徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「えっ」
時刻は午後十四時二十分。ランチタイムのにぎわいも落ち着いた頃。
休憩中のゆかりがアイスコーヒー片手にスマホの電源を入れると一通のメッセージが入っていた。通知をタップすると表示にはなかなか会えない夫の名前が。驚くと同時にぱっ、と心が明るくなる。さらにそのメッセージの内容を見て思わず声が出てしまった。
『今日、十六時で上がれることになりました。ゆかりさんは今日何時までですか?』
これは何の奇跡だろうか。ゆかりも今日は偶然にも十六時あがり。こんなところでとんでもなく運を使ってしまったような気がするけど、それでも嬉しくて嬉しくて早く伝えたくてすぐに返事を送った。
すると手の中でスマホが震える。メッセージではなく電話がかかってきた。
「もしもし!」
『ゆかりさん? 今大丈夫?』
「うん、休憩中だから」
『よかった。今日四時半くらいに喫茶いしかわに迎えに行きますね』
「やった。嬉しい。待ってますね」
『夜、ご飯一緒に食べましょうか。行きたいお店とかあります?』
「えっと……あの、和樹さんが良ければなんですけど」
『はい?』
「うちでご飯食べませんか?」
『え……いいんですか?』
「和樹さん、一昨日お家でゆっくりごはん食べて休みたいって言ってたでしょ」
『覚えててくれたんですか』
「もちろん!」
和樹の仕事の都合で二人は二週間ほど会えていなかったものの、たまにメッセージのやり取りや電話をしていた。その内容を覚えていてくれた上にゆかりの手作り夕飯の招待。和樹は喜びを隠せない。
『じゃあ、喫茶いしかわに迎えに行って、帰りにスーパー行きましょうか』
「はい!」
会話途中に受話器の向こうから和樹を呼ぶ声が聞こえた。忙しい彼は誰かに呼ばれたのだろう。
『ゆかりさんごめん、時間だ。またあとで』
「はーい!」
通話終了をタップして息をひとつ吐く。心がウキウキしてつい顔がにやける。和樹さんに会える。しかもお家ごはん! 何作ろうかなぁ……今日の勤務時間はあと一時間三十分。
「マスターお先に失礼しますね」
きっかり十六時、先ほど出勤してきたマスターにバトンタッチしてゆかりはバックヤードへ向かう。
誰が見てもご機嫌のゆかりを見て、マスターは少し笑って声をかけた。
「今日は、デートかい?」
そう聞かれて、ゆかりは少し驚いた顔をしたあと手を頬にあてて少し考える。そして先ほどから振りまいているご機嫌の笑顔を向けて、人差し指を口元に当てた。
「デートより、楽しいことです!」
あちこち出かけるのももちろん好きなのだけれど、彼は忙しいから。疲れてるだろうし、お家でまったりしてもらいたいと常々思っていた。今日はゆっくりしてもらおう。そう心に決めてバックヤードの自分のロッカーを開ける。
今から行くのはただのスーパーだし家に帰るだけだけど、少しは身だしなみを整えたいとバッグからポーチを取り出して軽く化粧を直しボディミストを振りかける。
髪を梳いて、ロッカーに置いているミラーを覗き込んでおかしなところはないチェックする。よし。やれることはやった。あとは和樹さんを待つばかり。
そわそわと落ち着かなくて裏口から外へ一歩踏み出す。裏口から表の通りまでの狭い小道を進むと、聞き覚えのあるエンジン音がした。
「あ!」
小走りで通りまで行くと、同じタイミングで喫茶いしかわの前に白い車が停まった。運転席からスーツを着た和樹さんが降りてきて喫茶いしかわの中を見ていた。私のことを探しているのだろうか。
むくむくと湧き上がるいたずら心。裏口から私が出てきていることにまだきっと気付いてない。気付かれないうちにさささっと背後へ近づく。ほんとは誰だ? と目元を隠したいけど身長的に無理なのでそこは諦めて。
「わっ!」
無難に、後ろから抱き着いた。特に大きなリアクションは見られず、和樹の腰に勢いよく回した手は彼にそっと握られそのまま顔だけゆかりの方へ振り向いた。
「ゆかりさん」
「へへ、びっくりした?」
「ええ、すごく」
「期待はしてなかったけど、もう少し驚いてくださいよー」
「驚きましたよ?」
和樹は小さく笑いながら、自分の腰に回されたままの小さなゆかりの手を持ち上げて自分の唇に寄せる。するりと感じた唇の感覚にゆかりは小さく悲鳴を上げてもう! と抗議を漏らす。和樹はゆかりの手をほどき向き直った。
「お疲れさまです。ゆかりさん」
「和樹さんも、お疲れさま」
お互いに久しぶりに顔を合わせる。
恥ずかしいようなくすぐったいような直視するのが少し躊躇われる……のはゆかりだけのようで。
和樹はじっ、とゆかりから視線を逸らすことなくにこにこと微笑んでいる。その視線に顔が耳まで熱くなりいよいよ耐えられなくなってゆかりは和樹にスーパーへ行くよう促し車へ乗り込もうとすると、すかさず和樹は助手席のドアを開けてゆかりをエスコートする。
もう喫茶いしかわ同僚時代からのことなので慣れたもので、ゆかりはお礼を言って乗り込むと、和樹は優しくドアを閉めて回り込み運転席へ乗りエンジンをかけた。
「いつものスーパーでいいですか?」
「はい!」
「では、行きましょうか」
大きなエンジン音を響かせて、二人はスーパーへ向かう。
幸せばっかりな夜の始まり。