徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「まさか、それを着て行くつもりじゃないですよね?」
何とか息を整えて和樹が恐る恐るそう聞くと、そんなことを聞かれると思っていなかったのか、ゆかりは目をぱちくりとさせた後、声を出して笑い出した。
「やだ、そんなわけないじゃないですか。だって、学生と言っても中学生の時のですよ? さすがにサイズが合わないですよ」
「え。じゃあ、サイズが合えば着てくれる……ゴホンッ、着るつもりだったんですか?」
つい出てしまった本音に、急ぎ顰め面を作って咳払いして何とか誤魔化してそう聞くと、ゆかりは「う~ん」と腕を組んで考え込んだ。
何故、そこで考え込む。そう冷静に思いながらも、ドキドキと高鳴る胸の鼓動は誤魔化しようがなかった。
いつの間にか足元に来ていたブランがじっとこちらを見上げているところを見るに、彼にはどうやら自分の心が読まれているようだ。最近は彼女の騎士のような動きを見せるブランだ。気を付けないと、強烈なタックルを喰らうことになるだろう。
その一方で、和樹の考えていることなど露ほども悟ることのないゆかりは視線を上にやりつつ言った。
「中学卒業してから一度も着たことがないので、実際のところまだ着られるかどうか分からないんですよね。でも、その頃より身体は成長してるし、着られたとしてもきっとピッチピチですよ。それはさすがに、みっともないですよね?」
「いや、それもありだと、寧ろいい……」
「え?」
「いえ、さすがにそれはやめた方がいいと思います」
「ですよねー」
ウフフと笑うゆかりに、貼り付けたような笑みを浮かべながら、内心『あっぶねぇ』と再び漏れてしまった本音に心臓はバックバクだった。
自分の性癖に新たなる道が開かれそうになるのを全力で阻止しつつ、『なんだ、結局着ないのか……』と一瞬でもガッカリした自分を二度と再び立ち上がれないようにぶん殴って地下深くに埋めた。
気のせいか、途中、ブランが頭突きするように足元にまとわりついていたが今は治まっている。まだ何もしてないんだから怒るなよと思いつつ視線を下に落とすと、じっとりした目で睨まれた。
それにしてもこれはいったい何の試練なんだと思いながら額に浮かんだ嫌な汗を拭う和樹の隣で、ゆかりは無邪気に笑っている。
「それに、胸のところに『3年1組石川』って大きく書いてあるんですよ? 恥ずかしくて着られませんよ。……ハッ! でも、救助が必要になった時に目立っていいかも!」
「ゆかりさん……まずは救助が必要な状況にならないように注意してほしいですし水着は明日にでもすぐ買いに行けば問題解決ですからスクール水着だけは絶対にやめてください」
もうこれ以上、自分の頭の中が穢れ切った妄想で埋め尽くされる前にと、和樹は息継ぎせずに一気にそう言った。
何故か肩でゼーハーと息をしている和樹に首を傾げつつも、ゆかりは素直に頷いた。
「そうですね。そうします」
「ええ、そうしてください、是非とも」
この数分間で一気にやつれた……そう思いつつ、和樹は最後の気力を振り絞って微笑んだ。
「そういえば、聡美ちゃんも遥ちゃんも水着を新しく買ったそうです。それをちょっと参考にしてみようかなぁ」
そう言いながらスマートフォンを取り出して検索し始めた。
何はともあれスク水だけは避けられたと安堵したのも束の間、「あ、これです」と画面を見せられた和樹は、一旦休もうと目を閉じた。
「あれ? 和樹さん? お疲れですか?」
「……大丈夫です。けど、その水着はやめておきましょうか」
そう言って薄らと目を開けた和樹の視線の先には、カラフルなブラジリアンビキニが映し出されていた。よりによってそれか! と思いながら頭を抱えていると、ゆかりが訝しげな顔をしながら画面を確認した。
「ぅわぁっ! 違う! これじゃないです。違うところタップしちゃったみたい。こんな布少ないのなんて恥ずかしくて着られません。無理ですよ無理っ」
「良かった、違うんですね。本当、良かった……」
顔を赤くして慌てるゆかりに、スク水の後に更なる強敵が現れたかと内心焦ったが間違いで良かったと心底ホッとして、しかし、もう気力がゼロなので手加減してほしいと思いつつ再び検索し始めたゆかりを見守っていると、「あ、これです。今度こそ間違いありません」と画面を見せてきた。
「遥ちゃんお勧めのオフショル。可愛くないですか?」
「……ハァ」
「あれ? あんまり反応良くないですね。ダメですか? 可愛いのに。じゃあ、このワンショルは?」
「オフショルがダメなのにワンショルがいいなんて言うわけないでしょう」
「えぇ……難しいなぁ。じゃあ、聡美ちゃんお勧めのビスチェでどうです?」
「……」
「あれ? 寝てます?」
「起きてます。というか、なんで見せるもの全部ビキニなんですか」
反応のない和樹の顔の前で手をひらひらと振ってそう言ったゆかりに、和樹は溜息交じりでそう言った。
「だって、聡美ちゃんも遥ちゃんもビキニなんですもん。……あ、そうか。私みたいなおばさんがビキニはまずいですよね」
「ゆかりさんがおばさんなら僕はどうなるんですか。そういうことではなくて、もう少し肌を露出しないものの方がいいんじゃないかって話ですよ。ゆかりさん、日焼けしやすいでしょう」
「ああ、なるほど。そういうことですか。でも、日焼け止め塗りますし、大丈夫ですよ。それに、どうせ着るなら可愛いのがいいですもん。だって初めての水着ですからね」
目をキラキラさせてそう言ったゆかりに、和樹はまた溜息を吐いた。
「……ちょっと携帯貸してください」
そう言ってゆかりの手からスマートフォンを取り上げると、慣れた手つきで検索して画面をゆかりに見せた。
「これなんていいんじゃないですか?」
「……え。これ、本当に水着ですか? このままコンビニにも行けそう」
「ラッシュガード。着たまま海にも入れますし、日焼けも体温低下も防いでくれる優れものです。どうしてもビキニが着たいならこの下に着たらいいんじゃないかと」
「へー、そうなんですか。今はこんなのもあるんですね」
「じゃあ、これで決定ということで」
「でも、せっかく水着買ってもこの下に隠れてしまうともったいない気が……ん? 見えないなら別にスクール水着でも」
「もうその問題取り上げるのやめてください僕の身がもちませんから本当にやめてくださいお願いします」
再び浮上してきたスク水問題に悲痛な表情で捲し立てるようにそう言うと、ゆかりは目を瞬かせた。
「どうして和樹さんの身がもたないんです?」
「……とにかく、もうこれでいいでしょう。ビキニも着られるんですから」
一つ咳払いして和樹がそう言うと、ゆかりは腕を組んで唸った。
「でも、せっかくビキニ着たのに隠しちゃうんじゃ意味ないですよ」
眉を寄せて不満げにそう言ったゆかりに、和樹は言い聞かせるように「いいですか? ゆかりさん」と優しく微笑んだ。
「今年はクラゲが多いんですよ。このラッシュガード、なんとクラゲのような有毒生物からも皮膚を守ってくれるんです。それにセットで買うと何を合わせればいいのか迷わなくていい上に、単体で買うよりも二十パーセントもお買い得。今流行りの花柄からカラフルな色まで豊富に取り揃えられていますし、もうこれは買うしかないでしょう」
「和樹さん、なんだか通販番組の人みたいですね」
本当、いろんなことができるんですね、つい買ってしまいそうになる話術でしたよとなぜか感心されたが不本意だと思っていると、ゆかりのスマートフォンからピロンッとメッセージ受信を伝える音が鳴った。
「……あ、聡美ちゃんからだ」
和樹に返してもらって画面を確認すると、聡美からのメッセージが表示されていた。
「どうしました?」
画面を見つめたまま目を何度も瞬かせているゆかりに和樹がそう聞くと、勢いよく画面から顔を離して満面の笑みを浮かべた。
「聡美ちゃん、鉄平くんと約束通り海に行けることになったそうです」
「そうですか。良かったですね」
「はい。本当、仲直りしてくれて良かった」
心底嬉しそうにそう言ったゆかりに、人のことを自分のことのように喜ぶ姿がなんだか眩しく見えて和樹は目を細めた。
「和樹さん」
聡美へ返信のメッセージを打つ手を止めてゆかりは顔を上げると、
「そういうわけで、月曜日に海に行くのはなしになりました。もともとは聡美ちゃんと鉄平くんが行く予定でしたしね。私も遥ちゃんもお邪魔になっちゃうんで」
ウフフと笑いながらそう言って再びメッセージを打ち始めた。
和樹が嬉しそうな顔でメッセージを送っているゆかりを見ていると、ブランが足に体を摺り寄せてきた。彼の尻尾がブンブンと振られているところを見ると、『よくやった』とでも言っているのかもしれない。
実は先ほど和樹がメッセージを送った相手は鉄平だった。
『君が丹精込めて育てている直射日光厳禁の花が、約束の日に焼けて枯れてしまうかもしれないよ』とだけ送っておいたが、すぐに察して聡美に謝りに行ったようだと、和樹はほくそ笑んだ。
「それにしてもいいなぁ、海……」
メッセージを送り終わったゆかりがぽつりとそう言った。
「泳げないのに?」
少し揶揄ってそう聞けば、ゆかりは唇を尖らせた。
「苦手なだけですぅ。浮き輪があれば大丈夫ですぅ。そういう和樹さんはどうなんです?」
「僕が泳げないと思いますか?」
余裕たっぷりのその笑みにゆかりは悔しそうに顔を歪ませた。
ゆかりは、自分はこんなにも欠点だらけなのに、どうしてこの人は完璧なのだろうかと、天は二物を与えずなんて嘘だと叫びたくなった。何か言い返してやろうと思案するも何も浮かばず、ぐぬぬ……と呻くと「いいえ」とこれまた悔しそうに首を横に振った。
そんなゆかりに笑うと、和樹は言った。
「海に行きたいですか?」
「そうですね。最初は付き添いのつもりだったんですけど、話しているうちに楽しそうだなぁって」
「じゃあ、行きますか? 今度の金曜日に」
「……え」
目をぱちくりとさせたゆかりに和樹は苦笑しつつ言った。
「だから、行きますか? 海に」
「海に?」
「そう、海に」
「誰と?」
「ゆかりさんと僕の二人で」
先ほどとは逆の立場での会話の遣り取りに顔を見合わせて二人で笑い出した。
「あ、でも、せっかくのお休みなのに……」
体を休めた方が……と言おうとしたゆかりの唇にそっと人差し指を押し当てた。
「ゆかりさんと過ごすのも僕の心を休めるのに大切な時間です。体を休めろというのはなしでお願いしますよ?」
そう言って笑った和樹に、ゆかりは「は、はい」と顔を真っ赤にしながら頷いた。
「じゃあ、その日までに水着買いに行かなくちゃ。えぇっと、ラッシュガードでしたっけ?」
「ああ、それはもういいです。ビキニでもオフショルでもビスチェでも好きなものを着てください」
「え? なんで? だって、日焼けにクラゲは?」
「日焼け止めなら僕が塗ってあげますし、クラゲが少ない海に行けば問題ありません。実はほぼプライベートビーチ状態の穴場を知ってるんですよ。そこに行きましょう」
「へー、そんなところがあるんですか。楽しみです。けど、日焼け止めは自分で塗るので結構です」
「そんな、遠慮せずに。ムラなく隅々まで塗ってあげますよ」
ニッコリ微笑んで距離を詰めてきた和樹に身の危険を感じて遠ざかろうとしたが、いつの間にか腰に添えられていた手によって制された。
和樹が顔を近づければ、ゆかりの真っ赤に染まった顔がヒクリと引き攣った。
再び後ろに下がろうとしたゆかりの腰をグイッと引き寄せた。
鼻先がぶつかりそうなほど距離を詰めて見つめれば、ゆかりの顔は更に赤く染まった。
さて、今日はどこまで仲良くできるかと考えていると、抵抗を諦めたのか、ゆかりがそっと目を閉じたのを見て、知れず口元がニヤリと歪んだ。
和樹は、待ち侘びるように薄らと開いた唇に溢れんばかりの愛情をこめてキスを落とした。