徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
家の玄関を開けるとブランがちょこんとおすましで待っていてくれた。
「ブランくん、ただいま」
そう言ってゆかりはブランを軽く撫でてると、ブランは小さく鳴いてするりとリビングへ、ゆかりより先に戻っていった。ゆかりは買ったものをキッチンに置き一息。そしてシンとしている静かな部屋を見渡しほんの少し寂しくなった。
これが、こっちの方が日常だというのに。昨日和樹と二人でただいまと帰ってきた昨日が恋しくてたまらない。それくらい昨日が幸せだったから。寂しくなるのは仕方がない。
「……ごはん、食べなきゃね」
昨日はあんなにワイワイと食べた夜ごはん。今日は対照的にささっと食べ終わり台所の片付けもそこそこにお風呂へ入りのろのろと上がってリビングへ戻る。
すると目に浮かぶおいでと手招きしている和樹の姿。昨日の心地よさを思い出して頭をワシャワシャと拭いていた手が止まった。
これは危険だ。寂しいの感情が今日一番でこみ上がってくる。
昨日は大好きな和樹さんと買い物に行って、ごはんを食べて、髪乾かしてもらって、なによりも幸せだったのに。電話が鳴って、急いで出て行ってしまった夫。彼が何を差し置いても優先することだからそれは仕方がない。わかってる。だからきっと。
(こうやって、寂しいと思っているのはきっと私だけなんだろうな)
じわり。目頭に熱がこもって涙がたまる。
すぐに泣いてしまう自分が嫌いだ。息を整えて指先で涙をぬぐう。ぐすぐすしている鼻をかもうとティッシュを手にしようとしたときにピンポーン、と家の中に電子音が鳴り響く。それに驚いてゆかりはびくり、と肩を竦ませた。
「え、誰だろう」
パタパタとインターフォンを見にいくとモニターに映っていたのは和樹だった。それを見て一瞬固まったが、ゆかりは慌てて玄関へ急いだ。
「はあい!」
「……ゆかりさん、こんばんわ」
返事をしながら玄関のドアを開けると、どこか力のない声で和樹が小さく挨拶をした。そしてゆかりの肩をそっと押して和樹ごと玄関へと入った。ゆかりは少し戸惑いながら後ろにいる和樹を見上げる。
「和樹さん……あの、どうしたんですか?」
ああやって出ていった時、たった一日で帰れたことなんて今までなかったのだ。何かあったのではなかろうか。
「……ゆかりさん?」
顎に手を置き、何やら考え込んでいるゆかりに和樹は声を掛ける。ゆかりはひらめいたように和樹に向き直る。
「何か、うちに忘れ物でもしました?」
「え?」
「だって……和樹さん忙しいのにわざわざ家に戻ってくるって……なんでかな……って」
言っててちょっと悲しくなった。しょげた気持ちがバレないように和樹から視線を外して横を向く。
「なんでって……ゆかりさんの顔を見たかったから頑張ったんですよ」
和樹はどこかムッとしたように声を低くして話しだす。ゆかりはその一言に驚いて目を見開いた。
こちらを向かないゆかりにしびれを切らし和樹は両手でゆかりの顔を挟みぐい、と自分の方へ向ける。
「か、かぅひしゃ……にゃにすりゅ……」
「ゆかりさんが、釣れないこと言うから」
そう言って、和樹はそっとゆかりから手を離す。
釣れない、とは一体なんなのか。ゆかりは頭にクエスチョンマークをいっぱい浮かべて和樹を見る。
和樹は自分が口にした言葉に少し恥ずかしくなって片手で顔を隠した。
「和樹さん……今のどーいう……」
聞き返すゆかりをよそに、和樹はちら、とこちらに視線を送ったと思ったらゆかりの肩に掛けていたタオルを手に取りゆかりの髪をワシャワシャと拭き始めた。
急に視界を遮られたゆかりはえ? え? と小さくうろたえる。
「ゆかりさん」
手を止めてタオルを取った。そしてくしゃくしゃになったゆかりの髪を手櫛で整えて顔を顔が見えるように前髪をいつもどおりに分ける。ゆかりはきょとん、と少し呆けた顔で和樹を見た。
「寂しく、なかったですか」
「……え?」
「時計を見るたびに、昨日のこの時間はゆかりさんとスーパーにいたなとか。ゆかりさんのごはん食べたなとか」
和樹は持っていたタオルをゆかりに被せ、じっ、とゆかりと目を合わせ顔を近づける。その顔に近さにゆかりは心臓が跳ねる。
「今日はそんなことばっかり考えてたら、すごく寂しくて」
「ええっ!」
「すみません、女々しくて」
「ううん……そんなこと」
胸がきゅう、と締め付けられる。嬉しくて苦しい。触れたくなって思わずゆかりは手を伸ばし和樹に抱き着くと和樹は少し驚きながらもゆかりを抱きとめてどうしたのかと見下ろした。
「ゆかりさん?」
「和樹さん、寂しかったの?」
「……はい、すごく」
「んふふふ」
「……なんです?」
「おんなじ」
「え?」
「私も、今日、すごく寂しかったです」
寂しかったことを伝えてるはずなのに、思わず笑みが零れる。
「私も、ごはん食べてるとき昨日のこと思い出したし、和樹さんの髪の毛乾かすの、私もやりたかった」
「……ゆかりさん……ごめん」
「でもね、今、ちょっと嬉しいんです」
「嬉しい?」
「寂しいの私だけかなって思ってたから、同じ気持ちならちょっとだけ嬉しい、です」
えへへ、と抱き着いたままゆかりは和樹を見上げてそう告げる。
和樹はふっと微笑んでゆかりの髪を撫でたかと思うとそのままぐっと引き寄せて唇を塞いだ。ちゅ、と唇をついばむ音が玄関に小さく響く。
何度か角度を変えて重なるその音と唇の触れる感覚でゆかりはクラクラして力が入らない。
ぎゅうと和樹のジャケットの端を掴むと唇が離れて一瞬だけ目が合う、そして肩を掴まれたかと思ったら引き寄せられてゆかりは和樹の腕の中に閉じ込められた。
「ゆかりさん、寂しい思いをさせてしまって……本当に、すみません」
「ううん、和樹さんもおんなじってわかったから平気です」
その言葉に和樹が一層力をこめてゆかりを抱きしめ、そしてその後しばらく抱き合ったままお喋りをした。
"今度は、私が和樹さんの髪乾かしますからね?"
"ぜひ。ゆかりさんの髪は僕がやりますからね"
"あ、アイス、今度一緒に食べましょうね"
"アイスもいいんですけど……僕はもっとゆかりさんといちゃいちゃしたいかな"
"ふふ……あ、そうだ。ひとつお願いがあるんですけど"
なに? と聞いた和樹を手招きして、周りに誰もいないのにゆかりは和樹の耳元でこしょこしょとお願いとやらを話す。そしてそれを聞き終わると、ぶは、と噴き出した。
「もーっなんで笑うんです!?」
「ごめんごめん、いや、それお願いかなって」
「……もう! だめならいいですよぅ」
「ダメじゃないです」
キリリと表情を立て直し、そのお願いとやらを和樹は受け入れる。
ゆかりが満足そうに微笑むと、その顔が可愛くて和樹もつい微笑んだ。
と、その時にタイムリミットのあの電子音が和樹のジャケットの内ポケットから鳴り玄関に響いた。少し驚いてびくりと反応したゆかりの肩に和樹が優しく手を置いた。
聞かれて困る内容ではなかったらしく和樹は外に出ることなくゆかりの肩に手を置いたまま手短に話し、通話を終えた。
「えっと、お仕事です?」
「ええ。行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃい」
二日続けてこんな時間に見送ることになろうとは。ゆかりは昨日同様に和樹に手を振ろうと片手をあげた。
「ゆかりさん」
「ん……っ」
手を振るために構えた腕は和樹の大きな手に掴まれ、ゆかりの唇に和樹の唇が触れる。
さきほどのキスとは違う触れるだけの行ってきますのキス。早々に唇は解放されたがその代わり力いっぱいに抱きしめられた。
“お仕事行くとき、キスしてほしい”
先ほど耳打ちした和樹へのお願い。
和樹は名残惜しそうに抱きしめた手を緩め、しっかり戸締りしてくださいね。と言い残し部屋を後にした。
仕事へ行ってしまった和樹を見送るという昨日とまったく同じシチュエーションなのに、こうも気持ちは違うものなのか。
さっそく叶えてもらった小さな願いにゆかりが動けずに口元を押さえたままその場に立ち尽くしていると、足元にやってきたブランがアンッとひと鳴き。まだぼんやりとしたままのゆかりはブランの方を見た。
「あ、ブランくん」
名前を呼ぶとブランは足元にすり寄ってくれた。ゆかりはその場に座りブランをひと撫でする。
「今日は、大丈夫」
肩に残る抱きしめられた感覚と唇に残る少しの熱。
自分と同じように寂しかったと言った彼の事を思い浮かべて、今日は寂しいけど幸せな気持ちで眠れる気がした。