徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
夕食を終えて風呂に入ったゆかりの髪を和樹が乾かし終わってほっこり気分になった頃、よく耳にする電子音が鳴り響いた。和樹のスマートフォンの着信音だ。
「あ……」
風呂場へ向かおうとしていた和樹はごめんと一言謝ってスマートフォンを手にベランダへ出て行った。
多分、おそらく、ほぼ間違いなく、仕事の電話だろうな、とゆかりはベランダで電話をしている和樹を見た。
今日は何も起こらないでってお願いしたのになぁ。そんなことを思いながらもう今日は出番のなさそうなドライヤーとへアブラシをもとの場所へ片付ける。
リビングに戻ると、外していた腕時計をつけながら電話をしている和樹がいた。ゆかりは慌ててハンガーにかけていたスーツのジャケットを取りに行き和樹のそばで待っていると
「ああ、じゃあ十分後に」
そう言って電話を切った。
「えーと……お仕事、ですよね?」
「……はい、すみません」
「何謝ってるんですか。はいこれ」
スーツのジャケットを差し出すと、和樹はありがとう、と一言返した。そしてゆかりをじっ、と見つめる。
「……えっ、と、和樹さん?」
「はい」
「あの……どうかしました?」
「……いいえ」
先ほどピカピカに仕上げてもらった髪を和樹が撫でる。そんなに見つめながら撫でられたら心臓の動悸が激しくなって困る。あと、そんな切なそうな顔しないでほしい。ゆかりはきゅう、と心臓が縮まる音が聞こえた気がした。
「か、和樹さん時間、大丈夫?」
「……そう、ですね。近くのコンビ二に長田が迎えに来るんです」
「迎え……あ、そっか、ビール飲んじゃったから……ごめんなさい」
「なんでゆかりさんが謝るんです」
「だって……私が……」
ピリリリ、再びスマートフォンの電子音が鳴り響く。おそらく迎えが来たのだろう。和樹は手元のスマートフォンを見つめ、何か画面をタップすると音が止まった。そしてゆかりへ向き直りそのまま抱きしめた。
「すみませんゆかりさん、行ってきますね」
「もう、謝らないでってば。行ってらっしゃい和樹さん」
名残惜しそうにゆかりを離し和樹はバタバタと慌ただしく出て行った。玄関のドアがパタンと閉じた後、行ってらっしゃいと振った手をゆかりはゆっくりと下した。
急に静まり返った部屋。和樹を見送ったあとゆかりはしばらく玄関に立ち尽くしてしまった。するとブランが足元にすり寄ってきてゆかりはハッと我に返る。足元にまとわりつく飼い犬を見下ろしゆかりは抱き上げた。
「なあに? 慰めてくれてるの? さすがは私の彼氏……なんちゃって」
ブランを抱いたままリビングへ戻る途中、きれいにリセットされたキッチンが見えた。さすが和樹だ。
髪の毛もきれいにしてもらった。ご飯も半分くらい作ってもらっちゃったし、お風呂の準備も和樹がしてくれた。
(あれ……? 和樹さん、ちゃんと休めたのかな?)
突然襲ってくるネガティブ思考。さっきまであんなに楽しかったのになぁなんて思いながらお水を飲もうとキッチンへ行くと、先ほど買ったアイスについてくる木のスプーンが二本置いてあった。これも自分と食べようと和樹が準備して置いておいたのだろう。
「……アイス、どうしよ」
とても食べる気分ではなく、ゆかりはグラスにミネラルウォーターを注ぎそれを飲み干すとささっとやることを済ませて早々にベッドにもぐりこんだ。
黒い気持ちがどんどん心を侵食してくる、やだやだ。せっかく楽しい気分だった夜を真っ黒になんてしたくない。でも。
(わたしもかずきさんのかみのけきれいにしてあげたかったな)
目の縁に少しだけ溜まった涙には気づかないふりをして、拭わずにぎゅっと固く目を閉じてそのまま無理矢理に夢の中へ潜った。
ピピピピピピ……。
「ん……」
毎朝聞いているアラーム。今日はランチからラストまでだから朝はゆっくりでよかったけれど。
(私、昨日結局何時に寝たんだろう?)
昨日は和樹が帰った後、不貞腐れてそのまま布団に潜り込みそこからぱったりと記憶がない。
いつもよりも早く寝てしまったのだろう、ぱっちりと目が覚めてしまったので二度寝を諦めてもぞもぞと体を起こした。
鳴り続けていたスマートフォンのアラームを止めてそのまま画面を見た。メッセージが来てたけどただの広告で少しだけがっかりしてしまった。
あんなふうに急に呼び出されて帰ってしまった時は大体忙しくなる時だ。そうなると連絡を取ることすら難しくなる。結婚して三ヶ月弱。少しづつだけど彼との付き合いはわかってきた。
(わかっては、きたけど……)
正直この気持ちをどう消化していいのか戸惑う。誰かに話をするわけにもいかずこのモヤモヤを一人でどうにかしないといけないのだ。
これも和樹と暮らしていく上で仕方がないこと。それも、わかってる。
「はぁ……」
持っていたスマートフォンの画面をオフにして溜息をひとつ。
すると足元で丸まっていたブランがこちらへやってきた。ぱ、と表情が明るのくなるのが自分でわかる。自分にすり寄ってくるブランにゆかりもおはようの意を込めて撫でまわすと、じっとブランがこちらを見る。まるで愚痴なら聞くよと言われているような気がして少し笑ってしまった。
「ふふ、昨日から慰めてくれてありがとうね。ブランくん」
弱音は吐いてしまうと雪崩のように次から次へと止まらなくなるんじゃないかとつい我慢してしまう。こんな弱気じゃいけない。心の中で気合を入れてゆかりはベッドから出て伸びをする。
「よし、ブランくん、ごはんにしよっか」
ぴく、とブランの耳が動いてトトトト、とキッチンの方へ向かい、それに続くようにゆかりもキッチンへ行きケトルに火をかけた。
「よし、っと」
今日も平和に業務を終了し閉店作業を済ませて喫茶いしかわに鍵をかける。すっかり暗くなってしまった帰り道。
"なるべく人通りの多い道を選んで帰ること"
これは和樹から耳にタコができるほど言われ続けていることだ。自分が送れない日、迎えに来られない日は危ない道を通らないこと。
「ふふ」
お母さんみたいですよ? と言ったら怒られた日のことを思い出し少し笑ってしまった。
おっと、笑ってたら通り過ぎてしまうところだった。昨日買った食材、作り置きのおかずは和樹が全部平らげてしまったのでゆかりはコンビニに寄ることにした。あまりお腹もすいてなかったけれど何かお腹に入れないと。
適当に食べるものを買い足早に帰路に着く。