余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
王都は、生き残った。
その報せが避難所に届いた時、人々は最初、言葉の意味を理解できなかった。
王都が生き残った。
魔物の本流は王都から逸れた。
灰白庭方面へ流れた。
今すぐ外壁が破られることはない。
それは、喜ぶべき知らせだった。
泣いていた子供が顔を上げる。
祈っていた老人が、震える手を下ろす。
疲れ切った兵士が、壁にもたれて息を吐く。
神殿の床に座り込んでいた避難民たちの間に、ゆっくりと安堵が広がっていく。
「助かったの?」
「魔物は?」
「王都には来ないの?」
「本当に?」
誰も、はっきりとは答えられなかった。
ただ、伝令が繰り返す。
「本流は逸れた! 王都方面の残敵は掃討中! 避難命令は継続! 外へ出るな!」
助かった。
だが、まだ家へは帰れない。
助かった。
だが、戦いは終わっていない。
助かった。
だが、何を代償に助かったのか、誰も知らない。
避難所の隅で、パン屋の娘ミーナは弟を抱えていた。
弟は眠っている。
泣き疲れ、祈り疲れ、最後には母親の膝で力尽きたように眠った。
ミーナは、伝令の言葉を何度も頭の中で繰り返す。
王都には来ない。
魔物は逸れた。
灰白庭へ向かった。
その言葉に、彼女は安堵した。
だが、その直後、胸の奥に別のものが残った。
灰白庭。
白い箱があるという迷宮。
宝が出るが、人が帰らないという場所。
銀刻という有名な冒険者たちが戻らなかった場所。
そこへ、あの黒い地平線が流れた。
では、その迷宮の近くにいた人たちはどうなったのか。
もし魔物がまた出てきたらどうなるのか。
灰白庭が、それを全部呑み込んだのなら。
それは、何なのか。
「お姉ちゃん」
弟が寝ぼけた声で言った。
「パン、焼ける?」
ミーナは、弟の髪を撫でた。
「……うん。焼けるよ」
今度の言葉は、前より少しだけ本当だった。
でも、完全な本当ではなかった。
窯は無事か。
父は帰ってくるのか。
東区の店へ戻れるのか。
何も分からない。
王都は生き残った。
だが、人々の生活が戻ったわけではなかった。
◇
王城の軍議室では、誰も喜んでいなかった。
机の上には、血と泥で汚れた報告書が積まれている。
第一防衛線、放棄。
第二防衛線、縮小維持。
残敵掃討中。
死傷者、多数。
行方不明者、多数。
蒼穹の楔、戦闘不能。
魔物本流、灰白庭方面へ流入。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン、追跡不能。
軍務卿オルド・ヴァイゼンは、報告書を一枚ずつ読んでいた。
目は赤い。
眠っていない。
鎧も脱いでいない。
それでも、読むのをやめられなかった。
読まなければ、死者がただの数になる。
数にしなければ、次の命令が出せない。
軍務卿という役目は、そういうものだった。
「観測班からの第二報は」
オルドが問う。
ギルド本部長エルナンド・ロウが、別の報告書を差し出した。
「こちらです」
オルドは受け取り、目を通す。
⸻
灰白庭外縁観測 第二報
魔物軍勢の本流、内部流入を確認。
流入後、魔物反応が急速に減少。
白灰系魔力、戦闘前より大幅増大。
内部から断続的に泥属性、白磁属性、灰霧属性、骨系魔力反応を確認。
Sランク反応、追跡不能。
灰白庭外縁の霧濃度、上昇。
接近、極めて危険。
⸻
オルドは読み終えた後、報告書を机へ置いた。
「喰っているな」
「そう見るべきでしょう」
エルナンドが答える。
「十万規模の魔物を、か」
「すべてではないにせよ、相当数を処理しているようです」
「処理」
オルドは苦い顔でその言葉を繰り返した。
「便利な言葉だ。喰った、と書かずに済む」
エルナンドは否定しなかった。
魔術師団長リヴァルトが、魔力盤の写しを机に置く。
「問題は、迷宮魔力の上昇幅です。通常の戦闘後反応ではありません。迷宮そのものが、急激に膨張したような値が出ています」
「膨張?」
「比喩です。物理的に大きくなったかは未確認。ただし、内部魔力容量が増えている」
「魔物を喰ったからか」
「おそらく」
神殿代表の老司祭が、重い声で言った。
「我々は、災厄を生贄に捧げたのかもしれませんな」
軍議室が静まる。
オルドは、老司祭を見た。
「神殿は、そう記録するのか」
「公式にはしません」
「では何と」
「王都防衛のため、魔物群の進路を灰白庭方面へ逸らした。そう書かれるでしょう」
「実際には?」
老司祭は目を伏せた。
「我々は、恐ろしいものを、別の恐ろしいものへ押し込んだ」
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
◇
騎士団総長ヴァルデンは、地図の上に駒を置いた。
王都。
第二防衛線。
残敵掃討区域。
灰白庭。
そして、灰白庭の周囲に、観測用の青い駒。
「監視線を三重にする」
ヴァルデンが言った。
「一線目は遠距離観測。二線目は避難誘導準備。三線目は王都側残敵防衛」
オルドが問う。
「灰白庭へ直接近づく部隊は」
「出しません」
「調査隊は?」
「今は出せません。出せば死ぬ」
ヴァルデンは断言した。
「第一防衛線で兵は疲弊しています。冒険者も損耗した。蒼穹の楔も戦えない。今、灰白庭へ入れる者はいない」
エルナンドも頷く。
「ギルドとしても、当面は侵入禁止を勧告します」
「勧告で済むのか」
「正式な封鎖には王国命令が必要です」
「出す」
オルドは即答した。
「灰白庭方面への無許可接近を禁ずる。宝目当ての冒険者が勝手に入るのを止めろ」
エルナンドは、わずかに顔をしかめた。
「止まらない者は出ます」
「なぜだ」
「宝が出るからです」
「この状況で?」
「この状況だからです」
エルナンドの声には、苦い確信があった。
「十万規模の魔物が灰白庭へ流れた。迷宮がそれを呑んだ。なら、こう考える者が必ず出ます。魔物の素材がある。Sランク魔物の残滓がある。灰白庭は新しい宝を生んだ、と」
オルドは、目を閉じた。
「馬鹿どもが」
「はい」
「死ぬぞ」
「はい」
「それでも行くのか」
「冒険者ですので」
その言葉は、軽蔑ではなかった。
諦めに近かった。
軍務卿は深く息を吐く。
「封鎖命令を出す。違反者は拘束。ギルドも協力しろ」
「協力します。ただし、闇市系は別です」
「また黒市か」
「黒市主は消えたと見ていますが、闇市そのものは残っています。魔物素材、迷宮産素材、Sランク残滓。彼らが動かない理由はありません」
ヴァルデンが低く唸る。
「王都はまだ血を拭いてもいないのに、もう盗人の心配か」
「むしろ今が動きやすい」
エルナンドは言った。
「混乱、死体、素材、封鎖前の抜け道。闇市にとっては好機です」
軍議室の空気がさらに重くなる。
王都は魔物から逃れた。
だが、次は人間の欲を相手にしなければならない。
◇
医療天幕では、蒼穹の楔が静かに横たわっていた。
イグナスは、眠っている。
腹部の傷は塞がり始めているが、当面は剣を振れない。
ドルガは両足を固定され、胸に厚い祈祷布を巻かれている。
セネリアは声が戻らず、手元の布に短い言葉だけを書いて意思を伝えている。
ラティカは魔力枯渇と火傷で熱を出していた。
ユードは、片腕を失った側の肩を押さえながら、起き上がっていた。
「寝ていろ」
ラティカが、かすれた声で言った。
「君もな」
「私は寝てる」
「目が開いている」
「うるさい」
ユードは、医療天幕の外を見た。
遠くで、まだ負傷者が運ばれている。
担架の音。
祈り。
水を求める声。
泣く声。
王都は助かった。
だが、戦場はまだ終わっていない。
イグナスが、ゆっくり目を開けた。
「……報告は」
ユードが答える。
「本流は灰白庭へ入った」
「ガルザヴェインは」
「追跡不能」
イグナスは目を閉じる。
「死んだと思うか」
「分からない」
「お前はどう思う」
ユードは、少し黙った。
「死んでいればいいと思う」
「答えになっていない」
「なら、答える。分からない。ただ、あの迷宮が普通に喰っただけで終わるとは思えない」
ラティカが弱く笑った。
「嫌なこと言うね」
「事実だ」
セネリアが、布に文字を書く。
⸻
灰白庭は、怖い?
⸻
ユードは、その文字を見た。
「怖い」
即答だった。
「ガルザヴェインとは別の怖さだ。あいつは正面から強かった。灰白庭は、見えない。中で何が起きたのか分からない。十万が入って、静かになった。それが怖い」
ドルガが寝台の上で、低く笑った。
「化け物に化け物をぶつけたら、片方が静かに太ったってわけか」
「笑えない」
ラティカが言った。
「笑ってないさ」
ドルガの声は疲れていた。
イグナスは、天幕の天井を見た。
「俺たちは、ガルザヴェインに届かなかった」
「届いた」
ユードが言った。
「首を裂いた。胸を焼いた。足を止めた。だが、倒せなかった」
「それを届かなかったと言う」
イグナスの声には、悔しさがあった。
Sランクになったばかり。
英雄に近いと言われた。
王都中が期待した。
だが、勝てなかった。
その現実は、傷より深く残る。
セネリアが布に書く。
⸻
生きている
⸻
イグナスは、その文字を見た。
セネリアは、さらに書く。
⸻
次がある
⸻
ラティカが、熱に浮かされたように笑った。
「そうね。まず歩けるようになってから、次を考えましょ」
ユードは、自分の失った左腕を見る。
もうない。
だが、影弓は片腕でも引ける。
ガルザヴェインを誘導した時、それを証明した。
「次までに、俺たちも変わらなければな」
イグナスは頷いた。
「灰白庭を監視する必要がある」
「今は寝てから言え」
ラティカが言った。
今度は、イグナスも反論しなかった。
◇
王都の外郭広場では、死者の名が読み上げられていた。
すべてではない。
まだ身元確認が終わっていない者が多い。
第一防衛線に残された死体もある。
魔物に喰われた者もいる。
だが、分かる名から読まれていく。
騎士。
警備兵。
冒険者。
傭兵。
神殿兵。
荷運び。
弩砲整備兵。
担架を運んで戻らなかったDランク。
血餌の樽を運んで踏み潰された兵。
音響陣で銅鑼を叩き続け、飛行種に殺された老人。
その名が一つずつ、広場に落ちる。
家族が泣く。
仲間が拳を握る。
誰も知らない名前には、神官が代わりに祈る。
エランは、その広場の端に立っていた。
腕には包帯。
足元には、支給された短槍。
ラウドは生きていた。
だが、まだ意識が戻らない。
エランは、読み上げられる名を聞いていた。
何人かは知っている。
何人かは知らない。
知らない名の方が多い。
だが、今日からその名は、王都を守った者の名になる。
隣に、担架を運んでいたDランク冒険者の青年が立っていた。
彼も黙って聞いている。
「ラウドさん、名前呼ばれなくてよかったな」
青年が小さく言った。
「はい」
「生きてるって、すごいな」
「はい」
二人は、それ以上話さなかった。
広場の向こうで、神官が次の名を読み上げる。
そのたびに、誰かが崩れ落ちる。
王都は助かった。
だが、助かったという言葉は、死んだ者の家族には残酷だった。
◇
夜になって、王都には二つの噂が広がり始めた。
一つは、蒼穹の楔の噂。
Sランクパーティが魔神ゴブリンと戦い、敗れながらも傷を負わせた。
ユードが片腕で魔神を誘導し、軍勢を灰白庭へ曲げた。
イグナスは倒れてもなお第二案を求めた。
セネリアは声を失うほど祈った。
ドルガは盾を砕かれても仲間を守った。
ラティカの雷炎が魔神の胸を焼いた。
彼らは敗者ではない。
王都を生かした者だ。
そう語る者がいた。
もう一つは、灰白庭の噂。
十万の魔物が入った。
霧が濃くなった。
魔物の声が消えた。
ガルザヴェインの反応が消えた。
迷宮が食った。
いや、封じた。
いや、魔神はまだ奥で生きている。
白い箱には、魔神の血が入る。
灰白庭の宝は、今までの十倍になる。
近づけば死ぬ。
だが、今なら誰も入っていないから、宝を拾えるかもしれない。
恐怖と欲は、同じ速度で広がった。
王都が疲れ果てて眠ろうとする夜に、冒険者の宿ではすでに誰かが囁いていた。
「封鎖される前なら」
「馬鹿、今は無理だ」
「でも、魔神素材だぞ」
「死にたいのか」
「浅いところだけなら」
「銀刻もそう思ったんじゃないか」
その言葉で、会話は一度止まる。
だが、完全には消えない。
欲は、恐怖では死なない。
少し静かになるだけだ。
◇
王城の高台で、オルドとエルナンドは、南東の空を見ていた。
灰色に濁った夜。
そこに何があるのかは見えない。
だが、二人とも同じものを考えていた。
灰白庭。
自分たちが魔物を押し付けた迷宮。
十万を呑み、なお静かな場所。
「封鎖命令は明朝出す」
オルドが言った。
「ギルドも同時に通達します」
「闇市対策は」
「監視を強めます。ただ、完全には防げません」
「だろうな」
オルドは、南東を見たまま言う。
「王都は、あの迷宮に借りを作ったと思うか」
エルナンドは、少し考えた。
「借り、というより」
「より?」
「負債です」
「嫌な言葉だ」
「借りなら、返す相手が分かります。ですが、灰白庭が何を求めるか、我々には分からない」
オルドは苦い顔で笑った。
「確かに」
しばらく沈黙があった。
遠くで、まだ負傷者を運ぶ車輪の音がする。
王都は眠れない。
眠れるはずがない。
「明日から忙しくなるな」
オルドが言った。
「今日も十分忙しかったですが」
「明日は、もっとだ。死者を数え、負傷者を治し、残敵を掃討し、灰白庭を封鎖し、民を落ち着かせ、貴族どもに説明し、王へ報告する」
「そして、魔神ゴブリンがどうなったかを考え続ける」
「そうだ」
オルドは、南東の灰色の空を見た。
「もし、あれが生きていたら?」
エルナンドは答えなかった。
答えを持っていないからだ。
ただ、心の中で思った。
もし魔神ゴブリンが生きているなら。
もし灰白庭が、それをただ殺さず、何らかの形で取り込んだなら。
王都は、今日とは別の恐怖を抱えることになる。
そして、その恐怖は、王都の外壁よりずっと静かに近づいてくる。
◇
その夜、灰白庭方面の観測班は、三度目の報告を送った。
⸻
灰白庭外縁観測 第三報
内部音、ほぼ消失。
魔物反応、残少。
迷宮魔力、異常高止まり。
霧濃度、上昇継続。
Sランク反応、捕捉不可。
外縁に明確な崩壊なし。
結論:
灰白庭は、スタンピードによる破壊を受けてなお、活動を継続中。
接近、厳禁。
⸻
その報告を受けたエルナンドは、しばらく紙を見ていた。
そして、最後の一文に自分の手で追記した。
⸻
未確認事項:
魔神ゴブリン・ガルザヴェインの生死。
⸻
彼は筆を置いた。
その未確認こそが、最も恐ろしかった。
灰白庭の白い霧は、遠くから見れば静かだった。
だが、その静けさは、平穏の静けさではない。
何かが、食べ終えて息を潜めている静けさだった。