に生を受ける前から、今日のこの局面を見通していたというわけか」
「そうなります」
「やはり、ゲオルクスという男は、ただの宗教家ではないな」
リデルは改めて地図の全体像を見渡した。
「しかし、よくぞここまで詳細な地図を完成させてくれた。心から感謝する」
「いいえ……」
アリシアは恭しく深々と頭を下げた。
「素性も生い立ちも知れぬ私のような者の提案を快く受け入れてくださった、リデル様の寛大なご処置ゆえにございます」
「寛大というわけではない。君がもたらす情報の精度が、純粋に信用に足るものだったからだ」
リデルは指先で地図上の山道をゆっくりとなぞりながら言った。
「だが、あの時は驚いたよ。君の間者としての並外れた才能もさることながら、敬虔な女神教の信徒である君から、このような決定的な情報がもたらされるとは思ってもみなかったからな」
一拍置き、リデルはアリシアをまっすぐに見つめた。
「……私はこの情報を用い、近いうちにあの山へと攻め込む。君と同じ信徒の多くも、その戦火に巻き込まれて犠牲となるだろう。それでも……本当に良いのだな?」
アリシアはわずかに沈黙した。
そして、その薄い唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「リデル様は……あの『聖地』と持て囃される山の真の姿をご存じですか?」
「世間並みには」
「ならば、お話しいたしましょう」
アリシアは広げられた地図へと視線を落とした。
「あの山が清廉潔白な聖域と呼ばれていたのは、とうの昔の話です。今となっては、聖母派の腐敗と強欲の象徴と言った方が正確でしょう」
「具体的にはどういうことだ?」
「インテグロモンテでは昔から、全国から集まる多額の寄付金を原資とした悪質な高利貸し業が横行しておりました。金を貸し付ける際には『女神の恵み』と信徒を言いくるめ、回収になると『女神に対する背信』と激しく詰め寄る……。借金で首の回らなくなった信徒たちから、女神の名のもとに先祖代々の土地を奪い、家を奪い、思い出の品を奪い……そして、家族までも掠め取ってきたのです」
声はどこまでも静かであった。激しい感情は完璧に抑制されていた。
しかし、その不気味なほどの静寂こそが、彼女の内に秘められた絶望の深さを物語っていた。
「私もまた、奴らに人生を無残に踏みにじられた無数の犠牲者の一人に過ぎません」
リデルはそれ以上、追求しなかった。
聖母派が宗教の裏で人身売買や恐喝、売春といった暗部に手を染めていることは既に把握していた。信仰という聖なる外套を羽織った、ありふれた搾取の構造だ。アリシアの身に過去何が起きたのか、詳しく問うまでもなく容易に想像がついた。
「つまり──」
アリシアは表情一つ変えずに言った。
「私は己の個人的な復讐を果たすため、リデル様という力のあるお方を都合よく利用しているに過ぎないのです」
それを、静かな笑みを湛えながら口にした。
リデルはその真意の宿る顔を見つめた。
「……なるほど。つまり我々は、互いに互いを都合よく利用し合う『大罪人同士』というわけだな」
「ええ、その通りです」
短く、力強い返答であった。
リデルは手元の地図に目を落とし、再びアリシアへと視線を戻した。
「私に余計な気遣いをさせないために、正直に話してくれてありがとう、アリシア」
静かながらも重みのある声であった。
「ならば、私も君に誓おう」
リデルは、インテグロモンテが描かれた地図の上に力強く手を置いた。
「君と、そして本物の女神に代わり、あの偽りの聖地を跡形もなく滅ぼし尽くすことを」
アリシアは静かに深々と頭を下げた。
俯いたその顔にどのような表情が浮かんでいたかは──誰一人として知る術はなかった。