徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
長田は、その光景を見慣れていた。
しかしながら新しく配属された新米は、まだそれに慣れていないため毎度のように驚いていた。いや、むしろ引いていた。
「ゆかりさんのご飯が食べたい」
「ゆかりさんを抱き抱えて寝たい」
「舌足らずの声で“かーずーきーさーん♡”って言ってほし」
「妄想じゃない僕の妻ゆかり……」
「なんでそうなったのに俺はまだ仕事してるんだよ……」
和樹はたまに壊れる。
その原因は、仕事が終わらなすぎて妻のゆかりを欲しすぎてしまうからだ。
なんとか彼の機嫌を良くしようと、色んな者が前に出るが、
「あー、喫茶いしかわに行きたい」
「……ごめんなさい、自販機のコーヒーで」
「ここの数値間違ってる」
「ごめんなさい」
「腹が減った」
「石川さん! 肉まんいります?」
「いる、こんだけの資料じゃ足りない。よくこれで提出できると思ったな? やり直し」
「すみません」
と、指摘を受けて肩を落して去るのであった。
和樹が嫁不足だからといって仕事が疎かになることはまずない。ちゃんと仕事は真面目にする。至極真っ当な指示も出す。ただ、三徹を超えた当たりから二言目には必ず「ゆかり……」と発するのである。
もちろん作業効率も決して下がらないので、もはやそれは『当たり前の和樹+ゆかりを恋しがる和樹』という感じになっていた。
そんなことなので部下にとって石川ゆかりという人物はどんな女性か、とても気になる問題であった。というかまずこの人が妻がいることに、聞いた最初は驚いたのだ。
眉目秀麗、才色兼備、その他ありとあらゆる褒め言葉を詰め込んだようなエース格。頭はキレるは実践も百戦錬磨だは、イロイロと噂は多い。それなのに自分の嫁に首ったけ。
和樹の溺愛っぷりを知った定年間近のオヤジなど「なるほど、『足駄をはいて首ったけ』とはこういうヤツのことか』としたり顔で頷いていたものだ。
とある新人がそんな状態の和樹に興味を持った、そんなお話をひとつ。
「ねぇねぇ石川さん」
「なんだ」
その新人はとてつもなく怖いもの知らずだ、名前を晴田晃という。有望株で、頭もすこぶる良い。二重がはっきりして短髪の、甘いマスクの晴田はどこかのアイドルにいてもおかしくないような風貌である。
そしてもう一度言うが、ゆかり不足の和樹に話しかけるなんて怖いもの知らずもいいところなのだ。
周りの同僚はみんなこのあと落雷が落ちると危惧していた。
「ゆかりさんてどんな方なんですか?」
長田はそっとその場から離れようと覚悟を決めた。部下が絶対的上司に恋バナをさせようとしているのである。これほどに怖い光景はない。
晴田はというと、ワクワクして和樹に向き合っている。これは人と仲良くなるのが早いという晴田の長所が出てきたか。逆に取れば三徹ごきげんナナメの上司に話しかける空気の読めなさとも言えるが。
「晴田」
和樹はクマを作った顔を晴田の方に向けた。これは、ほかの部下たちと同じように
「お前も、これやり直しなんだからそんな馬鹿みたいな話すんな。高校生じゃあるまいし」
と一蹴されるだろう、もしかしたらブチギレるかもしれない。皆がそう覚悟したときであった。
「ゆかりさんは天使だ」
晴田を睨むように、茶化す様子もなく大の大人が大真面目にそういった。
「詳しくお聞かせ願えますか?」
その答えに満足したようで晴田もその様子に怯むことなく、まるで刑事の取り調べのように質問を続けた。
「まずなんといっても彼女からはマイナスイオンが出ている」
「ほぉ」
「この写真を見ろ」
私用のスマホをタップして、ある写真を晴田に見せた。
「え、この方がゆかりさんですか」
「あぁ」
「なんというか、その、意外ですね」
「は? 僕のゆかりが可愛くないとでも言うのか?」
晴田の言葉に不快に感じたのか、じろりと怒った視線を飛ばす。さすがの晴田もこれには焦る。
「い、いえ、そんな可愛いっす。なんていうか石川さんのイメージってセクシーなお姉さま? みたいな方が隣にいそうだと思ったので」
「そういうタイプは俺には合わない。この写真を撮った時、ゆかりなんて言ったと思う?」
その質問の答えを見つけようと、晴田は和樹のスマホを再度じっと見つめた。ゆかりが大きく口を開けている犬を抱えて、ゆかり自身も大きく口を開けている写真だ。
「……何か叫んでるんですか? 奥さん」
「甘いな晴田、 正解は……『完全に一致』だ」
和樹の言葉の意味がわかった途端、急に晴田はバカのように笑い出した。周りもその写真がとても気になりソワソワしながら作業を進める。手を止めればそのキーボードを打つ手から和樹にサボるなと叱咤されるからだ。
「ゆかりの写真を撮ろうとしたとき、ちょうどブラン……犬が大あくびをしたんだ。それを察知したゆかりは犬を持ち上げて“今がシャッターチャンスだよ!”と言って彼女も大口を開けた」
ちなみにと、画像をスライドさせて違う写真を表示する。
「ははははっ! これは!」
「ゆかり曰く、傑作らしい」
その写真は先程の写真をゆかりが加工したものだった。犬耳を書いたゆかりが、“徹夜で眠い和樹さんだワン”と吹き出しをつけて目の下にくっきりとクマを書いている。
「今の石川さんじゃないですかー」
「まさしく!」
でもこれを見たら癒されるだろ? とふっと優しい表情になって和樹はスマホを見つめた。
「やー、でも俺石川さんがこんな方だと思ってなかったんですよ!」
「こんな方ってなんだ?」
「こんなに一途に女性を愛してる方……あ! 別にそんな石川さんが冷酷な人間とかそんなんじゃないっすよ!? ただ、俺がここに配属されるとき上司から『石川が言うことは絶対的だ』とか『もはや人間卒業した人』とか噂で聞いてたんで、言っちゃ悪いかもですけど、もっとカリカリしてんのかなーって」
皆が心の中で「次こそ怒られるぞ、晴田!」と冷や汗をかいた。
「あー、でもあながち間違ってない」
和樹はガシガシ頭をかいて続ける。
「ゆかりさんに出会う前は、僕は多分自分でいうのもなんだがあまり感情を持たないような人間だったから……その方が色々効率いいんだよ。だけどゆかりさんは僕が閉じ込めていた僕自身を溶かしてくれたんだ」
喫茶いしかわって分かるか? と和樹は晴田に尋ねた。
「石川さんがよくコーヒー飲みたいと言ってる喫茶店です」
「最初は僕も先輩に連れていってもらったんだが、彼女はそこにいたごくごく普通の店員だった。割り切っていたはずなのに彼女の存在が大誤算。いつしか勝手に足がそこに向かうようになった。ごく普通の喫茶店員に恋するなんて思いもしなかった」
ふぅと一つ息をつくとゆかりのことを思い浮かべた。彼女は今何をしているんだろう。予定ではそろそろシフトを上がる時間を迎えるはずだったか。
「石川さんにとってゆかりさんは運命の人だったんですね!」
晴田は元気に相槌をうち、顔はとてもニコニコしていた。絶妙にうさんくさい笑顔だ。
「……お前何を企んでる?」
「っやっぱり聡いっすね、石川さん」
その時だった。この部屋に激震が走ったのは。
「あの~晴田さん? いらっしゃいます?」
「あっ俺ですー」
男所帯のこの部署に突然響き渡った優しそうな女性の声に、作業をしていた男たちは一斉にそっちを見た。
「ゆかり……」
「え! 和樹さん!? なんで!?」
和樹の姿にびっくりしているゆかりが持ってきたカバンを受け取り、晴田は一枚のお札をポケットから出し、ゆかりの手を取って渡した。
「お釣りはいりません♪ ちゃんと車で来てくれましたか?」
「え、ええ。あなたと電話を終わったあと鉄平くんが晴田さんもその同僚さんたちも喫茶いしかわのお得意様だし、配達しあげたらって……」
「じゃあ」
くるりと振り返り、晴田は奥の和樹の元に歩いていく。和樹はポカンとして口を開けたままだった。
「この人も連れて帰ってあげてください」
「は? お前まだ仕事が!」
「石川さん」
晴田は和樹のデスクを指した。
「ここにあった山、無くなってますよね? 俺もうやりました、あとはここのみんなでやったら二時間もあれば終わります。あっもちろんこのコーヒーは俺らのしかないですよ? 石川さんは家に帰って奥さんのごはん、食べてください」
いつの間に……晴田はこんな軽い感じだが、同じ時期に配属された誰よりも仕事ができる人間だった、だからこそこの部署にいるのだが。
末恐ろしい若造だ、と長田はその光景を見つめていた。
「お前、なんで喫茶いしかわを……」
「あんだけ石川さんが喫茶いしかわ喫茶いしかわ言うから気になって調べてしまったんですよ。電話して場所伝えたら、配達やってないって言われましたが、ちょうど喫茶いしかわに居合わせた鉄平が俺の名前聞いたら特例で行ってあげてって言ってくれたようで。まぁ俺一応あいつ知り合いだったんで好都合でした。ということで……」
晴田は和樹の腕を引っ張り立たせて、ゆかりの元へ押し出した。
「あとは俺らに任せて石川さんは奥さんと帰ってください。ちゃんと何回も見直して、石川さんに怒られないもの作っておきますんで」
さぁ行った行ったと、晴田は二人の背中を押してその部屋から押し出した。
「ゆかりさん?」
エレベーターに乗りこんだ和樹は、まだこの場所にゆかりがいることが信じられなかった。恋しすぎて自分が幻を見ているのかと思った。
「和樹さん!」
ゆかりは背伸びして、和樹の両頬をびょーんとつねった。
「また痩せてる! クマもできてるし髪の毛もボサボサ!」
「ずみまぜん」
「受付で場所だけ聞いて行ってみたら……和樹さんがいるとは思いませんでした。あのね、仕事されている後輩さんたちを置いてる中、悪いと思うんだけど……和樹さんに会えて、すごく嬉しい」
内緒話をするようにゆかりは和樹の耳に囁いた。
距離が近くなったことで香るゆかりのシャンプーの香りと、ダイレクトにくるゆかりの声を聞いた和樹は
「あーもうめっちゃ可愛い!」
と言って、扉が開く一秒前まで妻の唇を堪能するのであった。
「和樹さん、今日の晩ごはん何にしましょう?」
「ゆかりさん」
「もう! 違う!」
「じゃあゆかりさんのコロッケ、その後ゆかりさん」
会社から出て、近くのパーキングに止めたというゆかりと和樹は手を繋いで歩いていた。
「……ごはんと、お風呂の後ね」
恥ずかしながらもそう答えたゆかりに
「好きです」
と自然と口に出た和樹は所構わずゆかりに抱きついたのだった。
「あははっ知ってます。私もですよ」
そう言ってポンポンと和樹の大きい背中を撫でたゆかりだった。
「晴田」
長田はデスクに向かって喫茶いしかわのホットコーヒーを飲みながら作業に戻った晴田に声をかけた。
「なんであんなマネしたんだ?」
さすがに、人懐っこい晴田とはいえ、和樹にあんな行動するのは自殺行為である。
「見ます? これ」
口元から笑いが止まらない晴田は書類の束を長田に渡した。
「これ全部、直筆サインの欄に『石川ゆかり』って書いちゃってるんですよ。もうこれ見たら早く帰らせてあげなきゃってなっちゃって」
長田は渡された資料をざっと見て、綺麗に全部『石川和樹』と書くべきところが『石川ゆかり』になっていたことに、つられて笑う。
「とんでもない愛妻家ですね、和樹さん」
さぁ、残りやりますかと言う後輩に感謝しなければと感じる長田であった。