転生貴族リデル・バートンの野望
一月中旬。
霊峰における大規模な後処理は、おおよそ片付きつつあった。
死体の収容、捨て去られた武器や物資の接収、施設群の損傷状況の把握──リヒト率いる部隊が、淡々と作業を進めていた。
リデルは、そろそろ山を下りてヴェーデル本国に戻ろうと考えていた。次なる行動に向けた準備が、山ほど残されていたからだ。
まさにその時、一人の伝令が駆け込んできた。
リヒトからの緊急報告であった。
リデルは、最初その内容を聞いた時、自分の耳を疑った。聞き間違いではないかと思ったほどだ。
しかし伝令の引きつった表情が、それが決して聞き間違いなどではないことを物語っていた。
リデルは直ちに、山の東側に位置する監視所へと向かった。
現場の状況や変化を自分の目で直接確認する──それが、リデルの徹底した流儀であった。
監視所に到着すると、そこにはリヒトと数人の部下が詰めていた。
部下の一人が望遠鏡を手にしたまま、霊峰の東側に広がる麓の平原を食い入るように見下ろしている。
「どいつだ」
リデルは姿を現すなり、単刀直入にリヒトへ尋ねた。
「軍勢の先頭で、堂々と名乗りを上げている人物にございます」
リヒトが答えた。
いつもと変わらぬ落ち着いた声調であったが、その奥底には隠しきれない困惑が滲み出ていた。
「私を含め数人の目で確認いたしましたが……まず間違いなく『本人』に相違ございません」
「……一応、私にも確認させてくれ」
「はい」
リデルは差し出された望遠鏡を受け取ると、眼下の平野へと向けた。
ピントを合わせる。
麓には、およそ一万におよぶ軍勢が陣を敷いていた。
掲げられた幾多の旗印。
その先頭に、一人の人物が立っていた。
立派な佇まいをした、三十代後半の男であった。豪奢な甲冑を纏い、馬上から霊峰に向かって何事かを大声で叫んでいる。
リデルは望遠鏡越しに、その男の口の動きを注意深く読んだ。
距離があるため直接の声は届かない。しかし、その唇の動きと風に乗って断片的に届く声の残滓から、叫んでいる言葉を正確に読み取ることができた。
「──余は!」
男は声の限り叫んでいた。
「女神の恩寵を賜りし、ベルドルナ家正統当主──」
リデルの手が、ぴたりと止まった。
「──ローデンス・ベルドルナである!!」
叫びはさらに続いていた。
「霊峰を焼き払いし大逆人、リヒト! そしてリデルよ! 直ちに下山し、正々堂々我々と雌雄を決せい!!」
リデルは静かに望遠鏡から目を離した。
そしてしばらくの間、何も言わなかった。
隣ではリヒトが、無言のまま静かに佇んでいる。
「……ローデンス第一皇子が、なぜ……」
リデルは、ようやくそれだけの言葉を漏らした。
「……なぜだ?」
リデルは手に望遠鏡を持ったまま、自問自答するように低く呟いた。
「一体、何が狙いなんだ……?」
リデルの脳内で、眼下の状況が素早く整理されていく。
ローデンス第一皇子。実権こそ皆無に等しいが、南部都市国家連合と聖母派にとって最大の最重要人物である。教皇軍が帝国本領へと侵攻するための大義名分そのものであり、担ぎ上げられた神輿であった。
そのローデンスが、なぜか今、眼下にいるのだ。
麓に広がるのは遮るもののない大平原。高所から見る限り、伏兵の可能性など皆無であった。
敵の軍勢はおよそ一万。しかし強行軍を重ねてきたのか、全員が極度に疲弊しているように見えた。装備も服装もバラバラで、実際の戦闘能力は額面の半分以下とみても間違いない。地の利を掌握している今、リヒトの三千の精鋭だけでも容易に蹂躙できるだろう。
つまり、リデルは今、思いがけない不慮の事態によって、聖母派のアキレス腱を完全に手中に収めている状態にあった。
「……」
しかし、リデルは何も言わなかった。
あまりにも突飛な敵の行動に、珍しく頭の整理が追いついていなかったのだ。
「第一皇子は、昔から名声を異常なまでに求めるお方です」
リヒトが、さりげなく助言を挟んだ。
「おそらくは……単に『格好をつけたい』という理由もあるのでしょう。実情はどうあれ、自ら陣頭に立ち霊峰の悪人に直接対峙してみせた──という形を作りたかったのではないかと」
「……なるほど」
その一言で、リデルの胸のつかえが少しだけ下りた。
「……どうなさいますか?」
リヒトが静かに続けた。
「ひとまず、向こうのお望み通りに下山して、第一皇子殿下をお捕まえしますか?」
「そうだな。とりあえずそれで──」
言いかけたリデルの言葉が、途中でぴたりと止まった。
頭の中で、何かが鋭く動いた。
急速に一つの「絵図」が鮮明な形を成していく。
即興の閃きであった。粗削りな策に過ぎない。リデル自身、これほどまでに大胆な策を実行に移すのは極めて珍しかった。
しかし──もしも上手く行けば、聖母派に対してさらなる優位を獲得するどころか、敵の戦略の根底そのものを叩き潰せる可能性を秘めていた。
そして何より、この策の優れている点は「失敗しても我が方が失うものがほとんどない」という点であった。
ただ一点──リデル本人の身の安全だけは、まったく別の話であったが。
「……リヒト」
「はい」
「ローデンスの元へ使者を送ってくれ。『交渉の場を設けたい』と伝えるんだ」
「交渉、ですか」
「それと、私が使うため白旗も用意してくれ」
リヒトは一瞬だけ、目を細めた。
「……承知いたしました」
──一時間後。
麓に設けられた天幕の中に、ローデンスと数人の護衛たちが待ち構えていた。
そこへ、霊峰の斜面を静かに降りてくる人影があった。
掲げられているのは白旗。
従者も連れず、ただ一人。
リデルであった。
リデルは天幕の前に辿り着くと、ローデンスの目前へと進み出た。
そして、静かに膝をついた。
「お初にお目にかかります、ローデンス殿下」
穏やかだが、芯の通った声だった。
「私の名はリデル・バートン。交渉の申し入れをご承諾いただき、感謝の念が絶えません」
ローデンスは馬から降り、両腕を組んで傲然と見下ろしていた。
「……当然だ!」
朗々と響く、大きな声であった。
「いかに背天者であり、聖なる霊峰を焼き払った悪人であろうとも、礼儀と作法を欠かさぬのがベルドルナ家の男である。そちらこそ、約束通り一人で乗り込んできた度胸だけは褒めて遣わそう」
(……単純で扱いやすい男だ。ゲオルクスが大事にするわけだ)
リデルは内心でそう思いつつも、表情には一切出さなかった。
「して──」
ローデンスは尊大に言葉を続けた。
「今回の交渉とやらだが、言わずもがなそちらの降伏手続きであると、こちらは解釈しているが。相違ないな?」
「いいえ」
リデルは静かに、しかし明確に答えた。
「……違います」
「何……!?」
「そのような些細な話ではございません。もっと大きな話でございます」
ローデンスの身体が、わずかに前のめりになった。
(……食いついた)
リデルは心の中でほくそ笑んだ。だが、表情は微動だにさせない。
「現在繰り広げられている、我々と聖母派の無益な戦闘行為──」
リデルは顔を上げ、直然とローデンスの目を見据えた。
「……どうかローデンス様の手によって収めていただきたく、参上した次第でございます」