徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「……ごめんなさい、和樹さん。あんな大口を叩いたのに、私ったら」
「大丈夫ですから、気にしないで」
二人の視線の先、簡易な表彰台の上では、クリーニング屋チームが照れ臭そうに温かな拍手喝采を受けている。
結論から言うと、二人が表彰されることはなかった。
主観的な評価のため、何が悪かったと一概に言えるものではないが、強いて言えばゆかりが不調だったことが敗因の一つと言えるだろう。
いつもならば息ぴったりになるであろう場面で、真っ赤になって固まるゆかりに、最初は、和樹は心配になった。けれどそこにある法則を見出だしてしまってからは、緩んだ口許を戻せずにいる。
「和樹くん、負けたのに何だか楽しそうだね?」
「んぷっ。まさか! そんなことないですよ、マスター」
意外と鋭いマスターの言及に、思わず吹き出してしまう。それだけ気が緩んでるということだろう。和樹はそっと口の中で頬の肉を噛んだ。
「まあいいけど。閉会の準備をしなくちゃだから、僕そろそろ行ってくるね」
「はーい、行ってらっしゃい」
マスターを見送り、再び表彰台を見上げるゆかりの表情は穏やかだ。
賞品は欲しかったけれど、それはそれとして他の人の勝利は喜べる。ゆかりの懐の大きさに、やっぱりいいお嫁さんになれそう……いや、僕だけのお嫁さんにしたい。そう和樹は思った。
そうだ。ゆかりさんは理由がなければプレゼントを受け取ってくれない人だけれど、夫のものは妻のものだ。お嫁さんにしたら、プレゼントだって受け取ってくれるんじゃないだろうか。浮かれる和樹は、自身の思考が飛躍していることに気がつかない。
それはそれとして、と和樹はゆかりの横顔を盗み見る。ゆかりが欲しかった賞品とは何だったのだろう。なんとか理由をつけてプレゼントしたい。市販品であればいいのだが……。
そこまで考えていた和樹の目が、アナウンスを聞いて大きく見開かれた。
『おめでとうございます! 優勝賞品、ペア温泉宿泊券です』
「……は?」
温泉宿泊券? しかもペア? それがゆかりさんの欲しかったもの?
いや、待て待て。よく考えるんだ和樹。
ゆかりさんは賞品に興味があった。それがペア温泉宿泊券だった。問題はその使い道だ。ペアだからマスターと三人で行くことはできない。ならば誰かにプレゼントするか、あるいは誰かと行きたかった……?
そこまで考えたとき、脳裏に『酒屋のサクマ』が浮かんで和樹は顔を顰めた。
喫茶いしかわに通うようになってしばらくたつが『酒屋のサクマ』の話は聞いたことがない。だから普通に考えればゆかりにとってそこまで仲の良い相手ではなく、たまたま餅つきの時一緒にチームを組んだだけの可能性が高い。
けれど、と和樹は思う。
杵と臼とは男女を表し、餅つきは子孫繁栄を願って行われているとされる行事だ。
『ゆかりさんが旅行に行きたい相手は?』と考えた時、思わず頭に浮かんでしまったのはそんな理由だ。本当に危険因子でないと言えるだろうか?
「和樹さん? どうかしましたか?」
「いえ、なんでも」
和樹がなんでもないと言い切れば、ゆかりはきっと言及しないだろう。けれどそれでいいのだろうか。和樹はゆかりを手放せないと、手放さないと決めたのだ。ならば曖昧なまま進めるわけにはいかない。
参道を、冷えた空気に身を縮めながら、二人並んで下っていく。和樹の覚悟が伝染したかのように、ゆかりの空気も心持ちぎこちなかった。
「ゆかりさん」
「はい」
「宿泊券、当たったらどうするつもりだったんですか?」
悩んだ末、和樹は直球で確認することに決めた。回答次第で今後の身の振り方を考えなくてはならない。もちろん諦める方向ではなく、彼女に振り向かせる方向で。
「へへ。当てられなかったのに、言うのは恥ずかしいんですけど」
「そんなことありませんよ」
照れ臭そうに笑うゆかりに、和樹は焦れる。誰がゆかりにこんな顔をさせているというのだろう。さっき自分と餅つきをしながら照れるゆかりの様子に、ようやく自分を異性として意識してくれたのかと思ったのは、勘違いだったのだろうか。
「実はね、和樹さんに」
「僕に?」
「あげたかったの」
「は……?」
「最近とっても疲れてたでしょう。ゆっくりしてきて欲しかったんですけど」
「ゆかり、さん」
「当てられませんでした」
そう申し訳なさそうにするゆかりさんがたまらなく可愛い。お嫁さんにしたい。今すぐに。和樹の頭は完全に沸騰していた。
「マスターも、もうすぐコーヒーの仕入れと設備点検で喫茶いしかわが臨時で連休になるから、そのタイミングで和樹さんがお休み取れれば一緒に行かせてもらえば? って冗談で言ってくれてたんですけどね」
ゆかりの言葉に、和樹の耳がぴくりと動く。
「……本当に?」
「? はい。でも当たらなかったんだから、しょうがない──」
「いやぁ、嬉しいなぁ。ゆかりさんとの旅行! 楽しみですね、その連休っていつでしょう?」
「へ? え? あの、当たらなかったんですよ?」
「大丈夫です、実は『昨日顧客からたまたま譲られた温泉宿泊券』がありまして」
「わぁすごい偶然! よかったですね、和樹さん。私は当ててあげられなかったけど、これで温泉でゆっくりできますね」
「はい、行けますね。『ゆかりさんと』」
「……私と?」
「はい」
「聞き間違いかと」
「流されたらもう一度、いや何度でも言おうと思ってました」
「えええ……? 和樹さん、本気で私と行くつもりなんですか?」
「だって、ゆかりさん。僕のために当てようとしてくれたんですよね? じゃあ一緒に行く相手を決めるのは、僕ってことじゃないですか」
「ええと、そうなる……のかな?」
「そうなります。それに、マスターの許可は出ている。何をためらうことが?」
「ない、の、かな?」
「じゃあ早速これから、予定を決めていきましょう」
「へ、え、あれ?」
畳みかけるように話を進めたが、ゆかりの反応は芳しくない。
「……ゆかりさんは、僕とよりも、酒屋のサクマさんと行きたかった?」
「へ? 佐久間さん?」
「去年、一緒に餅をついたんでしょう」
「ええと。佐久間さんは御実家が和菓子屋さんだけあって、合いの手が上手でしたけど。でもそこまで親しいわけじゃないですし、今年はお孫さんが生まれて忙しいって言ってたから、しばらく旅行は無理じゃないかなあ」
「……お孫さんがいる?」
「はい」
「……女性?」
「はい、酒屋さんの奥様です。今年は娘さんのところに顔を出すからって、商店街の集まりには一度も来ていなかったし喫茶いしかわにもほとんど顔を出さなかったから、和樹さん、会ったことがないかもしれませんね」
「あー……」
つまり勝手に誤解して、勝手に面白くないと思っていたわけだ。そう自覚したとたん、今までの自身の行動全てが急に恥ずかしく思えて、和樹は頭を抱えたくなった。
まさか自分が、こんな凡ミスを犯すなんて。
恥ずかしいを通り越してショックでぼんやりしている和樹の手を、ゆかりの手がそっと握った。
「っゆ、かり、さ……」
「楽しみです、和樹さんとの旅行」
その瞳に確かな喜びを認めて、たちまち気分が浮上するのが自分でも分かった。
惚れた方が負けとはよく聞く言葉だけれど、きっと自分も彼女にはずっと敵わない。けれどそれは心地よい敗北で。
和樹はハレの日の空を見上げると満足げに笑った。