神籍のトワ
翌朝。
山から吹く風は、昨日より少しだけ涼しかった。
社務所の縁側では、七海が画板を膝に乗せ、鉛筆を走らせている。
まだ下描きだけ。
それでも、一本一本の線には迷いがなかった。
境内の石段。
鳥居。
夏空。
木々の間から差し込む光。
十五年前と変わらない景色を、今の自分の目で描いていた。
その様子を、少し離れた場所からさくらが見つめていた。
「嬉しそう。」
トワも頷く。
「描きたかったんだね。」
七海は聞こえないほど小さな声でつぶやく。
「……帰ってきて、よかった。」
その頃、源蔵とレンは倉庫の整理をしていた。
古い神輿の部材。
太鼓。
紅白の幕。
箱を開けるたびに、祭りの時間が静かに顔を出す。
レンは提灯を一つ持ち上げた。
紙は少し黄ばんでいる。
だが、骨組みはしっかりしていた。
「これも使える。」
源蔵は笑う。
「昔は百個以上吊るしとった。」
「今は一つで十分じゃ。」
レンが不思議そうに見る。
「一つで?」
「灯が一つでもあれば。」
源蔵は提灯を撫でる。
「帰ってくる人は迷わん。」
その言葉に、老人が静かに頷いた。
「昔から道しるべは、多くなくてもよかったのです。」
「大切なのは。」
「そこに誰かが待っていること。」
午後になると、近くの集落から昨日の農家の女性がまた顔を出した。
「源蔵さん。」
「これ、よかったら使って。」
手には、手縫いの紅白の布。
「倉を片付けてたら出てきたの。」
「昔、婦人会で縫ったやつ。」
源蔵は目を細める。
「まだ残っとったか。」
その後も、小さな贈り物が続いた。
郵便局の青年は、倉庫に眠っていた木札を磨いて持ってきた。
小学生たちは家で見つけた折り紙を持ち寄り、「提灯に飾ろう」と言った。
誰かが大きな声で「祭りを復活させよう」と言ったわけではない。
それでも、「何かできることを」という気持ちが少しずつ集まり始めていた。
夕方。
七海が画板を持って社殿の前へやって来た。
「できました。」
みんなが集まる。
画用紙いっぱいに描かれていたのは、華やかな花火でも、賑やかな屋台でもなかった。
夕暮れの石段に、一つだけ灯る提灯。
その光へ向かって歩いてくる、小さな後ろ姿。
題名は、ただ一言。
「おかえり」
誰もすぐには言葉を発せなかった。
源蔵は静かに目頭を押さえる。
「これで十分じゃ。」
「十分すぎる。」
その瞬間、白紙の本が静かに開いた。
柔らかな光がページいっぱいに広がる。
記憶地点 星見町
消失率 十四% → 九%
そして、その下に初めて数字ではない一文が記された。
場所は、建物ではない。
「帰っておいで」と待つ心がある限り、そこは故郷であり続ける。
日が暮れる頃。
源蔵は石段の脇に、その古い提灯を一つだけ吊るした。
七海が火を灯す。
橙色の光が、静かに揺れた。
派手さはない。
音楽もない。
花火もない。
それでも、その灯は山道をやさしく照らしていた。
その夜遅く。
一台の車が神社の前でゆっくりと止まった。
県外ナンバーだった。
中から降りてきた中年の夫婦は、提灯を見上げて立ち止まる。
「……まだ、灯ってる。」
女性が懐かしそうにつぶやく。
男性は小さく笑った。
「子どもの頃、毎年ここへ来たな。」
二人は静かに鳥居へ一礼すると、境内へ歩いていく。
その姿を見たトワは、何も言わずに微笑んだ。
一つの灯が、また一人の「ただいま」を導いていた。