徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ぱっと花が咲くような明るさと天真爛漫さが自慢の彼女だが、たまにすべてのスイッチが切れてしまう日がある。
彼女の名誉のために伝えておくが、ほんわりとした雰囲気はあるものの、自己管理能力もしっかりと持ち合わせているのでスイッチが切れるほどの事態が起きることの方がもちろん稀なことだ。
ただ、彼女はお人好しすぎるきらいがある。だから、誰かに優しさを与えすぎてそれと引き換えに意図せずスイッチが切れてしまう、というのが正しい解釈だろう。
そのスイッチに気が付いたのは、ただの常連客のひとりとして喫茶いしかわに通っていた頃のことだ。
◇ ◇ ◇
慌ただしいランチタイムの最中、乱暴な音を立てて扉を開け放ち、どかどかと店に入って来たのは見慣れない飛び込み客の男だった。ドアの音がした瞬間から嫌な予感はあったが、ただの常連客としては何もしていないのに手出し口出しするわけにもいかず、様子を伺うしかなかった。
「いらっしゃいませ。お席にご案内いたしますね」
温かな笑顔を携えて案内しようとするゆかりさんを完全にスルーして、例の客は窓際のボックス席に一人で陣取ると、メニューも見ずに手と足を組みながら威圧的な声で言い放つ。
「コーヒーと食べもん!」
その姿を見て、最初の勘が確信へと変わる……いわゆる地雷と言われるタイプの客だ。
このタイプはただでさえ対応に難航するのだが、相手が女性だと余計に不遜な態度に拍車がかかるためできるだけ男が対応した方がいい。一見客なら僕が対応しても口八丁で丸め込んでしまえば店員じゃないとはバレない。そう思って彼女に視線を送り、変わろうとすると静かに首を振って
“大丈夫ですよ”
と言わんばかりのウィンクを送られてしまったので、このままカウンター席で待機せざるを得なかった。
やはり最初の予感通り、例の客といえば理不尽の一言に尽きる態度ばかりとっていた。彼女にはなんの落ち度もないのに、イライラしているのだろうか罵詈雑言の嵐を吐き続ける男に、一つ一つ丁寧に頷きながら、かと言って受け止めすぎず、ピリついた雰囲気を天真爛漫さで上手く包んで対応していった。
本来、自分は愛想が良くないが、営業の仕事や客商売に携わるときは誠心誠意お客さまをもてなすことを心がけて接している。だが地雷客は例外だし、失礼なことをする人間にはそれ相応の応対をしている。
そんな自分とは対照的に、どのお客さまにも心を砕いて接することができる年下の彼女の姿はひっそりと尊敬の念を抱いた。
そうこうしていると、いつの間にか地雷客の怒鳴り声はおさまっていて、キッチンへと戻ってきた彼女にすぐさま声をかける。
「ゆかりさん大丈夫でしたか? 僕が対応できれば良かったんですが……」
「えー? そんな……和樹さんが謝らないでくださいよ。元々お客さんなんですし。いつもはお任せしちゃうことも多いですけど。これくらい、どーってことないです! それに私、このお仕事けっこう長いんですよ? 慣れてますから、任せてください!」
胸にドーンと手をおきながら、にっこりと笑って見せた。
とはいえかなりなことを言われていたし、実は無理をしてるんじゃないか? そう思ってまじまじと見るが、表情に気を張っているような違和感はなかったし、案外打たれ強くて芯のある子なんだな、とこの時はそう思った。
緊急の買い出しから戻ったマスターとともに忙しいランチタイムを乗り切った後は、閉店まで落ち着いた時間が流れていったようだ。
(ようだ、とは後日マスターに聞いたためである)
例の地雷客のせいで頭から吹っ飛んでいたが、その日はゆかりさんから借りていた本を返すと約束していて、鞄の中にその本をしまい込んだままだったことを思い出した。
チラリと時計を確認すると、喫茶いしかわの閉店時間を過ぎていたが、幸いまだそれほど時間も経っていない。閉店作業中か、終わって帰宅の途についているか……僕の足ならおそらく追いつけるだろう。そう思って喫茶いしかわ近くの駐車場に愛車をおき、ゆかりさんのご帰宅ルートへと走り出す。
その途中にあるコンビニの近くを通りがかった時、視界の端に見覚えのあるマフラーが入って、速度を緩めるとイートインコーナーに彼女が座っているのが見えた。
“まだいてよかった。声をかけよう”
そう思って近づこうとしたが、彼女の顔が見えてきたとき、足を止めた。
おそらくレジ横にあるマシーンで淹れたのだろう、コーヒーの入った容器を両手に持った彼女はぼんやりと窓の外を眺めるわけでもなく、大きな瞳には何の色も写さず、ただただ心を空っぽにしていた。
いつもはくるくると表情を変えて、その時々の感情を豊かに表す彼女の顔から、一切の感情が消えているのが遠目からでもわかった。
罵詈雑言を浴びた時も、地雷客が帰った後も、おそらく仕事が終わった後も、一瞬たりとも彼女が顔を曇らせることはなかったからびっくりした一方であの言葉を思い出す。
“慣れてますから”
そう言って笑ってみせたのは本当に平気だったんじゃない。抜けているようで、よく気のつく彼女のことだ。あの場で僕をはじめ常連客が心配そうに彼女と例の客とのやりとりを見ていたことにきっと気が付いていたんだろう。
周りの人たちのことをよく見て、皆に心配をかけないように、かつ相手が傷つかないように気遣い、どうしたらみんなが笑っていられるかを考えて。自分のことを後回しにしてまで、頑張った彼女の健気さや不器用な優しさを意図せず偶然に見つけてしまった。
誰にも知られずに彼女がスイッチを切っている瞬間を知ってしまった。
けれど、自分はただの常連客でしかない。声をかけることも近づくこともできるわけもなく……。そのまま外から彼女の姿を見つめることしかできなかった。
コンビニから出てきた頃には女性の一人歩きが心配な時間帯になっていたので、彼女が無事に家に入るのをこっそりと見届けてから帰宅した。
だが、コンビニでの彼女の表情が何度も何度も頭をよぎって離れない。いつもなら、ただ出会っただけの人なら、こんなに気に留めることはない。すべてを割り切って、自分と切り離して考えることは得意な方だと思っていた。だが、彼女だけには自分の心を揺らされてしまっている。
姿を見た瞬間、本当はすぐにでも隣にいって、うなだれているその肩に触れたかった、頭を優しく撫でたかったし、その華奢な体を抱きしめて温めたかった……そんな自分の欲望を認めざるを得なかった。
もちろん、今の自分にはそんな権利など一切ない。でももし叶うならば……彼女のひだまりのような顔が曇る時は一番近くにいたいと、望んでしまう自分もいた。
とても叶いそうもない夢だな……そう思いながら、気持ちをかき消すようにベッドの上で目を伏せた。