鋼の黙示録
夕暮れ時のトア・コーポレーション・ジャパンの会議室。
窓の外が茜色に染まる中、ハルトは手元の資料を見つめながら、ふと呟いた。
「なあ、ふと思ったんだけど……」
「うん? どうしたハルト」
後藤が、椅子の背もたれに体を預けながらハルトを見る。
「前さ、ソーラーシステムの銅線を作るために、古い硬貨を集めようとしたことがあっただろ? 」
後藤は、遠い目をして
「ああ、そんな事もあったな」
「でも、結局は自分たちの技術じゃ不純物を取り除けないってことに気づいて、現代のプロに任せることにしたじゃないか」
「ああ、プロに任せて正解だったよな」
ハルトは身を乗り出し
「うん。物理的なものはそれでいいんだ。でもね……。ソーラーシステムにしても、医療の知識にしても、せっかく石英ガラスの板に完璧な設計図やマニュアルを刻んで、絶対に壊れない保管庫に遺したとしてもさ。……もし未来で、子孫たちが『その文字を読めなかったら』、全部そこで終わりなんじゃないかな?」
ハルトの言葉に、後藤の目が大きく見開かれた。
ハッとしたように、身体を起こす。
「……そうか。文字や言葉っていうのは、使わなきゃ消えていく。歴史上の失われた古代文字みたいに、未来の連中が『ただの綺麗なガラス板』として素通りしちまったら、何の意味もないってことか」
クリスもまた、キーボードを叩く手を止め、息を呑んだ。
「……盲点でした。文明が一度リセットされかけるディストピアにおいて、言語の維持は最も難しく、かつ最も見落とされやすい要素です」
「となると、やっぱり最低限の勉強が必要だよな……」
後藤が腕を組んで唸る。
クリスが、これからの凄まじいタスク量を予感したように、少しだけ眉間を揉みほぐして疲れた表情を浮かべた。
「……となると、今度は『学校』を建てる必要がありますね。教育プログラムの構築、教材の作成、教師の選定……」
「いや、そんな大掛かりなものじゃなくていいよ。あと30年は、普通に現代の学校に通えばいいんだから」
ハルトは苦笑いしながら首を振った。
「そうじゃなくて、子供たちが最初に学ぶ『読み、書き、計算』の、一番シンプルで分かりやすい手引書を作ればいい。それを結の郷に遺しておくんだ」
「でもよ、ハルト。学校もなくて、誰がそれを子供たちに教えるんだ?」
後藤が問いかける。
ハルトは真っ直ぐに後藤を見つめ、静かに、だが確信に満ちた声で答えた。
「親が教えればいいんだよ。それを、結の郷の『』にしよう」
結の郷に集まった住人たちは皆、スーパー人工知能トアがその膨大なデータから見つけ出した、深い良識と愛情を持った本物の人格者たちだ。彼らの子供は、親の後ろ姿、術を凝らして働く背中を見て、立ち居振る舞いを学んでいくだろう。
ならば、親の手から次の世代へ、その『知恵』を直接引き継ぐのだ。
「素晴らしい考えです、ハルト」
静まり返った会議室に、凛とした声が響いた。パッと壁の大型モニターが起動し、スーパー人工知能トアの姿が現れる。
「今、世界中のメンバーが尽力しているのは、人類が生き残るための生活基盤の構築です。ですが、いくら現物を遺し、マニュアルを遺したところで、その文字が読めなければ確かに意味がありません」
(うわ、急に出てきた……。やっぱトアって、いつも俺たちを監視してるんじゃ?)
ハルトは一瞬、背筋にチクリとしたものを感じたが、すぐに考えるのをやめた。今さら突っ込んでも仕方のないことだ。
「とにかく、将来の結の郷が『猿の惑星』みたいな世界にならないようにしないとね。たとえ文明が退化したとしても、奪い合うのではなくて、分かち合える人間であってほしいんだ」
「ハルト、その通りですね。未来の歴史でも、全く同じような悲劇が起きましたから」
トアが、深い憐れみを湛えた瞳で深く頷く。
「だからこそ、やっぱり『教養』が必要だと思う。今の結の郷の住人は申し分ない人たちばかりだけれど、世代が交代するたびに、その人柄までずっと同じままでいられるとは限らないから」
「可能性は、十分にありますね」
トアは、皆にも提案すると告げ、モニターから消えた。
ハルトは机の上の資料に視線を落とした。
あと30年もすれば、世界の人々は、あの『楽園』に向かう。
衣食住のインフラはトアが遺してくれたとしても、テレビもラジオも、ネットの配信もすべて終わりを迎える。当然、今みんなが使っているスマートフォンやパソコンも、いつかは使えなくなるだろう。
――そこからが、本当の一回目の勝負になる。
ハルトの頭の中で、未来のために準備すべきもののリストが、次々と書き換えられていった。
子供たちのための絵本は、今のうちにたくさん買い集めておこう。
言葉の意味を調べるための、分厚い辞書も絶対に必要だ。
そして30年後、現代に溢れている素晴らしい本を、図書館から運んでこよう。結の郷の中に、みんなが気軽に使える図書館を作るんだ。
それだけじゃない。
色とりどりの絵の具や紙も用意しよう。
奏でるための楽器も、いくつか大切に保管庫へ置いておこう。
人間、娯楽がなければ、豊かな心なんて作れっこない。
ただ、明日を生きるために「食べられるだけ」じゃ、ダメなんだ。
窓の外に広がる夕暮れの街――現代の、まだ光り輝く岡山の夜景を見つめながら。
ハルトは、未来のまだ見ぬ子孫たちへ遺す、目に見えない最も大切な『約束』に、静かに想いを馳せるのだった。
(第22章へ続く)