余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
白い霧の奥で、本物の赤金の香りが濃くなった。
それは、偽天猟庭の赤金とは違う。
赤錆の甘さでもない。
白磁花で塗った匂いでもない。
命そのものが熟したような、深く、静かな甘さ。
天蓋の猟犬は、その匂いを嗅いだ。
ミトが、最初に震えた。
「近い」
彼女の声は低かった。
獣の唸りではない。
飢えでもない。
まるで、長い眠りの中で誰かが息をした音を聞いたような声だった。
「すごく、近い」
セラは右目を閉じたまま、頬の血を袖で拭った。
もう値星眼は限界に近い。
偽星幕に何度も焼かれ、偽りの赤金を切り捨て、本物の方向だけを覚えた。
今、もう一度全開にすれば、しばらく右目は使えなくなるかもしれない。
それでも、彼女は言った。
「次に見る時が、最後でいい」
ロウエンは頷いた。
「最後にする」
ドランは胸を押さえ、浅く息をした。
風壁師としては、もう万全ではない。
偽天猟庭で何度も壁を張り、重泥霧に沈められ、胸の傷も開きかけている。
だが、彼は笑っていた。
「じゃあ、最後の壁だな」
ノアは鈴を握りしめる。
喉は温存してきた。
反響喰いを警戒し、骨拍と鈴だけでここまで支えてきた。
だが、最後は歌う必要がある。
彼女自身、それを分かっていた。
アゼルは伏星の残りを確認する。
少ない。
小天蓋も乱れている。
逆星骨に何度もずらされ、星図に傷が入っている。
それでも、最後の一撃を支えるだけの星は残していた。
ロウエンは、帰猟線を六本、それぞれの仲間へ伸ばした。
そして、七本目を自分の胸に巻いた。
眠る仲間、リーネの名を背負う糸。
ここにいない七人目。
だが、彼らが帰る理由そのもの。
「行くぞ」
ロウエンが言った。
「一つ取る」
セラが頷く。
「一つでいい」
ノアが静かに続ける。
「リーネに繋がる、一つ」
その瞬間、背後から黒い圧が来た。
魔神進軍鐘が鳴る。
ごん。
振り返るまでもない。
ガルザヴェインが追いついた。
◇
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインは、傷だらけだった。
偽天猟庭で受けた傷。
焼猟線で開いた腕。
伏星で乱された足。
ドランの風壁に押し返された肩。
ミトの爪が触れた脇腹。
アゼルの星に焼かれた胸。
それでも、彼は立っていた。
金色の目は、まだ強い。
黒い魔神性は、まだ燃えている。
「イカセナイ」
ガルザヴェインは言った。
「エリラ、マモル」
ロウエンは空糸を構えた。
「そこを越える」
「トラセナイ」
「取らなきゃいけない」
「ナゼ」
この状況で、ガルザヴェインが問うた。
拳を握りながら。
傷口から血を流しながら。
それでも、問うた。
ロウエンは答えた。
「仲間を起こすためだ」
ガルザヴェインの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「ナカマ」
「ああ」
「リーネ」
その名を、魔神戦王が口にした。
白い部屋で、ロードが息を呑んだ。
「名前を覚えたのか」
フィルエが静かに言う。
「聞いてたから」
ガルザヴェインは、天蓋の猟犬を見た。
「アレク、キロク、マモッタ」
誰も知らない名が出た。
天蓋の猟犬には、それが誰か分からない。
だが、その声に込められた重さだけは分かった。
「オマエタチ、リーネ、マモル」
ロウエンは答えない。
答える必要がなかった。
ガルザヴェインが、拳を上げる。
「デモ」
黒い魔神性が拳に集まる。
「エリラ、ワタサナイ」
その一言で、戦いが再開した。
◇
ガルザヴェインが踏み込む。
今度は、一直線ではない。
右へ揺れ、左へ沈み、足元の重泥霧を踏み砕きながら前へ出る。
ロウエンの帰猟線が先に動く。
だが、ガルザヴェインは糸を見ている。
糸の先を見る。
糸が何を動かすかを見る。
訓練の成果だ。
「ソコ」
ガルザヴェインの拳が、ロウエン本人ではなく、ロウエンが次に支えようとしたドランの風壁予定点へ落ちた。
風壁が張られる前に、空間ごと砕かれる。
ドランが舌打ちする。
「読みやがった!」
「魔神拳――黒牙砕!」
拳が来る。
ドランは正面で受けない。
斜めに風を流す。
「風壁術――斜犬盾!」
黒い拳が逸れる。
だが、逸れた先にガルザヴェインの膝があった。
ドランの胸へ向かう。
前回潰された場所。
そこを狙う。
ノアの鈴が鳴る。
ちりん。
風壁の裏に薄い治癒振動が走る。
ドランの胸の傷が、一瞬だけ締まる。
彼は膝を受けた。
風壁越しに。
胸が軋む。
血が口元に上がる。
だが、倒れない。
「その程度じゃ、二度目は倒れねえ!」
ドランが吠えた。
その足元で、アゼルの伏星が光る。
「伏星術――反牙星!」
ガルザヴェインの踏み込みが、反発する。
巨体がわずかに浮く。
その一瞬へ、ミトが入った。
「爪牙技――息噛み!」
狙いは肉ではない。
ガルザヴェインの呼吸の隙。
咆哮の前に魔神性が集まる喉元。
ミトの爪がそこへ触れる。
深くは入らない。
だが、息を乱した。
ガルザヴェインの魔神咆哮が、半拍遅れる。
その半拍で、セラが右目を開いた。
全開。
片眼鏡が悲鳴を上げる。
赤金の偽星が視界の端で弾ける。
だが、彼女はもう迷わない。
見ているのは、ガルザヴェインではない。
その背後。
本物のエリラの木へ繋がる道。
そして、魔神戦王が守るために残す最後の線。
「見えた!」
セラが叫ぶ。
「木は正面奥! でも、道は右下から回り込める!」
ロードが白い部屋で叫んだ。
「見るなと言っただろうがああ!」
《外部には聞こえていません》
「聞こえなくても言う!」
しかし、もう遅い。
天蓋の猟犬は、本物の道を掴んだ。
◇
ロウエンが指を裂くほど糸を引いた。
「散犬糸、右下!」
無数の短い空糸が、重泥霧の中を走る。
強く張らない。
重くなる前に切り替える。
糸が道を示す。
アゼルが伏星を置く。
ドランが低い風壁で戻り水を押す。
ミトが匂いを辿る。
ノアの骨拍が、三拍だけ強まる。
連結焼きの火灰が赤く熱を持つ。
だが、ノアは歌わない。
鈴も鳴らさない。
ただ、息を止めた。
繋がる瞬間を、ほんの一拍だけ無音にした。
連結焼きの火灰が、空を焼いた。
発火はした。
だが、焼くべき接続がない。
その一拍の空白で、天蓋の猟犬は右下の道へ滑り込む。
ガルザヴェインが反応する。
「トラセナイ!」
彼は飛んだ。
巨体が、低い道へ向かう。
だが、そこへドランが立った。
胸の傷が開く。
血が流れる。
だが、彼は風壁を張った。
前回、自分を潰した相手へ。
もう一度。
真正面から。
「風壁術奥義――天蓋城壁!」
透明な城壁が、ガルザヴェインの前に立つ。
ガルザヴェインは拳を握る。
「カベ!」
黒牙砕が城壁に叩き込まれる。
風壁が砕ける。
一枚。
二枚。
三枚。
だが、今回の天蓋城壁は、砕けるために作られていた。
砕けた風壁の破片が、逆に風の鎖になってガルザヴェインの腕へ絡む。
「風壁術変式――割鎖!」
ドランが血を吐きながら笑った。
「前と同じだと思うなよ!」
ガルザヴェインの腕が、一瞬だけ止まる。
アゼルの伏星が、その足元で光る。
ミトの匂い印が、ガルザヴェインの踏み込みを縛る。
ロウエンの帰猟線が、全員を一つへ束ねようとする。
連結焼きの火灰が、赤く燃え上がる。
だが、今回はノアが声を解放した。
「狩猟歌奥義――七名帰声」
六人の名ではない。
ロウエン。
セラ。
ドラン。
ミト。
ノア。
アゼル。
そして、リーネ。
七つの名が歌になる。
反響喰いの薄膜が、それを歪めようとする。
だが、七つ目の名はこの場にいない。
反響ではなく、記憶の中にある。
薄膜は、眠るリーネの名を喰いきれない。
連結焼きの火灰が、七つの繋がりを焼こうとする。
だが、七つ目の名は肉体の魔力線ではない。
願いだ。
焦げない。
焦げても、消えない。
その瞬間、天蓋の猟犬は本当に一つになった。
六人で一匹。
そして、眠る一人を背負った七つ目の牙。
ロードが白い部屋で、声を失った。
「……まずい」
フィルエが小さく言う。
「すごい」
ガルザヴェインも、それを感じた。
「ロク、ヒトツ」
彼は金色の目を見開いた。
「チガウ」
七つ。
六人なのに、七つ。
「ナナ、ヒトツ」
ロウエンの空糸が、全員の力を束ねる。
セラの視線が、ガルザヴェインの守護線の結び目を見抜く。
ミトの嗅覚が、踏み込みの匂いを読む。
アゼルの伏星が、足場を一点に集める。
ドランの割鎖が、ガルザヴェインの腕を一瞬止める。
ノアの七名帰声が、全員の息を重ねる。
そして、ロウエンが一歩踏み込んだ。
「天蓋猟奥義――」
空糸が、星を通り、風をまとい、爪の道をなぞり、歌の拍に乗る。
「六牙帰星!」
六つの牙が、一つの星になった。
それは刃ではない。
拳でもない。
槍でもない。
六人の連携そのものを、一本の帰るための牙にした一撃。
ガルザヴェインは逃げなかった。
避けることもできたかもしれない。
だが、避ければ、背後の道が開く。
エリラへ近づかれる。
だから、受けた。
「エリラ、マモル!」
魔神戦王が、両腕を交差する。
黒い魔神性が噴き上がる。
魔神進軍鐘が鳴る。
ごん。
六牙帰星が、魔神戦王へ届いた。
◇
音が消えた。
白い庭の花弁が、空中で止まった。
重泥霧が裂ける。
偽星幕が瞬き、赤金の偽星がいくつも砕ける。
逆星骨が悲鳴を上げるように鳴った。
反響喰いの薄膜が、ノアの歌を喰おうとして破れた。
連結焼きの火灰が、逆に白く燃え尽きた。
ガルザヴェインの両腕が、六牙帰星を受け止める。
黒い魔神性が牙を砕こうとする。
だが、牙は一つではない。
ロウエンの糸を砕けば、ドランの風が押す。
風を砕けば、アゼルの星が刺さる。
星を砕けば、ミトの爪が流れを裂く。
爪を砕けば、セラの視線が次の隙を示す。
隙を潰せば、ノアの歌が全てを繋ぎ直す。
そして、その中心にはリーネの名がある。
ガルザヴェインは、初めて理解した。
これは、一人の強さではない。
アレクは一人で強かった。
記録を守り、仲間の死を背負い、帰るために剣を握った。
天蓋の猟犬は、違う。
六人で強い。
眠る一人のために、六人が一つになる。
その強さは、拳で殴る場所がない。
「ツヨイ」
ガルザヴェインが呟いた。
次の瞬間、六牙帰星が魔神戦王の守りを砕いた。
両腕の魔神性が裂ける。
胸の白銀傷が開く。
ドランの風が押し込み、アゼルの星が内側で弾け、ミトの爪が踏み込みを奪い、ロウエンの空糸が背を引き、セラの視線が最後の隙へ導き、ノアの歌が全てを一拍に合わせる。
ガルザヴェインの巨体が、後ろへ吹き飛んだ。
白い庭石を砕き、偽天猟庭の中央に膝をつく。
片膝。
いや、両膝。
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインが、膝をついた。
《警告》
《ガルザヴェイン、戦闘姿勢崩壊》
《魔神性流、乱れ》
《一時戦闘不能》
白い部屋で、ロードの声が掠れた。
「……ガルザヴェイン?」
ガルザヴェインは立とうとした。
立てなかった。
拳を床につく。
黒い血が落ちる。
金色の目は、まだ燃えている。
だが、体が動かない。
「オレ……」
彼は、悔しそうに歯を剥いた。
「マケタ?」
誰も答えない。
だが、事実はそこにあった。
魔神戦王は、天蓋の猟犬の一撃で膝をついた。
◇
天蓋の猟犬も無傷ではなかった。
ロウエンの指は、何本も裂けている。
セラの右目は血で濡れ、もう開けない。
ドランは胸を押さえ、立っているのがやっとだ。
ミトの腕と足から血が流れる。
アゼルの伏星はほとんど尽きた。
ノアの声は震え、七名帰声の反動で唇が切れている。
だが、ガルザヴェインは膝をついた。
道が開いた。
ほんのわずか。
エリラの木へ続く、本物の深部線が見えた。
「今!」
ロウエンが叫んだ。
セラは右目を使えない。
だが、もう見なくても分かる。
さっき見た。
覚えた。
ミトが匂いを掴む。
「こっち!」
アゼルが最後の伏星を置く。
ドランが残った力で低い風を張る。
ノアが短く、リーネの名だけを歌う。
ロウエンは懐から、命摘みの小匙を取り出した。
ついに、その時が来た。
◇
ロードは叫んだ。
「立て! ガルザヴェイン、立て! いや、無理をするな! でも立て! いや、エリラが! あああああ!」
《ガルザヴェイン、一時戦闘不能》
「他の配下を出せ!」
《偽天猟庭損傷大。湿骨軍列、再展開に遅延》
「カゲヌイ!」
《影針展開》
「ハイハネ!」
《灰霧展開》
「グズ!」
《遠隔泥門展開》
「全部だ! 全部出せ!」
しかし、天蓋の猟犬は止まらない。
カゲヌイの影針は、アゼルの最後の星が弾く。
ハイハネの霧は、ミトの鼻とノアの短い歌が抜く。
グズの泥門は、ドランの低い風とロウエンの空糸が隙間を作る。
傷だらけでも、彼らは進む。
赤金の本物へ。
エリラの木へ。
ロウエンが木の前へ辿り着いた。
そこで、彼は乱暴に手を伸ばさなかった。
引きちぎらなかった。
握らなかった。
オルバの言葉を思い出す。
実が落ちたいと思う瞬間を待て。
ロウエンは、小匙を下から差し出した。
セラが、目を閉じたまま言う。
「左の枝。三番目」
ミトが頷く。
「その実、起きる匂い」
ノアが、かすれた声でリーネの名を歌う。
エリラの実が、枝の上で静かに揺れた。
赤金の皮が、淡く光る。
まるで、その名を聞いたように。
そして、ぽとりと落ちた。
命摘みの小匙が、それを受け止めた。
エリラの実、一つ。
天蓋の猟犬の手に渡った。
「取った」
ロウエンが言った。
声が震えていた。
「取ったぞ」
ノアの目に涙が浮かぶ。
ドランが、血を吐きながら笑った。
「リーネに、土産だな」
その瞬間、ロードの絶叫が白い部屋を揺らした。
「取られたああああああ!」
◇
だが、それで終わらなかった。
ガルザヴェインが、膝をついたまま拳を床へ叩きつけた。
最後の抵抗。
木を狙ったのではない。
天蓋の猟犬を逃がさないために、地面を揺らしたのだ。
同時に、アゼルが撤退用の伏星を起動する。
ノアの歌が帰路へ向かう。
ロウエンの帰猟線が全員を引く。
複数の衝撃が、エリラの木の周囲で重なった。
衝撃逃がし膜が、ほとんどを吸収する。
だが、全てではない。
枝の一本が、大きく揺れた。
そこに生っていた実が一つ、枝から外れる。
誰も狙っていなかった。
誰も採ろうとしていなかった。
赤金の実が、くるりと回りながら落ちる。
ロードが白い部屋で叫んだ。
「落ちるな! 落ちるな落ちるな落ちるな!」
ミトが、それを見た。
足元へ転がってくる。
ほとんど反射だった。
彼女は、手を伸ばした。
掴んだ。
エリラの実、二つ目。
ミトは一瞬、目を丸くした。
「……拾っちゃった」
ロウエンが叫ぶ。
「持って走れ!」
「うん!」
ロードの声は、もう悲鳴だった。
「拾うなあああああ! 返せ! それは違う! それは予定外だろうが! 返せえええ!」
だが、天蓋の猟犬は返さない。
一つはリーネのために取った。
もう一つは、偶然落ちた。
だが、手に入ったなら持って帰る。
冒険者だからだ。
◇
ガルザヴェインが、震える拳で床を掴む。
「エリラ……」
立とうとする。
立てない。
魔神戦王は、六牙帰星の衝撃でまだ動けない。
金色の目が、天蓋の猟犬を追う。
「ニコ……トラレタ」
彼は初めて、数字をはっきり言った。
二個。
二つ。
守るはずだった実を。
ロードは、白い部屋で言葉を失った。
《エリラの実、二個外部保持状態》
「……」
《木本体、枯死なし》
「……」
《残存実、多数。翌日再結実可能性、維持》
「……」
そんなことは分かっている。
木は枯れない。
一個でも残れば戻る。
二つ取られても、資源的には致命傷ではない。
だが、そういう話ではない。
守ると決めた。
一個たりとも取らせないと言った。
ガルザヴェインも、エリラを守ると言った。
偽天猟庭も作った。
ソウルも使った。
訓練もした。
それでも、取られた。
二つも。
片方は、偶然に。
「……追え」
ロードの声は、低かった。
《追撃可能戦力、再編中》
「追え」
《ガルザヴェイン、一時戦闘不能》
「ガルザヴェイン以外で追え!」
《湿骨軍列、カゲヌイ、ハイハネ、グズ遠隔門、展開可能》
「全部だ」
ロードの声が、白い部屋に沈む。
「全部使え」
天蓋の猟犬は、エリラの実を二つ抱えて走り出した。
傷だらけで。
息も絶え絶えで。
それでも、帰るために。
リーネを目覚めさせるために。
白い霧が、彼らの背後で閉じ始める。
そして、ロードの怒りが、迷宮全体を震わせた。
「逃がすな」
今度の声は、叫びではなかった。
静かで、重い命令だった。
「その実を持って、外へ出すな」