徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
映画を観た後、向かったのは日本に初上陸したというパンケーキが有名なカフェ。パンケーキの他にエッグベネディクトも有名だそうで、目の前でメニュー表と睨めっこしている彼女はそんな二つで悩みに悩んでいる様子だった。
「ちなみにゆかりさん。ドリンクは決まってますか?」
「はい! ドリンクは季節限定のベルガモットオレンジにしようと思ってるんですけど……」
「そうですか。悩んでいるのはこの一番人気のパンケーキとサーモンのエッグベネディクトですよね?」
ゆかりが頷くのと同時に和樹は店員に目を向け声をかけた。それに気付いたゆかりが焦ったように和樹を見上げたけれど、それを華麗にスルーしてゆかりが悩んでいた二品とお互いのドリンク、ティラミスもついでに注文をする。以前、雑誌にこの店が載っていたのをゆかりが見せてくれた時に「ティラミスも絶品らしくて、それも食べてみたいんです」と言っていたことを思い出したのだ。ゆかりが食べきれなくても和樹は自分の胃の大きさには自信がある。問題ないだろう。
「ええぇ、いいんですか? わたしの好きなものしか頼んでないですよね?」
「いいんです。僕にとって重要なのはゆかりさんが美味しそうに食べてくれることですから」
正直言って自分の方がうまく作れると思うし、自身の手料理を食べてあのキラキラした目で褒めてもらった方が嬉しいけど、こうやってシェアして食べるのも悪くない。嬉しそうに笑う彼女が見られるならそれだけで満たされるのだから。
申し訳なさそうにしつつ、わくわくした顔も隠せていないゆかりが可愛くて仕方ない。ずっと可愛いとしか思ってない。可愛いって彼女のためにある言葉なのでは、と真顔になってしまいそうになるのを抑えて和樹は微笑んだ。
「今更なんですが、今日のゆかりさんは一段と可愛らしいですね」
もう彼女は可愛いの化身なのだから諦めよう。和樹はにこにこ笑みを浮かべ、ついに声に出してゆかりを褒め始める。本当は待ち合わせで会った瞬間から今日のゆかりがいつもと違った雰囲気で落ち着かなかったのだ。ざっくりとした淡いラベンダーのニットは首元もルーズで肩紐がレースになっているインナーが見えている。そういうデザインとわかっていても見えてはいけないものが見えている気がして、和樹以外のあらゆる視線から隠してしまいたくて仕方ない。
それにいつもは下ろされている髪が緩く編まれて片側に纏められている。顔の横に下ろされた数本の束がまた色っぽく見えて、それも落ち着かない。それなのに和樹を見上げるゆかりがあどけなく笑みを浮かべるのでそのアンバランスさがたまらなくそそられる。さすがにそれは口にはしないけれど。
「えへへ、ありがとうございます」
素直にお礼を口にしたゆかりに自分のために着飾ってくれているのだと実感する。ああもう可愛い。本当に可愛い。それが恋人の欲目であったとしても、和樹は世界で一番可愛いのはゆかりだと断言できると思った。
「うーん! どれもとっても美味しいですねぇ」
幸せそうに食べる姿を見て、和樹はお腹だけでなく心も満たされるのを感じた。前から思っていたけれど、ゆかりは本当に美味しそうにごはんを食べる。きっと作り手は本望だろう。こんなに美味しそうに食べてくれるのならどこにだって連れていきたいと思うし、何だって自分が作れるものなら作ってあげたいと思う。
エッグベネディクトとパンケーキを半分こしてもゆかりにはまだお腹に余裕があったようなのでティラミスはゆかりへとすべて渡した。それを美味しそうに頬張るゆかりが見られて大満足だ。ひと口大に掬って、小さな口に吸い込まれていく。その一連の作業をテーブル越しに見つめていれば、ティラミスをまた掬ったフォークがぴたりと動きを止めた。
「和樹さんも食べませんか?」
ゆかりがことりと首を傾げた。止まっていたフォークが和樹へと差し出され、和樹は戸惑ったように瞬きを繰り返す。ただそれはほんの一瞬で素直にぱくりとティラミスを口に含めばゆかりが「美味しいですか?」と問いかける。味わって飲み込んで、それから「美味しいです」と返事をした。そうしたらゆかりが嬉しそうに笑うので、ゆかりも和樹と同じように食べることだけで満たされるわけじゃないのか、と思い至る。なんだかゆかりのお手製ごはんが無性に食べたくなった。
ガタンゴトン、電車に揺られ岐路につく。行きと同じように和樹は遠回りでもゆかりの最寄り駅を一緒に目指していた。今度は駅前までではなく自宅マンションまで送るつもりだけれど。ゆかりは申し訳ないと言ったが、好きでやっているので僕のわがままを聞いてくださいと意見を押し通した。和樹さんはずるい、とゆかりが言ったけれど間違いない。和樹は押しに弱く優しいゆかりにつけ込んでいるずるい大人なのだ。
◇ ◇ ◇
ゆかりの住むマンションのエントランスが見えてきた頃、あと少しでデートが終わってしまうことにゆかりは寂しさを感じていた。こんなに一日中プライベートで一緒にいたのは初めてのことで、つい離れがたく思ってしまったのだ。でもゆかりも和樹も明日は仕事である。また約束を交わして同じように一日過ごせればいい。その日を楽しみに待てばいい。そう思ってもなかなか予定を合わせるのは難しい。お互いの仕事のスケジュールが原因であるが、ゆかりはそれを責める気などなかった。
お仕事を頑張っている和樹さんが好きだから。
それはゆかりの嘘偽りのない本音だった。でも寂しいと思う気持ちは別だ。それが溢れてしまったのか繋いだ手にゆかりは少しだけ力を入れてしまった。
「あっ、今日はありがとうございました」
マンションまで送らせてください、と言っていたのでここでお別れだ。手を離そうと力を緩めたゆかりと反対に和樹の手に力が入る。それは先程のゆかりの力よりずっと強い力だった。
ゆかりは和樹と向かい合い困惑したように和樹を見上げる。和樹は何も喋らない代わりにゆかりの頬へ節くれの手を伸ばし柔い頬を包み込んだ。手のひらは頬に添えたまま、親指がゆかりの唇を一度二度とゆっくり撫でる。そしてスローモーションのように和樹の顔がゆかりに近付き白い肌に影が落ちた。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
すぐに離れたぬくもりに思わずゆかりは踵を上げそうになって踏みとどまる。なんだか自分の方が求めているようで恥ずかしかったからだ。そのかわり、喉に引っ込んでいた声をどうにか音にした。
「いきなり、なに、するんですか」
「可愛かったので、つい」
和樹の顔があまりにも嬉しそうだから、ゆかりは耳まで赤くなってしまう。本当にずるい人。そんな嬉しそうな顔をされたら本当に離れたくなくなっちゃうじゃないか。
「このまま、帰したくないなあ」
ゆかりの心の声が言葉になってしまったかと思った。和樹が先ほどのゆかりの行動に気付き、ゆかりの本音を代弁したのかと思ったけれど、和樹の瞳を見てこれは和樹の本心だと知る。
熱を孕んだ瞳がゆかりを見下ろしていたのだ。そのじっとりとした視線にゆかりの背中にぞくりと電流が走り抜ける。
「……お茶、飲んでいきますか」
ああ、抗えない。和樹も、ゆかりも、今日をまだ続けたいのだ。
「……是非」
遠慮したような言葉とは裏腹に和樹の顔に浮かぶ笑みは歓喜に沸いている。
いまだに繋がったままの手を離すことなく二人はお互いの手を強く握りしめて今日をまだ続行させる気だ。
二人の夜がどう明けていくのか、知るのはふたりのみである。