徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
抱き留められそうになった瞬間、瞬く間もなく自分の体を攫われた。
普段は繊細な珈琲の味を出し、絶品料理を作り上げる手が、逞しくゆかりの体を受け止めた。
彼の視線は普段よりも厳しく、ただ冷たい色をしていた。吹雪、いや刃物みたいだなと漠然と感じてしまった今、慌てて声を出してしまう。
「――何を、しているんですか」
「か、かずきさん……」
和樹はそのまま四人の男女を、極めて冷静に見つめた。
「立派な犯罪ですよ。刑法二〇八条暴行罪。二年以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金または拘留もしくは科料に処せられる。彼女に怪我があれば、刑法二〇四条傷害罪になります」
「な、なんだよ! そんなでっちあげ言いやがって!」
「そうよ! 私たち何もしてないわ!」
和樹はゆかりをこれ以上理不尽な視線にさらさないように、背後に隠した。
しっかりとその手は繋ぎ、離れないように。
「では身の潔白があるのでしたら、警察に被害届を出しても大丈夫ですね? それでも身の潔白を証明し続けられるならどうぞ」
ゆかりは和樹のパーカーを掴んで
「もういいです……大丈夫です」
と告げる。その隙に、男女の四人組は逃げるように立ち去ってしまった。
「――謝罪もない、心底不愉快です」
「……和樹さんいいんです。でも、助けてくれてありがとうございます」
ゆかりは和樹から離れようとするが、そのまま和樹のパーカーを肩にかけられてしまった。
落ちてしまった白いキャップを頭に乗せてもらい、どこか残ったその体温が恥ずかしくなってしまった。
「はい、ゆかりさん。さっきの少年はどうしたんです」
先に戻った旨を伝えると、和樹はため息をついた。呆れられてしまったのだろうかと、肩を落としてしまう。
可愛い水着を着て遊んで帰って、温泉宿でのんびり過ごす予定が狂ってしまった。
「――和樹さんも、すいません。私がしっかりしていないばかりに」
ほとんどが和樹目当ての女たちによる言いがかりであったが、しょうがない。
自分も良い大人なのに言葉で解決できなかったことにも、問題があった。
「何を言っているんですか。ゆかりさんが謝る理由なんて一つもありません」
たれ気味の目が心配そうにしてこちらを見た。
帽子で遮られてしまいそうな視線を、手繰り寄せた。
「……髪の毛痛くなかったですか? せっかく綺麗な、フィッシュボーンテールだったのに」
いたわるように髪の毛を触られた。折れた魚はしなびており、形が崩れてしまっていた。
それよりも、厚い胸板が思ったよりも近くにあって、悲鳴が出そうだった。
直視ができない、恥ずかしくて見られない。
「だ、大丈夫です。それより和樹さん近い……」
「ほぉ。ゆかりさん他に痛いところありませんか?」
「だ、大丈夫ですってば――和樹さん近いです、恥ずかしいです……」
兄とは違う割れた腹筋、引き締まった体。
何かで大きめの怪我をしたことがあるのか、やや目立つ傷あとがある体。
あまり見てはいけないものだと思い、恥ずかしさのあまり直視ができなかった。
真夏の暑さのせいで頭と目が眩んでいるに違いない。
パーカーからも和樹の甘い香りがするからもっと、頭がおかしくなりそうであった。
今は逆に脱ぎたい。――脱ごう。
「こ、これありがとうございます。お返ししますね。私大丈夫なので、戻ります」
「コラコラ早口で言って逃げない。さっきの悪い奴らにまた何かされたら、気が気じゃない。ゆかりさんは魅力的なんだから、僕と一緒にいてください。ここで炎上なんて言ったら、怒りますよ? あなたの身の方が大事だ」
至極真っ当なことを言われているが、恥ずかしさのあまり何も言えなかった。
和樹にパーカーを押しつける形になったが、その固い胸板に触れてしまい、余計に頭が爆発しそうだった。
そんなことよりも石川ゆかり、自分が炎上してしまう。
「い、いや~~本当、勘弁してください……ほら! 男性なら海の家にもいるので、大丈夫です! ねっ? では!」
もたつく足を叱責して走り出そうとすると、またもや厄介な客を追い払うときの顔をした和樹の顔になっていた。
「――ゆかりさん」
「ひゃい……」
あまりにも顔が怖くて声が震えてしまった。
「僕と、遊びましょうね」
「は、はい? っ――ちょ、ちょっと!」
和樹はゆかりを軽々と荷物のように抱きかかえ、迷いのない足取りで歩きだした。
パーカーもなにもない、布一枚で胸を和樹の肩に押し付けてしまう上に腰回りに太い腕が回されて動けなかった。
臀部はぎりぎり触れられない場所であったが、それでも羞恥心が勝る。
「や、やだっ! 和樹さん下ろして!」
「嫌です。僕から逃げられるならどうぞやってみてください。最近はまかないも食べてくれない、態度もつれない、酷いことばかりだ」
「ちょっと! 本当に下ろしてってば!」
ゆかりは敬語の抜けた叫びを繰り返すと、海の中に投げ入れられてしまった。
突然襲う熱くて冷たい感覚、頭まで被ってしまった海水に帽子は流れてしまう。
「ひどい! なんてことするの!」
「――酷いのはゆかりさんですよ」
「なんで!? もう!」
「――あなたも、好きでもない相手に無防備にならないでくれ心配なんだ」
「は、はい?」
ゆかりの頭にはクエスチョンマークが浮かぶばかりで、和樹が何を言っているのかわからなかった。
水着は本来濡れるためにあるのだが、真にすべてのことにおいて不本意であった。
「あんまり男に気を持たせるようなこと、言わない方が良い」
「そ、それ誰の話ですか?」
「あの少年のこと」
「あ、あぁ。でもあの子まだ大学生で私に興味なんてないですし、大丈夫ですよ?」
一体何が大丈夫なのかわからない。
ゆかりは落ちてしまった帽子を手にとり、生温い海から立ち上がろうとした。
すると和樹が手を差し伸べてきたので、さすがに手をとるとまたもや抱き寄せられてしまう。
口からは若い女性とは思えぬ声が飛び出た。
「――こんなところ、見せてしまって気を持たせないで」
「ひっ……!」
「このグリーンの水着、可愛くて似合ってますよ」
驚くべきことに和樹は左手でゆかりの腰を抱き寄せ、右手でビキニの紐をズラしたのだ。
信じられない距離とあの綺麗な指が自分に触れて、今すぐ自分を暴ける場所にいると思うとどうにかなりそうだった。
「な、なっ……!」
「ゆかりさん随分と焼けておりますね」
「そ、そんなことより離してください! や、やだ!」
「ほぉ。ああ、ゆかりさん僕のまかない食べてくれないから、痩せてしまって」
腰を撫でられてしまい、下の水着の際を触られたような気がしたが、それよりも自分の胸が和樹の胸板によって潰れてしまうのを見てしまった。
「ゆかりさんは魅力的だから、こうやって僕が教えてあげているんです。――逃げないで」
「わ、わかったから~~! 和樹さんの言うことちゃんと聞くから、離して!」
恥ずかしさで耐えきれなくなり、力の限り叫んで胸板を押し返すと、あっさりと和樹は身を引いてくれた。
「さすがゆかりさん! わかってくれましたか?」
「わ、わかりました……和樹さんの言うこと聞きます、だからもう勘弁してください」
「おや、安易に言うこと聞きますなんて言わない方が良いですよ?」
「もう! 和樹さんの馬鹿! いくら私の危機管理能力が低いからって、力業すぎます! 男性には気を付けます! 喫茶いしかわでもめちゃくちゃ気を付けますから、もうこんなことしないでください!」
ゆかりは腹いせに海水を和樹にかけて、頭から濡らしてしまうが相変わらず笑顔のままであった。
真意が相変わらず読めなかった。
「――ゆかりさん、やってくれましたね」
「へっ――?」
「それっ!」
「きゃあ!」
和樹は己の身体能力の限りを使い、逃げ惑う手折れた魚を捕まえて再び海へ投げ入れるのであった。
戯れる姿に人々は仲の良さそうなカップルだなと見つめていたが、実際はただの同僚同士だ。
ただ男はそうは思っていないのであるが、惑う魚を逃しはしないと塩水で塗れた唇を舐めるのであった。
「もう! 和樹さんが容赦ない!」
「ゆかりさんも僕を投げてみてください」
「絶対に倒してみせます!」
真夏の太陽は陽炎で行くべき道を見誤らせてしまう。そのことに気づいていたのは、和樹ただ一人だけであった。
灼熱の太陽と水しぶきがただ、今は眩く目の前の通り過ぎるだけ。
どうか逃げないで、おさかなさん。