余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
残ったのは、四人だった。
アレク・ヴァイス。
白銀の剣士。
鋼旗の四剣の隊長。
いまや、その鋼旗も彼一人だけになっている。
査定官マルク・ゼノ。
血と泥で濡れた記録板を抱えた男。
魔力盤技師リーゼ・アルム。
三枚あった魔力盤のうち、まともに動くものはもう一枚もない。
浄化鑑定官オルフェン。
白かった祈祷布は、灰と黒に染まり、端は何度も裂けている。
四人。
それだけだ。
Aランクパーティ二組と調査隊。
十二人で入った再査定隊は、霧の中で四人まで減った。
カルムは記録を残して死んだ。
リンドは帰路の裂け目を見つけて死んだ。
サラナは光路を繋いで死んだ。
トーマはで道を開いて死んだ。
ガルドスは盾として残って死んだ。
エリシアは氷の道を作って死んだ。
ネイザは黒弓を撃ち尽くして死んだ。
ベルグは怒りを斧に乗せて死んだ。
全員が、何かを残した。
だから、アレクはまだ進んでいた。
右手に白銀の剣。
左手にネイザの黒弓。
腰にはリンドの短剣。
背にはベルグが託した血濡れの光砂筒。
記録袋にはカルムの板。
マルクの腕には、仲間たちの死を記した記録。
彼らはもう、個人ではなかった。
死んだ者の重さを背負った、四人だった。
◇
灰白の回廊は、静かになっていた。
静かすぎた。
の骨音も、ハイハネの羽音も、白磁根の這う音も聞こえない。
軍帰路喰らい(いくさきろぐらい)の落武者も、姿を見せない。
アレクは、それが最も危険だと分かっていた。
迷宮が黙る時は、次の形を作っている時だ。
「リーゼ」
「はい」
「盤は」
リーゼは、胸に抱えた魔力盤を見た。
三枚のうち、一枚は完全に割れている。
一枚は針が折れた。
最後の一枚も、硝子面にひびが走り、針は震え続けている。
「外部反応は拾えません。でも、迷宮内の魔力密度ならまだ見えます」
「使えるか」
「一度だけなら」
その言葉に、マルクが顔を上げた。
「一度?」
リーゼは頷いた。
「盤を焼き切れば、周囲の魔力の濃淡を一瞬だけ広げて見られます。出口ではなく、危険の薄い方向なら分かるかもしれません」
オルフェンが低く言う。
「その後は?」
「盤は壊れます」
「あなたは」
リーゼは少しだけ黙った。
「たぶん、魔力焼けを起こします」
アレクの目が険しくなる。
「駄目だ」
「でも、他に道がありません」
「君まで失うつもりはない」
リーゼは、かすかに笑った。
その笑みは、泣いているようでもあった。
「私も失われたくありません。でも、ここで盤を抱えて死ぬよりは、使ってから死ぬ方がまだいい」
マルクが、記録板を握りしめた。
「リーゼ」
「マルクさん」
リーゼは、彼を見た。
「カルムは見たものを書きました。私は、見えないものを見るために来ました」
マルクは言葉を失った。
オルフェンが祈祷布を握る。
「なら、私が焼けを抑えます」
「できますか」
「完全には無理です」
「でしょうね」
「ですが、あなたが倒れるまでの時間を少し延ばすことはできます」
「十分です」
アレクは、目を閉じた。
まただ。
また、誰かが自分の役割を果たすために命を削ろうとしている。
止めたい。
だが、止めれば全員死ぬ。
隊長として、彼はその判断をもう何度も強いられていた。
「……分かった」
アレクは言った。
「ただし、終わったらすぐ下がれ」
リーゼは頷いた。
「はい」
その返事が嘘に近いことを、全員が分かっていた。
◇
白い部屋で、余はその会話を見ていた。
「魔力盤を焼くつもりか」
《周囲魔力濃淡の強制視覚化と思われます》
「厄介だな」
《一時的に迷宮偽装の一部が露見する可能性があります》
「止めるか」
《推奨》
余は少し考えた。
止めることはできる。
盤へ先に影針を落とす。
白磁根で技師の腕を縛る。
戻り水で足を取る。
だが。
「見せる」
《よろしいのですか》
「見せた上で殺す」
マルクは査定官だ。
彼は記録する。
リーゼが魔力濃淡を見れば、マルクはそれを書く。
そして、その記録を持ち帰れなければ、記録は余のものになる。
人間がどう測るのか。
どこを危険と見るのか。
それを知る機会だ。
「ただし、本当の深部は見せるな」
《魔神練兵窟、夜棺白庭、コア区画は遮断済み》
「骸門残響隔離層の核も隠せ」
《隔離強化》
「見せるのは、壊れた偽の出口、戻り水の大流、湿骨軍列の残り、白磁偽財殿の崩落反応、その程度でいい」
《承知しました》
フィルエが言った。
「ロード、リーゼが見るのは一瞬だよ」
「一瞬あれば十分だろう」
「うん。向こうにも、こっちにも」
その通りだ。
彼女が焼く一瞬。
それは人間側にとって最後の道標になるかもしれない。
だが、余にとっても最後の釣り糸になる。
◇
リーゼは、最後の魔力盤を床へ置いた。
割れた硝子面に、血のついた指を当てる。
血は、彼女自身のものだ。
さきほど飛んだ骨片で切れた指先。
それを媒介にする。
「――」
盤面の針が、異常な速度で回り始めた。
ひび割れた硝子の下で、白い光と黒い点がぶつかる。
リーゼの顔が歪む。
オルフェンが祈祷布を彼女の肩にかけた。
「――め」
祈祷布が淡く光り、リーゼの体へ流れ込む過剰魔力を一部受け止める。
だが、すぐに布の端が焦げ始めた。
「見えます!」
リーゼが叫んだ。
白い回廊の景色が、一瞬だけ変わる。
霧が薄皮のように剥がれる。
壁の向こうの戻り水。
床下を流れる骨の筋。
白磁根の束。
影針の溜まり。
遠くの崩落した白磁偽財殿。
さらにその奥に、黒く遮断された区画。
だが、そこは見えない。
見ようとした瞬間、魔力盤の針が一本弾け飛んだ。
「奥は駄目です! 見えない、いえ、見せられていない!」
マルクが記録板を開く。
「見えたものを言え!」
「右は死路! 白磁根と戻り水の袋小路! 正面は湿骨軍列の待機層! 左奥に崩落回廊、そこから外縁に近い魔力の薄い線!」
「左奥か!」
「でも、途中に大きな影があります!」
「影?」
「落武者……いえ、違う、道そのものが影になってる!」
軍帰路喰らいの干渉だ。
出口へ近い道ほど、帰路喰らいに喰われやすい。
リーゼはさらに見ようとする。
魔力盤の硝子が砕け始めた。
オルフェンの祈祷布が黒く焦げる。
「もう十分です!」
オルフェンが叫ぶ。
「まだ!」
リーゼの目から血が流れた。
「左奥の影、斬れば一瞬だけ通れます! でも、斬れるのは強い剣か、強い光か、強い祈り――」
そこで、魔力盤が割れた。
ばきん。
硝子が弾け、白い光がリーゼの体を貫いた。
「リーゼ!」
アレクが駆け寄る。
リーゼは倒れかけたが、オルフェンが支えた。
だが、彼女の目はもう焦点が合っていない。
「左……奥……」
彼女は震える声で言った。
「外に……近い……でも、影……」
マルクは、泣きそうな顔で記録した。
⸻
魔力盤術・全域焼視。
結果:
右路、死路。
正面、湿骨軍列待機層。
左奥、外縁に近い魔力薄線。
ただし、軍帰路喰らい由来と思われる影干渉あり。
強剣、強光、強祈祷による一時突破の可能性。
代償:
魔力盤全損。
リーゼ、重度魔力焼け。
⸻
リーゼは、マルクの筆の音を聞いて、少しだけ笑った。
「書けましたか」
「書けた」
「よかった」
その瞬間、床下の影が動いた。
余が動かしたのではない。
いや、正確には、余の命令を待っていた影が動いた。
カゲヌイの影針が、割れた魔力盤の影へ刺さる。
割れた盤の破片が、一斉に跳ねた。
破片の一つが、リーゼの胸へ向かう。
アレクが剣で弾く。
二つ目を弾く。
三つ目も。
四つ目が、オルフェンの祈祷布に当たり、止まる。
だが、五つ目。
小さな硝子片。
それはリーゼの喉へ刺さった。
彼女は声を出せなかった。
ただ、目を見開く。
アレクが手を伸ばす。
オルフェンが祈祷布で喉を押さえる。
だが、魔力焼けで弱った体に、硝子片は深く入りすぎていた。
リーゼは、震える手でマルクの記録板を指さした。
書いて。
そう言っているようだった。
マルクは、震える筆で書いた。
⸻
リーゼ・アルム、全域焼視により左奥の突破路を確認。
直後、魔力盤破片による致命傷。
⸻
リーゼは、その文字を見た。
そして、静かに息を吐いた。
《調査隊魔力盤技師リーゼ・アルム、死亡》
《獲得ソウル:420》
《取得:全域焼視の記録、魔力盤焼損片、外縁薄線の観測残滓》
◇
アレクは、リーゼの死体から手を離せなかった。
また、届かなかった。
今度は目の前だった。
助けようとした。
剣で破片を弾いた。
四つまで弾いた。
だが、五つ目が届いた。
小さな硝子片。
それが命を奪った。
「……くそ」
アレクの声は、小さかった。
叫びではない。
もっと深く、低いものだった。
オルフェンが、リーゼの目を閉じた。
彼の手も震えている。
「彼女は、道を見つけました」
マルクが記録板を握る。
「はい」
「なら、行きましょう」
オルフェンは、静かに立ち上がった。
祈祷布は、ほとんど黒く焦げている。
だが、まだ少しだけ白い部分が残っている。
「左奥。影干渉を越える必要があります」
アレクは頷いた。
「俺が斬る」
「強い剣が必要、とリーゼは言いました」
「ああ」
「しかし、影は道そのものにかかっている。剣だけでは足りないかもしれません」
「なら?」
オルフェンは、自分の祈祷布を見た。
「強い祈りも、必要でしょう」
マルクが顔を上げる。
「オルフェン殿」
「次は、私の役目です」
アレクは言葉を失った。
もう、嫌だった。
誰かが役目を果たすたびに死ぬ。
進むたびに、誰かが残る。
それでも止まれば、死んだ者のすべてが無駄になる。
「……行く」
アレクは言った。
「左奥だ」
◇
白い部屋で、余はリーゼの死を確認した。
「魔力盤は壊れたな」
《はい》
「だが、左奥の薄線を見られた」
《はい》
「構わん。次は祈祷布か」
《オルフェンが自己犠牲的行動を取る可能性が高いです》
「人間は順番に死にに来るな」
《役割遂行と推定》
「分かっている」
フィルエが静かに言った。
「アレク、変わってきてる」
「まだだ」
「うん。まだ。でも、奥が冷たくなってる」
「怒りではないのか」
「怒りもある。でも、それだけじゃない。何かを置いていくたび、剣が軽くなってる。重くなってるのに、軽くなってる」
「分かりにくいな」
「うん。でも危ない」
アレクはまだAランクだ。
だが、その剣の魔力は少しずつ変わっている。
死者を背負うたび。
助けられなかった手を握るたび。
記録を持ち帰る意味が重くなるたび。
白銀の剣が、静かに冷えている。
燃えるのではない。
冷えて、研ぎ澄まされている。
「次で、オルフェンを殺す」
《承知しました》
「マルクはまだ残せ」
《記録継続のためですね》
「そうだ」
マルクには最後まで書かせる。
そして最後に、アレクへ託させる。
余はまだ知らない。
それが何を引き起こすのかを。
◇
左奥の道は、狭かった。
灰白の壁が左右から迫り、天井も低い。
水の流れは冷たい。
たしかに外縁に近い。
だが、その中央には黒い影が垂れていた。
道そのものにかかった影。
軍帰路喰らいの落武者が喰った帰路の残り。
そこを通ろうとすれば、戻る意味を失う。
足が止まる。
方向を失う。
下手をすれば、同じ場所を回り続ける。
アレクは剣を構えた。
白銀の刃が、薄く光る。
「白銀剣技――」
剣が振られる。
影が裂ける。
だが、完全には切れない。
すぐに黒い筋が戻る。
まるで、道の傷口が閉じるように。
オルフェンが前に出る。
「祈りを重ねます」
「危険だ」
アレクが言った。
オルフェンは穏やかに答えた。
「ここに来て、危険でないことがありましたか」
アレクは何も言えなかった。
オルフェンは、黒く焦げた祈祷布を広げる。
残った白い部分は少ない。
それでも、彼は祈った。
「――」
祈祷布の白い部分が、淡く輝いた。
その光が、黒い影の上へ落ちる。
外へ帰るための祈り。
死者を送る祈りではない。
生者を帰すための祈り。
影が、少しだけ薄くなる。
「今です」
オルフェンが言った。
アレクが再び剣を振る。
「白銀剣技――道裂!」
今度は、影が深く裂けた。
通れる。
ほんの数呼吸だけ。
「マルク、先へ!」
アレクが叫ぶ。
マルクが走る。
記録板を抱えて。
だが、影の奥から落武者が現れた。
軍帰路喰らい。
刃を構え、オルフェンの祈りを斬ろうとする。
オルフェンは逃げなかった。
祈祷布を両手で広げる。
「アレク殿、マルク殿を」
「オルフェン!」
「記録を、外へ」
落武者の刃が振られる。
オルフェンの祈祷布が裂ける。
黒く汚れた布が、白い欠片となって舞う。
だが、その布が裂ける瞬間、光が強くなった。
帰白標。
最後の白が、影を押し返す。
マルクが影の裂け目を抜ける。
アレクも続く。
だが、オルフェンは残った。
落武者の刃が、彼の胸を貫いている。
オルフェンは血を吐きながらも、祈祷布の端を離さなかった。
「神よ」
彼は、初めて長い祈りではなく、短く言った。
「この記録だけは、帰してください」
落武者の刃が引き抜かれる。
オルフェンの体が崩れる。
影が閉じる直前、彼の祈祷布の白い欠片が、アレクの肩に落ちた。
《神殿浄化鑑定官オルフェン、死亡》
《獲得ソウル:530》
《取得:帰白標の記録、生還祈願の残滓、浄化布の白片》
◇
影の裂け目を抜けた先で、アレクとマルクは転がるように倒れた。
残ったのは、二人。
アレク・ヴァイス。
マルク・ゼノ。
それだけだった。
マルクは、記録板を抱えたまま震えている。
全身が血と泥で汚れている。
だが、記録板は離していない。
アレクは、ゆっくり立ち上がった。
肩に、オルフェンの祈祷布の白片が乗っている。
手には白銀の剣。
腰にはリンドの短剣。
腕にはリーゼの血。
胸にはガルドスとエリシアの声。
足元には、戻れなかった者たちの重さ。
マルクが、震える声で言った。
「アレク殿」
「何だ」
「記録は……あります」
「そうか」
「ですが」
彼は、白い霧の奥を見た。
そこには、まだ道がある。
外へ続いているのか。
さらに迷宮の奥へ続いているのか。
分からない。
「私たちは、帰れるでしょうか」
アレクは答えなかった。
答えられなかった。
だが、剣を握った。
「帰る」
それは、約束ではない。
願いでもない。
命令だった。
自分自身への。
マルクは、記録板を抱え直した。
「なら、書きます」
彼は震える手で書く。
⸻
リーゼ・アルム、全域焼視により左奥の薄線を確認。死亡。
オルフェン、帰白標により影干渉を一時突破。死亡。
残存:
アレク・ヴァイス
マルク・ゼノ
結論:
灰白庭は、Aランクではない。
⸻
その一文を書いた瞬間、白い霧の奥で何かが笑ったような気がした。
アレクは剣を構える。
マルクは記録板を抱える。
二人だけになった再査定隊は、まだ終わっていない。
だが、迷宮はもう、次の獲物を決めていた。