徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
喫茶いしかわの新年営業初日は、一月三日である。
午後一時から五時までの短時間営業だ。
メニューもかなり絞り込まれる。
コーヒーと緑茶、オレンジジュース。それから甘酒。
トーストと、ハムサンドと、ツナサンドと、それから雑煮と焼き餅(磯辺焼き)。
スイーツも、クッキーとミニパンケーキくらいしかない。
喫茶いしかわに通いはじめた当時の和樹が最初に年末年始の休業予定を聞いたときは、あまりの短さに驚いて、ゆかりに理由を聞いたものだ。
「ほら、お正月って帰省するじゃないですか。で、帰省したら同窓会みたいになったり、旧友や知人にご挨拶したりしますよね。このへん出身の皆さんにとってはここが帰省先のひとつなんですよ。喫茶いしかわの元常連客も少なくありませんしね」
そう言って朗らかに穏やかに笑うゆかりは、菩薩様やら慈愛の女神様やらが降臨しているかのごとき美しさがにじみ出ていた。和樹は思わず手を伸ばしそうになりつつも自重を思い出し、慌てて引っ込めた当時の自分の動揺ぶりを思い出した。
今年もまた、喫茶いしかわは一月三日からの営業だ。
テラス席にはブランと子供たちがいて、元常連客と一緒にふたつの石油ストーブを囲んでいる。
囲んでいる石油ストーブのうちのひとつでは、ヤカンがシュンシュンと音を立て注ぎ口から元気に湯気を溢れさせている。客は慣れた手つきでそのヤカンから、急須にお湯を注ぐ。この日のテラス席の緑茶はセルフサービスなのだ。
もうひとつの石油ストーブの上には、これまた常連客の慣れた手つきで、アルミ箔の上に乗せた切り餅が置かれていく。こちらも本日限りのセルフサービスで、好きな焼き加減に調整できる。
“おもち大好き”すぎる石川家のこどもたちは、切り餅が並ぶ石油ストーブを飽きずに眺めている。
この日の焼き餅は、テラス席でちょっとした世間話をしながら立ち食いしたり、アルミ箔に包んでテイクアウトし食べ歩くこともできるので、ひっきりなしに新しい餅が焼かれている。真弓も進も大興奮だ。「火傷するから絶対に触っちゃダメ!」と言い聞かせてはあるし、餅を焼く大人の目もあるから大丈夫だろうとは思うけれど。
おそらく、今日は早めにぐっすりだろう。
実は焼き餅の注文が途切れそうになると店内のシルバー世代の常連客が、子供(気分的には孫だろうが)の可愛い姿見たさに、雑煮用の餅をそちらで焼いてほしいと頼んでくることもある。
そんなときは、ゆかりにチラリと視線を向けられた和樹がいそいそと、雑煮用に小さく切った餅を焼きに行く。嬉しそうにもちを眺めるこどもたちに甘酒を勧めつつ、親子の触れ合いをするのだ。
和樹には見えないが、さりげなく子供たちの隣にわらしくんもいる。和樹もそれがわかっていて、甘酒はカップを三つ持ってきている。わらしくんは、他の客を驚かせないよう、和樹の背中に隠れてこっそり甘酒を楽しんでいる。
和樹が焼いていた餅は実は必要数より少し多く、こどもたちに食べさせる分と、わらしくんに頼んでお供えしてもらう分が混じっている。焼けた餅を石油ストーブから外して、次の餅を並べて、子供たちを呼ぶ。
「これが真弓の、これが進の分。でこれがわらしくんの分とお供えをお願いする分だよ。あとはよろしくね」
簡単に説明すると表情を緩めて、真弓と進の頭を順番に撫でて、店内に戻っていく。
「ゆかりさーん! 焼けましたよ」
「わぁ、ありがとうございます!」
「ところで、そちらのお客さまには僕お会いしたことないと思うんですけど、以前の常連さんですか?」
「はい! さんです。しばらく海外でお仕事されてて、先日帰国したんですって。奥様やお子さんにもお会いしたかったんですけど、体調を崩されてしまったとかで」
「ああ、既婚者の方だったんですね。安心しました。万が一ゆかりさんを狙う独身の方ならどうしようかと」
「なるほど。これが噂の」
「ちょっと楢崎さん、噂ってなんですか!?」
「10年くらい前だったかな? 大変だ! ゆかりちゃんが独占欲の強すぎるイケメンに掻っ攫われた! って大騒ぎした奴らがいてね」
くくくっと笑ってにやりとした楢崎が、ふっと真面目な顔つきになる。
「はじめまして、楢崎です」
「はじめまして。ゆかりの夫の石川和樹です」
「まさかご挨拶の前からいきなり牽制されるとは思いませんでしたよ」
「いやぁ、ゆかりさんはいまだに僕の最愛の妻だと知らない客に口説かれますからね。牽制のひとつやふたつ、したくなるというものです」
笑顔でそう言いながら、ワルツのリードでもするようにゆかりの手を引きするりとその身体と腕の中におさめ、額に唇を落とす。
「ちょっ……和樹さん!?」
真っ赤なゆかりさんはイチゴみたいに可愛らしいと思いながら、恥ずかしそうに瞳を潤ませる彼女に口元がゆるむ。
「ぅぅ……人前ではダメだって言ってるのにぃ……」
「つまり家ではこれが普通なのかい? ゆかりちゃん」
さらに赤くなったゆかりが「知りません!」と慌てて離れていった。
カロン、とベルが鳴り、ゆったりした足どりの客が入ってくる。
「あっ、大島のおばあちゃま、いらっしゃいませ! 明けましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします」
「ゆかりちゃん、明けましておめでとう。今年もご贔屓にさせてもらうわね。うふふ」
すっと席を立つ楢崎は、大島の前に立ち、小さく頭を下げる。
「大島さん、ご無沙汰してます」
「あらまあ、楢崎さんのところの。お久しぶりねぇ。相席してもいいかしら?」
「もちろん、よろこんで」
さらりとエスコートしてみせる楢崎に、彼の人となりの評価を一段階上げる和樹。
そうやって、あちらこちらで旧交を温める相席が相次ぎ、喫茶いしかわの一年は、地域のみなさまとの縁を結びつつも夫婦のアツアツぶりを見せつけながら(それを冷やかされながら)、ゆるゆると始まるのだ。