悪役令嬢は世界のバグを修正する
「レティシア・アルヴェルン!」
王太子アルフォンスの声が、舞踏ホールに響いた。
その瞬間だった。
魔法オーケストラの演奏が、ぴたりと止まる。
まるで見えない手が、音楽そのものを掴み取ったかのように。
先ほどまで流れていたワルツの余韻が、静かに空気へ溶けていく。
広い舞踏ホール。
無数のシャンデリアが黄金の光を降らせ、磨き上げられた大理石の床を照らしている。
豪華なドレス。
煌めく宝石。
貴族たちの華やかな装い。
だがそのすべてが、今は止まっていた。
誰もが動きを止めている。
グラスを持つ手。
扇子を揺らす指先。
談笑していた口元。
すべてが凍りついたようだった。
そして。
視線が動く。
一つ、また一つと。
人々の視線が、同じ方向へ集まっていく。
舞踏ホールの端。
そこに立つ、一人の少女へ。
レティシア・アルヴェルン。
公爵令嬢。
王太子の婚約者。
冷たい。
高慢。
完璧。
社交界でそう噂される“悪役令嬢”。
無数の視線が彼女に突き刺さる。
好奇心。
嘲笑。
期待。
まるで劇場の観客が、舞台の主役を見つめるように。
レティシアはその中心に立っていた。
逃げることもなく。
動揺することもなく。
ただ静かに。
ゆっくりと顔を上げる。
その視線の先には、王太子アルフォンス。
彼は舞踏ホールの中央に立ち、まっすぐこちらを見ている。
周囲には、数人の若い貴族たち。
そしてその少し後ろには――
リリア・フェイン。
平民の少女が、不安そうに立っていた。
すべての役者が、すでに舞台に揃っている。
レティシアは小さく息を吐いた。
広い舞踏ホール。
しかし今、この空間には音がない。
音楽も。
笑い声も。
囁きさえも。
ただ――
完全な静寂だけが、そこにあった。