余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
白い霧の中へ入った瞬間、音が変わった。
封鎖線の外にいた人々のざわめき。
騎士の鎧が擦れる音。
馬の鼻息。
遠くの王都から聞こえる鐘。
それらが、背後で一枚の布をかけられたように鈍くなる。
代わりに、耳の奥へ湿った音が入ってきた。
水が流れる音。
何かが床下で擦れる音。
遠くで骨が鳴るような、かすかな音。
かた。
かたかた。
それは一度聞いただけでは、風か、枝か、魔物かも分からない。
だが、十二人のうち何人かは、すぐに足を止めた。
斥候リンド・カーレン。
黒弓使いネイザ。
マルク・ゼノ。
そして、オルフェン。
彼らは別々の理由で、同じ異常を感じ取っていた。
「……浅い」
リンドが呟いた。
アレクが剣の柄に手を添えたまま聞く。
「霧がか?」
「違う。死体の跡が」
リンドは膝をつき、白く湿った地面へ指を当てる。
指先に、灰と泥がついた。
その中に、黒い粒が混じっている。
乾いた血ではない。
砕かれた骨粉だ。
「ここは入口近くのはずだ。十万規模の魔物が押し込まれたなら、もっと死体があっていい。踏み潰された肉、骨、装備、角、牙、羽、何でもだ」
ベルグが双斧を担ぎ直し、鼻を鳴らす。
「霧で見えないだけじゃねえのか」
「匂いも少ない」
ネイザが答えた。
彼は弓を構えたまま、霧の奥を見ている。
「血の匂いはある。だが、山ほど死んだ場所の匂いじゃない。消されている」
「消されている?」
光砂術師サラナが、金色の砂を指先で転がした。
「迷宮が掃除したってこと?」
薬師兼呪具師トーマが顔をしかめる。
「掃除なんて可愛い話じゃない。死体を残さない仕組みがあるんだろ」
査定官マルクは、魔力測定板を取り出した。
銀の板に、細い針が三本ついている。
一つは属性。
一つは濃度。
一つは流動方向。
針は、霧に触れた瞬間から落ち着きなく揺れていた。
「死体魔力はある。だが、地表に留まっていない」
マルクは地面へ目を落とす。
「下へ流れている」
魔力盤技師リーゼが、背負っていたを開いた。
盤面の硝子に、白い線と黒い点が現れる。
黒い点は、死体や魔物の残留反応。
それが、地表に留まらず、床下の流れに乗って移動していた。
「骨系反応が床下を移動しています。水脈……いえ、戻り水に似た流れがあります。死体の魔力と骨片を、どこかへ運んでいる」
記録士カルムが震える手で書く。
⸻
入口付近、死体少量。
死体魔力は地表に留まらず、床下へ流動。
骨系反応、移動中。
迷宮による死体処理機構の可能性。
⸻
オルフェンは白い祈祷布を広げ、霧の中へそっと垂らした。
布はすぐに灰色に染まる。
腐敗の黒ではない。
死霊の紫でもない。
もっと淡い、骨粉と灰を混ぜたような色だった。
「死者の気配は濃い」
オルフェンは低く言った。
「だが、っていない。迷ってもいない。ここで死んだものは、かなり早く迷宮の一部へ回収されている」
ガルドスが方盾を前に出す。
「それは、良いことなのか悪いことなのか」
トーマが即答した。
「俺たちにとっては悪い」
「理由は」
「死体が残らないってことは、迷宮が無駄なく使ってるってことだ。骨も、血も、魔力も。十万の魔物を材料にした迷宮が、今どうなってるか考えたくもない」
その言葉に、誰も笑わなかった。
◇
十二人は慎重に進んだ。
先頭はアレクとガルドス。
その半歩後ろにリンド。
中央に調査隊四名。
左側面を暁鴉の弦。
右側面をエリシアが守る。
隊列は広げすぎない。
だが、固まりすぎもしない。
霧の中では、まとめて罠にかかることが最も危険だ。
リンドは、白い壁の裂け目に糸を張りながら進む。
「戻り道の目印だ」
カルムが聞いた。
「迷宮側に消されませんか」
「消されるだろうな」
「では、意味が?」
「消されたら、そこに何かあると分かる」
カルムは、一瞬だけ目を見開き、それから記録した。
⸻
斥候リンド、帰路糸を配置。
糸の残存ではなく、消失そのものを異常検知に利用。
⸻
マルクがそれを見て小さく頷く。
「良い記録だ」
「ありがとうございます」
カルムの声は少し震えていたが、筆は止まらなかった。
その時、エリシアが杖を上げた。
「止まって」
全員が即座に止まる。
Aランク二組は、誰一人として「なぜ」と聞かない。
理由を聞く前に止まる。
それが高位パーティの強さだった。
エリシアは白い床へ杖の先を近づける。
床の一部が、ほんのわずかに湿っていた。
「水が浅すぎる」
ベルグが眉をひそめる。
「浅いならいいんじゃねえのか」
「違うわ。浅く見えるだけ」
エリシアは杖を軽く振った。
氷の粒が床へ落ちる。
次の瞬間、床の湿りが小さく震えた。
まるで、氷の粒を飲み込もうとしたように。
「戻り水ね。薄い膜で床に広がっている」
マルクが測定板を見る。
「水属性、死体魔力、白磁属性が混在。踏むと沈むか?」
「少なくとも、足を取られる」
エリシアが氷結界を薄く広げた。
床の上に、透明な氷の足場が作られる。
「一人ずつ。走らないで」
ガルドスが先に渡る。
重装の体重を受けても、氷は割れない。
次に調査隊。
カルムが渡りながら、床下を見た。
白い霧の下で、何か細いものが動いている。
骨。
小さな骨が、戻り水の流れに乗って運ばれている。
指の骨か。
ゴブリンの肋骨か。
小型魔物の脚か。
それらが、まるで川を流れる小枝のように、床下を滑っていく。
カルムは顔を青くしながらも記録した。
⸻
戻り水膜あり。
地表は浅く見えるが、踏み込み時に沈降反応。
床下に小骨の流動を確認。
死体処理は継続中。
⸻
最後にベルグが渡った。
彼は肩を回しながら言う。
「今のところ、怖いだけで敵は出ねえな」
トーマが言った。
「そういうこと言うと出る」
ベルグが笑いかけた。
その瞬間、霧の奥で骨が鳴った。
かた。
かたかた。
ベルグは顔をしかめる。
「ほらな」
「俺のせいかよ」
「半分は」
◇
最初に現れたのは、一体の湿った骨兵だった。
ゴブリンの骨に見える。
だが、白磁片が関節を繋ぎ、肋骨の隙間に灰色の泥が詰まっている。
手には、骨と白磁片を組み合わせた短槍。
目の穴には、淡い戻り水の光。
ガルドスが盾を構える。
「一体」
リンドが短く言った。
「違う。後ろにいる」
霧の奥で、さらに骨が鳴る。
かた。
かたかた。
かたかたかた。
骨兵が二体、三体、五体と現れる。
だが、数はまだ少ない。
十体ほど。
浅層の様子見だ。
アレクが剣を抜く。
「鋼旗、前。暁鴉は側面。調査隊は下がりすぎるな」
ガルドスが盾を前へ押し出し、骨兵の槍を受ける。
槍は軽い。
だが、湿っているせいか、盾に当たった瞬間に滑り込むような嫌な動きをした。
「ただの骨じゃないぞ」
ガルドスが言う。
ベルグが横から踏み込み、双斧で骨兵を砕いた。
骨が散る。
しかし、散った骨の一部が床へ沈み、戻り水に流されていく。
完全に死んだのかどうか分からない。
ネイザが矢を放つ。
骨兵の目の穴にある戻り水の光を射抜いた。
骨兵が崩れる。
「目じゃない。水だ」
ネイザが言う。
「中核は戻り水。そこを撃てば崩れる」
マルクが即座に記録させる。
「カルム、書け。骨兵の中核は戻り水反応。通常破壊では再利用される可能性あり」
「はい!」
エリシアが氷槍を飛ばす。
骨兵の足元を凍らせ、動きを止める。
そこへアレクの白銀剣が走った。
一閃。
骨兵三体がまとめて斬られる。
白磁片ごと、関節を断つ剣筋。
鮮やかだった。
サラナが光砂を撒き、霧の濃い場所を照らす。
トーマが薬瓶を割り、戻り水の動きを鈍らせる粉を散らす。
浅層に現れた骨兵十体は、短時間で処理された。
大きな損害はない。
カルムが、少しだけ息を吐いた。
だが、リンドは厳しい顔のままだった。
「おかしい」
アレクが剣についた泥を払う。
「敵が弱すぎるか」
「ああ。様子見だ。こっちの対応を見られた」
ネイザも同意した。
「弓、氷、光砂、薬、盾、剣。全部見られたな」
ベルグが舌打ちする。
「じゃあ、今のは罠じゃなくて試験かよ」
トーマが周囲を見回す。
「俺たちが調べに来たつもりで、向こうもこっちを調べてるってことだ」
その言葉に、カルムの筆が止まった。
マルクが静かに言う。
「書け」
「……はい」
⸻
浅層骨兵十体と交戦。
戦闘力は低から中。
ただし、迷宮側による試験的接触の可能性。
こちらの戦闘手段を観察された懸念あり。
⸻
◇
白い部屋で、余はその記録を見ていた。
「さすがAランク二組だな」
《浅層試験骨兵、全滅》
「対応が早い。中核まで見抜いた」
《ネイザの観察力、エリシアの制御力、リンドの警戒能力が高いです》
「分かっている」
余は、十二人の隊列を見ていた。
Aランク二組は強い。
前の雑な冒険者とは違う。
罠を疑う。
一体の魔物にも意味を読む。
調査隊も恐怖に飲まれず記録を続けている。
特にマルク。
あの査定官は、危険だ。
迷宮の機能を言葉にする。
言葉にされると、外へ持ち帰られた時に厄介になる。
「今はまだ殺すな」
《理由は》
「もっと記録させる」
《外部流出の危険があります》
「持ち帰らせなければよい。記録させた上で奪う。人間側が何を見て、どう判断するかを知りたい」
白骨書記が、横で骨筆を走らせる。
⸻
人間側調査視点の収集。
有用。
⸻
「だろう」
フィルエが森灰観測室から声を送る。
「ロード、あの斥候、かなりいい」
「リンドか」
「うん。霧の流れじゃなくて、霧が何を隠したいか見てる」
「厄介だな」
「あと、弓の人も。ハイハネの位置をいずれ読む」
「なら、ハイハネは深く見せるな。今は霧だけ動かせ」
《ハイハネ、遠隔霧操作に切り替え》
余は、調査隊の進路を見た。
彼らは浅層を少しずつ奥へ進んでいる。
こちらの異常を見ている。
死体が少ないこと。
骨が流れていること。
戻り水が床に薄く張ること。
骨兵が試験的に出たこと。
次は、戦後の痕跡を見せる。
十万の死体を隠している場所の、表面だけを。
「を開け」
《浅層戦屍跡、部分開示》
白い霧の奥で、道がゆっくり開いた。
◇
調査隊の前に現れたのは、広い空間だった。
浅層にしては広い。
天井は低いが、左右に広がっている。
床は白灰色。
そこに、無数の跡が残っていた。
足跡。
爪跡。
引きずられた跡。
何かが沈んだ穴。
砕けた牙。
黒い羽。
割れた虫の甲殻。
折れた角。
骨片。
ただし、どれも整理されている。
自然に散った死体ではない。
選り分けられた残骸。
まるで、食べ終えた後の骨を、誰かが種類ごとに分けて置いたようだった。
カルムは、息を呑んだ。
マルクの顔から血の気が引く。
リーゼの魔力盤が、強く震えた。
「反応が多すぎます……」
「種類は」
「ゴブリン系、オーク系、獣系、虫型、飛行種、死体獣……全部です。でも、量が合わない。残骸は少ないのに、魔力の痕跡だけが濃い」
オルフェンが祈祷布を広げる。
布は一瞬で灰色に染まり、その端が黒く焦げた。
「ここで大量に死んだ。だが、死体は残されなかった」
マルクは、低い声で言った。
「選別されている」
「何をですか」
カルムが聞く。
「使える部分と、使えない部分だ」
マルクは、床に落ちた黒い羽を拾おうとして、リンドに止められた。
「触るな」
「分かっている」
マルクは手を引っ込めた。
「記録。浅層に戦後処理跡。魔物軍勢の残骸は少量だが、属性痕跡は極めて濃い。迷宮が死体を素材として選別、回収した可能性大」
カルムが書く。
手が震えている。
だが、書く。
その時、部屋の奥で銅のような音がした。
ごん。
全員が止まった。
音は一度だけ。
遠い。
とても遠い。
だが、聞こえた。
銅鐘。
あの戦場で、多くの兵が聞いた音。
ガルザヴェインの進軍鐘。
アレクの顔が強張る。
「今のは」
ネイザが、ゆっくり弓を上げた。
「聞き間違いではない」
リーゼの魔力盤が異常な揺れを見せる。
「Sランク反応……いえ、違う、深すぎて測れない……」
マルクが叫ぶ。
「数値は!」
「取れません! 一瞬だけ、黒い魔力反応が深部で……でもすぐ消えました!」
オルフェンが祈祷布を握りしめる。
「魔神性です」
その言葉に、空気が凍った。
「ガルザヴェインが生きているのか」
ガルドスが低く問う。
オルフェンは首を横に振った。
「分かりません。残響かもしれない。血かもしれない。封じられているのかもしれない。ただ……完全に消えてはいない」
カルムは震えながら記録する。
⸻
深部より銅鐘に似た音を確認。
Sランク魔物ガルザヴェイン由来の可能性。
反応は一瞬。追跡不能。
魔神性残留あり。生死不明。
⸻
アレクは、霧の奥を見つめた。
彼は蒼穹の楔ではない。
ガルザヴェインと直接戦ったわけではない。
だが、その名の重さは知っている。
Sランクパーティが勝てなかった魔物。
その気配が、灰白庭の奥にまだあるかもしれない。
「撤退するか」
トーマが言った。
誰もすぐには答えなかった。
マルクが、記録板を握りしめる。
「まだです」
リーゼが叫びそうな顔で彼を見る。
「まだ?」
「今の情報だけでは足りない。ガルザヴェイン反応の有無、迷宮機能、ランク再査定。浅層入口だけでは判断できません」
リンドが低く言った。
「奥へ進めば帰れなくなるかもしれない」
「分かっています」
「本当に分かってるか?」
マルクは、静かに答えた。
「分かっています。だから、記録士を連れてきた」
カルムの喉が鳴る。
アレクはマルクを見た。
「我々はあなたを守るためにいる。だが、無謀に死なせるためではない」
「承知しています」
「なら、次の異常を確認したら撤退判断を取る」
マルクは一瞬だけ迷った。
だが、頷く。
「分かりました」
ネイザが霧の奥を見た。
「次の異常は、向こうから来るだろうな」
その言葉通りだった。
戦屍跡の床下で、骨の音がした。
さっきより多い。
かた。
かたかた。
かたかたかた。
部屋の左右で、白い霧が割れる。
湿った骨の槍が、列をなして現れた。
最初の骨兵十体とは違う。
今度は、列だ。
軍列だ。
が、本格的に姿を現した。
アレクが剣を構える。
ネイザが矢を番える。
ガルドスが盾を前に出す。
ベルグが双斧を構える。
エリシアの杖に氷が走る。
サラナの光砂が金色に舞う。
リンドが糸を張り、トーマが薬瓶を握る。
マルクが叫ぶ。
「カルム、記録!」
「はい!」
カルムの筆が走る。
⸻
湿骨軍列、本格出現。
⸻
その一行を書き終えた瞬間、骨槍の壁が前へ出た。
白い霧の中で、再査定調査の最初の本格戦闘が始まった。