徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
明日の朝に食べようと思っていた鮭の切り身を取り出したゆかりは、骨抜きする必要がないお魚を購入していてよかったと過去の自分を褒めながら、さっそく調理に取り掛かる。
取り出した鮭は半分に切り、塩を少々振って揚げ網の上で水気が出るのを待つ。その間に、キッチンの調味料コーナーを覗いた。あるのは刻み海苔、天かす、それから塩昆布もある。みつ葉があれば最高だったが、残念ながらない。けれど、カウンターの隅で育てていた、青々と茂ったカイワレダイコンが半分も残っていた。それで十分すぎるほどだ。
炊飯器の中のご飯の量を確認して、盛り付けるためのどんぶり茶碗を取り出した。
和樹は意外に、結構な量を食べる。自分と比べてしまえばそらそうだ、という感じだが、同じ男性であり年の近い兄と比べても、和樹は食べる方だと思う。ゆかりは同棲を始めた当初、存外大食いであり、しかもそれだけ食べても太らず、引き締まった身体を維持する和樹に、まるで運動部の男子高校生のようだと驚いたことを覚えている。
驚いたと言えば、和樹が和食好きだったことも意外だった。
普段飲むのはコーヒーより緑茶。飲むお酒は洋酒より日本酒。料理には凝っていて、出汁の作り置きまでしていると知った時は、結婚して帰ってくる彼に振る舞うのが私の手料理なんかでいいのだろうか、と不安に思ったものだ。出汁なんて、自宅では市販のものを活用することのほうが多かったのだから。
それも今では、ゆかりも和樹に習って出汁の作り置きもするし、手際よく作れる和食のレパートリーだって増えているのだから、慣れとはすごい。料理の腕が和樹より勝っているとは言えないが、ゆかりも負けじと料理の腕を上げていた。
「それなのに、久しぶりに振る舞うのが“お茶漬け”なんてねぇ」
ゆかりは苦笑しながらも、簡単だからこそ凝るところは凝ってやる、と意気込んでいた。
五分ほどして、浮き出た水分を取り除いた身にお酒を少し振る。振りかけるお酒も、料理酒ではなく日本酒。これも和樹に習ったのだ。お酒を馴染ませたら、また少し時間を置く。今回は時間がないことだし、五分くらいでいいだろう。その間にグリルのスイッチを入れた。
「何かもう一品くらいあったほうがいいかしら」
うーむ、と再度唸り、あ、とゆかりは再び冷蔵庫を開けた。
「揚げ出し豆腐にしよう!」
ゆかりはさっそく豆腐を半丁だけ用意し、それを四等分に切り分けた。夜中なので、あくまで量は少なめだ。
揚げ出し豆腐を作る際、本来は最低でも二十分は水きりをしなければならないのだが、ゆかりは「ふふふん。必殺技があるのよねぇ」と鼻歌を歌いながらキッチンペーパーで切った豆腐を包み、それらを耐熱皿に乗せた。それを電子レンジにセットする。二、三分加熱してしまえば、簡単に水切りできてしまうのだ。ちなみにこれは和樹から習ったものではない。
少し得意に思いながら、フライパンに少し多めに油を入れ、火をかける。そうこうしているうちにグリルも温まったので、鮭を焼き始めることにした。
料理というのは一度にいろいろ進めなくてはならず、忙しい。一瞬の油断が命取りになるのよ、とゆかりは自分に改めて言い聞かせ、てきぱきと手を動かした。
鮭は、弱火で焼き目がつくまでじっくりと焼く。鮭を焼きながら、電子レンジから取り出した豆腐に片栗粉をまぶした。それから、先ほど熱した油にお箸を入れ、温度の具合を確かめる。
「よし」
ゆっくり、豆腐を油の中に入れていく。こうして、一面ずつ揚げ焼きにしていくのだ。じわじわ、油が小さく跳ねて、美味しそうな音がしてくる。その間にもう一度グリルの中の鮭を確認し、冷蔵庫から作り置きの出汁を取り出して小さな鍋に移した。
まだ火にかけるのは早いだろうと、コンロの上に待機させておく。
その間も休む暇はない。大根大根、と冷蔵庫の中から使い掛けの大根を取り出し、少量をすりおろしていく。それから、こちらもまた使い掛けの刻みねぎを取り出した。最初から刻んであるのを買ったものとまるわかりだったが、まあこれくらいは目を瞑ってもらう。
それから豆腐をひっくり返し、黄金色に色付いたのを確認して、グリルの中の鮭をひっくり返した。鮭はここから焦げないようにさらに注意しなくては、とゆかりは慎重にグリルの中を覗く。鮭の焼ける香ばしい匂いが部屋に漂ってくる。
鮭がもう間もなく焼き上がる。豆腐もそろそろ揚げ終わる。
(これでちょうど和樹さんが……)
瞬間、ペタペタと足音が聞こえて、はっと顔を上げた。ちょうど和樹がリビングへと戻ってきたところだった。濡れた頭をタオルで拭きながら、こちらを見た和樹に、ゆかりは満面の笑みで親指を立てた。
「ナイスタイミング!」
一瞬虚を突かれたあと、はは、と笑い出したスウェット姿の和樹が、対面キッチンの向こう側に立つ。
「何作ってるの? 良い匂い」
「ふふ、なんでしょう! 今すぐ持っていくので、座っててください」
「はーい」
素直な返事に、さてと、とラストスパートをかける。揚げ終わった豆腐を揚げ網に置き、油を切る間に用意していたどんぶり茶碗に白米を盛りつける。その上に、グリルから取り出した鮭を盛りつけた。
「あっ、お出汁!」
慌てて待機させていた鍋に火をかける。量は少ないので、すぐに温まるだろう。
ほっとしながら、出汁を火にかけている間、刻み海苔、天かす、塩昆布。それから、収穫したてのカイワレダイコンをそれぞれ少々。鮭の横になるべく綺麗に盛り付けていく。それから小皿に揚げ出し豆腐を盛り付け、そちらにはおろしていた大根と刻みねぎを乗せる。くつくつ、ふつふつ。温めている出汁から良い香りがふわりと漂う。
温まった出汁を、茶碗に静かに注ぐ。ふんわりと白い湯気を立てるそれに、夕飯を食べたはずのゆかりもその香りに思わずうっとりと溜息を吐いた。それから、少し残した鍋の中の出汁に、醤油とみりんを加えてひと煮立ち。それは揚げ出し豆腐の方へと注ぐ。