神籍のトワ
石段の下。
女性は立ち尽くしたまま、境内を見上げていた。
蝋燭の小さな灯が、夜風に揺れている。
昔と同じ場所。
昔と同じ社。
違うのは、自分だけだった。
「……帰ってきちゃった。」
小さく漏れた声は、自分に向けたものだった。
スケッチバッグの肩紐を握る手に、力が入る。
石段を上がろうとして、また止まる。
十五年という時間は、一歩を重くするには十分すぎた。
そのとき。
社殿の前で蝋燭を見つめていた源蔵が、ゆっくり振り返った。
目を細める。
石段の下の人影を見つけても、驚いた顔はしなかった。
まるで、「やっと来たか」とでも言うような穏やかな表情だった。
「七海か。」
その一言だけだった。
責める声でもない。
驚く声でもない。
ただ、名前を呼ぶ声。
七海の肩が、小さく震えた。
唇を噛みしめる。
「……ごめんなさい。」
絞り出すような声だった。
「約束、守れなくて。」
「帰ってくるって言ったのに。」
「祭りの絵も描けなくて。」
「何もできなくて……。」
源蔵は、ゆっくり石段を下りていく。
一段ずつ。
急ぐことなく。
夜風が二人の間を吹き抜けた。
「腹、減っとるだろ。」
七海は目を瞬かせた。
「え……?」
「晩飯はまだなんじゃ。」
「みんなでそうめん茹でた。」
「一人増えても困らん。」
七海は思わず笑ってしまう。
涙でぐしゃぐしゃのまま。
笑ってしまう。
「そこは普通……。」
「『久しぶり』とか。」
「『元気だったか』とかじゃないの……?」
源蔵は肩をすくめた。
「顔見りゃ分かる。」
「元気じゃなかったんだろ。」
その言葉で、張りつめていたものが切れた。
七海はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。
十五年間、飲み込んできた涙だった。
トワたちは少し離れた場所で、その様子を見守っていた。
誰も近づかない。
この時間は、二人のものだから。
やがて源蔵が、そっと手を差し出す。
「帰っておいで。」
七海は何度もうなずいた。
涙を拭きながら、その手を取る。
「……ただいま。」
源蔵は、照れくさそうに笑った。
「おかえり。」
その瞬間だった。
境内を、一陣の風が吹き抜ける。
提灯が、からん、と揺れる。
社殿の屋根から舞い上がった一枚の桜の葉が、七海の足元へ静かに落ちた。
季節外れの桜だった。
白紙の本が、ゆっくりと開く。
文字が一行ずつ浮かび上がる。
記憶地点 星見町
消失率 一九% → 一四%
アオイが息をのむ。
「こんなに……。」
老人は静かに微笑んだ。
「『ただいま』という言葉には、不思議な力があります。」
「帰ってきた人だけではありません。」
「迎える人の心も、もう一度動き始めるのです。」
その夜。
社務所には、そうめんをすする音と笑い声が響いていた。
源蔵が薬味を取り分け、レンは大きな鍋を運ぶ。
スズは庭で採れた茗荷を刻み、さくらは麦茶を配っている。
七海は最初こそ遠慮していたが、いつしか昔話に笑い声を重ねていた。
食事の終わり。
七海はスケッチバッグをそっと開いた。
中には、新しい画用紙が何枚も入っている。
まだ、一枚も描かれていない。
七海は鉛筆を取り出し、境内を見つめた。
「……もう一度。」
静かに笑う。
「今年のポスター、描いてもいいですか。」
源蔵は、何も言わずに何度もうなずいた。
その目には、十五年前の少女ではなく、故郷へ帰ってきた一人の大人の姿が映っていた。
境内の蝋燭は、静かな夜の中で、変わらず優しく灯り続けていた。