余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
黒冠軍第七牙の五人が、白い霧の中へ入った。
先頭は、黒鎧の男。
ゼルヴァン・ギルロア。
その半歩後ろに、大盾と戦槌を持つ巨体。
右の霧へ沈むように歩く影の女。
血晶の瓶を腰に下げた術師らしき女。
最後尾に、骨札を指に挟む痩せた男。
五人。
数だけなら、天蓋の猟犬より少ない。
だが、歩き方が違う。
冒険者のように、宝箱や素材へ視線を散らさない。
調査隊のように、記録を取るために立ち止まりすぎない。
彼らは、歩く時も、止まる時も、振り返る時も、互いの距離が崩れなかった。
前に隊長。
守る者。
探る者。
測る者。
記録する者。
役割が、最初から決まっている。
軍だった。
五人で、一つの命令として歩いている。
白い部屋で、余はその姿を見ていた。
「浅層の餌は」
《配置済み》
「戦争用素材らしく見せろ。赤錆核、白骨水晶片、黒泥城片。ただし、本命ではない」
《承知》
「いきなり深部へは近づけるな。まずは目的を見る」
《はい》
「ガルザヴェインは待機」
「ワカッタ」
ガルザヴェインの返事は低い。
ルオとの組み手の後でも、彼の中にはまだ戦う熱が残っている。
だが、今回は違う。
ルオのような災害級常連ではない。
天蓋の猟犬のような宝狩りでもない。
軍だ。
余はまだ、この五人の本当の牙を知らなかった。
◇
ゼルヴァンは、浅層の白い通路で足を止めた。
床に、赤黒い結晶片が落ちている。
赤錆核に似せた罠素材。
近づけば、戻り水が足を取る。
触れれば、赤錆噛みの牙粉が金属装備を喰う。
普通の素材狩りなら、迷わず食いつく。
ゼルヴァンは、手を伸ばさなかった。
「メルゼア」
「はい」
血晶瓶の女が、一歩前へ出た。
結晶片を見下ろす。
「価値はあります。防具喰いの呪具、または結界削りの補助素材として使える可能性があります」
「罠は」
「あります」
「解除できるか」
「できます。ただし、この場で取るほどではありません」
大盾の巨体、バロウが低く笑った。
「では壊して進みますか」
「壊すな」
ゼルヴァンは言った。
「この迷宮が何を餌にするかを見る。素材は記録だけでいい」
骨札の男、オルグが骨符を一枚投げた。
骨符は床へ触れる寸前で止まり、白い床の魔力を吸った。
戻り水が反応する。
赤錆の牙粉が、かちかちと小さく鳴る。
「浅い罠ですな」
オルグが言う。
「ただし、罠の置き方が丁寧です。こちらを試している」
影の女、リシェが霧の奥を見た。
「霧の向こうから見られている感じがする」
ゼルヴァンは頷いた。
「見せておけ」
彼らは、赤錆核を取らずに進んだ。
余は白い部屋で眉をひそめる。
「浅い餌には食いつかんか」
《はい》
「戦争用素材を探していると言ったわりに、慎重だな」
《目的意識が強いものと思われます》
「面倒だ」
フィルエが森灰観測室から言った。
「ロード、あの隊長、魔物をずっと見てる」
「素材ではなく?」
「うん。罠も見てるけど、魔物の反応をよく見てる」
「……嫌な見方だな」
その時、白い霧の中で最初の接触が起きた。
◇
霧喰い刃ゴブリンの小隊が動いた。
十二体。
灰霧の中で短距離加速し、足首、採取具、鞄、指を狙う新型の浅層防衛部隊。
殺すより、動きを鈍らせるための配下。
白い霧の中から、彼らは一斉に飛び出した。
「ギギッ!」
「キル!」
「ハコ、マモル!」
最後の号令はやはり少し違う。
だが、士気は高い。
バロウが盾を構える。
「来たぞ」
「殺すな」
ゼルヴァンが言った。
声は静かだった。
「捕る」
彼が左手を上げる。
黒い冠のような紋様が、手の甲に浮かび上がった。
余は壁面に見入る。
「何だ、あれは」
《解析中》
ゼルヴァンの手から、黒い線が伸びた。
魔術糸ではない。
呪符でもない。
命令そのものが、黒い冠の形を取ったような線。
それが、霧喰い刃ゴブリンたちの額へ突き刺さる。
ゴブリンたちが、一斉に止まった。
「……ギ?」
「何をした」
余の問いに、管理音声が警告で答えた。
《低位配下への外部命令干渉を確認》
「外部命令?」
《行動優先権が、一部上書きされています》
「意味を言え!」
《対象配下が、ロードの命令より外部命令を優先する可能性があります》
その瞬間、霧喰い刃ゴブリンたちが振り返った。
こちらへ。
迷宮の奥へ。
刃を構えて。
「……冗談だろう」
余の声が、白い部屋に落ちた。
ゼルヴァンが短く命じる。
「先導しろ」
霧喰い刃ゴブリンたちは、黒冠軍の前に出た。
まるで最初から彼らの兵だったかのように。
「ギ……ギギ……」
だが、一体だけ動きが遅れた。
小柄な霧喰い刃ゴブリン。
額の黒い冠紋が薄い。
刃を震わせ、こちらへ戻ろうとしている。
抵抗している。
「おい」
ゼルヴァンが、その個体を見る。
メルゼアが目を細めた。
「支配が浅いですね」
「野良ではないな」
ゼルヴァンは淡々と言った。
「何か別の命令系統が奥に残っている」
「どうしますか」
「軍列を乱すなら処理する」
処理。
その言葉に、余は嫌なものを感じた。
ゼルヴァンは指を下ろした。
「処理しろ」
操られた霧喰い刃ゴブリンたちが、一斉に動いた。
抵抗していた一体へ。
「やめろ!」
余は叫んだ。
命令は届いている。
届いているはずだ。
だが、その届いた先で、黒い冠が上から潰す。
抵抗していたゴブリンは、仲間の刃を受けた。
小さな体が白い床に倒れる。
霧に混じって、赤黒い血が広がった。
ロードの配下が。
ロードの配下を殺した。
白い部屋で、余は言葉を失った。
《霧喰い刃ゴブリン一体、死亡》
「……」
《外部支配命令への抵抗個体が、支配下個体により殺害されました》
「言うな」
《記録が必要です》
「言うなと言っている!」
フィルエの声が震えた。
「ロード」
「……分かっている」
何も分かっていなかった。
これは、ただ強い敵が来たのではない。
これは、余の牙を奪う敵だ。
◇
ゼルヴァンは、倒れたゴブリンを一瞥しただけだった。
喜びもない。
怒りもない。
軍の指揮官が、隊列を乱す駒を排除した。
ただ、それだけの顔だった。
メルゼアが言う。
「黒冠隷命、低位個体には通ります」
「完全ではない」
ゼルヴァンは答えた。
「この迷宮の魔物は、何かに統制されている。支配の奥に、別の命令が残る」
「高位個体には?」
「効くかは分からん」
彼は、霧の奥を見た。
「だが、低位だけでも十分使える。数を奪れば、迷宮の罠は軍列になる」
その言葉を、余は聞いていた。
白い部屋で。
全部。
聞いていた。
「……こいつ」
声が震えた。
「こいつは、余の配下を何だと思っている」
《敵指揮官は、配下を戦力として認識しているものと思われます》
「戦力だと」
余の視界に、死んだゴブリンの小さな体が映る。
つい数日前、ルオが持ってきた空梨を見て、食べていいか迷っていた同族。
エリラの欠片をもらって、目を輝かせていたゴブリンたち。
弱い。
馬鹿だ。
すぐ騒ぐ。
でも、余の配下だった。
それを、仲間の手で斬らせた。
「殺す」
余は言った。
低く。
「ゼルヴァン・ギルロアを殺す」
◇
浅層の霧が揺れた。
ハイハネが、怒ったように羽を開く。
灰霧幻導蛾。
霧で誘導し、視覚、嗅覚、距離感覚をずらす配下。
ゼルヴァンたちの前に、白灰の霧が厚くなる。
視界を奪う。
距離を歪める。
操られたゴブリンたちと黒冠軍を分断しようとする。
だが、ゼルヴァンはまた左手を上げた。
黒冠の紋様が濃くなる。
「霧の制御も魔物由来か」
彼は観察してから言った。
「奪えるか試す」
「やめろ」
余の声は、白い部屋で漏れた。
黒い命令が、霧の中へ伸びる。
ハイハネ本体ではない。
霧に染み込んだ、ハイハネの制御糸へ。
ハイハネの羽が震えた。
「ハイハネ、戻せ!」
霧が一瞬、こちらへ戻ろうとする。
だが、その上から黒冠の命令が被さった。
白い霧が、反転した。
黒冠軍の視界を隠す霧ではない。
黒冠軍を守る霧へ。
余の配下を、余の敵に隠す霧へ。
《ハイハネ制御霧、一部外部命令下へ》
「ハイハネ!」
羽音が聞こえた。
苦しそうな音だった。
ふぁさ。
ふぁさ。
いつもの眠そうな羽音ではない。
抵抗している。
だが、霧は黒冠軍の周囲へ回る。
フィルエが叫ぶ。
「ハイハネ、嫌がってる!」
「分かっている!」
嫌がっている。
だが、動く。
その事実が一番きつい。
心が残っているのに、命令だけが奪われている。
◇
カゲヌイも狙われた。
影軍縫帥カゲヌイ。
本来なら、敵の影を縫う配下。
だが、黒冠の命令が影糸へ触れた。
カゲヌイの影が震える。
「カゲヌイ、抵抗しろ!」
余は叫ぶ。
影糸が黒く震える。
何本かは、自分自身の影を縫って動きを止めようとした。
だが、黒冠隷命がそれを上書きする。
ゼルヴァンが言った。
「強い反応の足を止めろ」
彼は、ガルザヴェインを名指ししていない。
知らないからだ。
だが、カゲヌイの影糸は、その命令を最も強い迷宮側戦力へ向けた。
ガルザヴェインへ。
「やめろ、カゲヌイ!」
影糸が、魔神戦王の足元へ届く。
ガルザヴェインは動こうとしていた。
黒冠軍へ向かおうとしていた。
その足を、カゲヌイの影糸が縫った。
「グ……!」
ガルザヴェインの足が止まる。
完全には止まらない。
だが、一拍遅れる。
その一拍で、操られた霧喰い刃ゴブリンたちが、さらに奥へ進む。
「カゲヌイ!」
カゲヌイの影が震えた。
答えはない。
ただ、影糸の一部が裂けるように震えている。
抵抗しているのだ。
しかし、足りない。
ゼルヴァンの命令が強い。
余の命令が、届いているのに通らない。
「管理音声!」
《外部支配命令が行動優先権を上書きしています》
「解除方法は!」
《支配源の撃破》
「他には!」
《対象魔物の核破壊》
白い部屋が凍った。
「……核破壊」
《はい。操られた個体を破壊すれば、外部命令は停止します》
「つまり、余に、カゲヌイを壊せと言うのか」
《戦術上は有効です》
「黙れ」
《しかし、配下損失が発生します》
「黙れと言っている!」
壊せば止まる。
分かる。
分かってしまう。
だが、できるか。
カゲヌイは余の影だ。
何度も侵入者を縫い、ガルザヴェインの背を支え、深部を守ってきた。
それを、余の命令で壊す?
「……できるか」
声が出た。
命令ではない。
ただの呻きだった。
◇
黒冠軍は進む。
操られたゴブリンを前に出し、ハイハネの霧をまとい、カゲヌイの影を利用しながら。
ゼルヴァンは、霧の変化を観察していた。
リシェが低く言う。
「霧の動きが変わった」
「どう変わった」
「荒い。さっきより罠の起動が早い。こちらを押し潰すというより、急いで排除しようとしている」
ゼルヴァンは白い霧を見た。
「中に制御する仕組みがあるなら、反応を急がせる価値はある」
「感情があると?」
「分からん」
ゼルヴァンは即答した。
「だが、反応はある。反応があるなら、乱せる」
余は、それを聞きながら歯噛みした。
こいつは、余を知っているわけではない。
ロードの存在を知っているわけでもない。
ただ、見て、試して、反応から読んでいる。
それが余計に嫌だった。
あいつは、余の怒りを知っているのではない。
余の迷宮の反応を、戦場の動きとして処理しているだけだ。
その冷静さが、腹立たしい。
◇
中層手前で、グズの黒泥城が立ち上がった。
泥塞黒城将グズ。
重い黒泥で城を作り、敵を閉じ込め、圧壊層へ落とす配下。
グズは、ゼルヴァンの前に城門を閉じた。
今度は褒められても開かない。
ルオの時のようにはいかない。
「グズ、よくやった!」
余は言った。
だが、ゼルヴァンが黒い手を上げた。
「大きいが、構造は魔物の核に従っている」
黒冠隷命が、泥へ入る。
グズの泥門が震えた。
「グ……ズ……!」
「グズ、耐えろ!」
泥門が開きかける。
閉じる。
開きかける。
閉じる。
抵抗している。
グズは、全力で抵抗している。
黒い城壁の表面に、余の命令紋と黒冠の紋が交互に浮かぶ。
「グズ! 閉じろ!」
「グ……ズ……!」
閉じた。
一瞬だけ。
完全に閉じた。
黒冠軍の前進が止まる。
「隊長」
バロウが盾を構える。
「壊しますか」
「いや」
ゼルヴァンは言った。
「従わぬ門は、従う兵で開ける」
操られた霧喰い刃ゴブリンたちが動いた。
彼らは、グズの泥門へ向かった。
「やめろ」
余は言った。
ゴブリンたちは刃を構える。
グズの泥門の継ぎ目へ。
泥核へ繋がる細い筋へ。
仲間の刃が、グズを削る。
「やめろ!」
霧喰い刃ゴブリンたちは、黒冠の命令でグズの門を裂いていく。
グズは抵抗した。
刃を沈めれば、ゴブリンごと潰せる。
そうすれば門は守れる。
だが、グズは潰さなかった。
仲間だからだ。
自分を削っているのが、ロードの配下だと分かっているからだ。
「グズ……グズ……!」
苦しそうな声。
泥が震える。
門が開く。
グズは、配下を潰さなかった。
そのせいで、門が開いた。
《グズ黒泥城、突破されます》
「……」
《グズ、味方損傷回避のため圧壊防衛を停止》
「分かっている」
分かっている。
分かっているから、きつい。
ゼルヴァンは、開いた門を通った。
「硬い門だ。使える」
その一言が、余には侮辱に聞こえた。
◇
中層へ入る前、マネがいた。
声を真似る配下。
かつて余の声で侵入者を追い返した、妙に便利な魔物。
マネは白い壁の奥に隠れていた。
声だけを響かせる場所。
余は命じた。
「マネ、黒冠軍に偽命令を出せ。混乱させろ」
「……ロード」
マネの声が返る。
まだ大丈夫だ。
そう思った。
だが、ゼルヴァンが顔を上げた。
「声か」
彼の黒冠紋が濃くなる。
「捕れ」
黒い命令が、音の通り道へ入った。
マネが悲鳴を上げた。
それは、余の声だった。
「やめろ!」
白い部屋で、余は固まった。
余の声で、マネが叫んだ。
次に、別の声が響いた。
それも余の声だった。
「グズ、門を閉じろ」
違う。
余は命じていない。
「ハイハネ、霧を厚くしろ」
違う。
「カゲヌイ、ガルザヴェインの影を縫え」
違う。
「赤金果守、エリラの実を運べ」
「違う!」
余は叫んだ。
「それは余の命令ではない!」
だが、声は余の声だった。
マネだ。
マネが、操られている。
ゼルヴァンの命令を、余の声に変えている。
マネ自身は泣いているように震えていた。
それでも、声が止まらない。
「ロード」
フィルエの声が震える。
「ロードの声で……」
「分かっている!」
余の声が、余の配下に偽の命令を下している。
これほど不快なことがあるのか。
これほど、腹の中を汚されるような感覚があるのか。
マネが、また余の声で言った。
「ガルザヴェイン、止まれ」
ガルザヴェインの足が、一瞬止まった。
本物の余の声と、偽物の余の声。
魔神戦王でも、一拍迷う。
「ガルザヴェイン!」
余は本物の命令を叩き込む。
「止まるな!」
ガルザヴェインの金色の目が燃えた。
「ワカッタ」
彼は影糸を引きちぎり、前へ出ようとする。
だが、その前に。
軍帰路喰らいの落武者が、霧の中から現れた。
◇
落武者は、本来、余の配下だった。
帰路を喰らう軍の残響。
逃げる者の道を断ち、迷宮から外へ向かう意味を斬る存在。
天蓋の猟犬を逃がした時も、最後まで追った。
敗北はした。
だが、余の防衛線の重要な一部だった。
ゼルヴァンは、落武者を見た。
低位ゴブリンを見る時とは違う目だった。
メルゼアが言う。
「あれも奪いますか?」
「普通の魔物ではない」
ゼルヴァンは、落武者の灰白の鎧と抜かれた刃を見た。
「軍の残骸に近い」
「軍?」
「命令に縛られ、敗走を刻み、帰路を失った兵の形だ」
ゼルヴァンの左手に、黒冠の紋が浮かぶ。
「黒冠隷命が届くかは分からん。だが、試す価値はある」
黒冠の命令が、落武者へ触れた。
普通の魔物を縛る時とは違った。
命令が抵抗にぶつかる。
だが、砕けない。
むしろ、落武者の中にある古い軍令の残滓が、黒冠の命令に反応した。
帰れなかった兵。
命じられたまま死んだ者。
敗走の中で道を失った影。
そのすべてが、ゼルヴァンの黒冠に引き寄せられる。
《警告》
《軍帰路喰らいの落武者に異常反応》
「何だ」
《外部支配命令と既存能力が融合》
「融合だと?」
《進化反応》
「やめろ」
《名称変質》
落武者の灰白の鎧が、黒く染まる。
背に、黒い冠の紋が浮かぶ。
刃が長くなる。
帰路を喰うだけの刃ではない。
命令の道を斬り、軍列の進む道を開く刃。
《黒帰将・落武者》
黒帰将。
短い名。
だが、その気配は重かった。
黒帰将が刃を抜く。
その瞬間、操られたゴブリンたちの動きが変わった。
バラバラだった配下が、軍列になる。
ハイハネの霧が進軍路を隠す。
カゲヌイの影糸が、こちらの足を縫う。
グズの泥門が、黒冠軍の背後を守る。
湿骨王列の骨が、黒冠軍の足場を作る。
マネの声が、余の声で命じる。
「進め」
余は命じていない。
それでも、余の配下たちは進んだ。
黒冠軍のために。
「やめろ」
声が、震えた。
「やめろ……」
◇
赤金果守ゴブリンたちが、深部の方へ歩き始めた。
エリラの木の方へ。
黒帰将の軍列に組み込まれ、マネの偽声で命じられて。
「赤金果守、エリラの実を運べ」
マネが、余の声で言った。
「やめろ!」
赤金果守ゴブリンたちは、泣くように鳴いた。
「ギ……ギギ……!」
自分の手を噛む個体もいた。
足を止めようとしている。
だが、止まらない。
黒冠の命令が、足を動かす。
そのうち一体が、完全に抵抗して立ち止まった。
小さなゴブリンだった。
いつも数を間違えて、フィルエに直されていた個体だ。
そいつは、自分の頭を床に打ちつけるようにして止まった。
「ギギギッ!」
動かない。
動かなかった。
ゼルヴァンが、静かに見た。
「抵抗個体」
その言葉だけで、黒帰将が刃を上げた。
「やめろ」
余は言った。
操られた霧喰い刃ゴブリンが動く。
赤金果守ゴブリンへ。
「やめろ」
刃が振るわれる。
小さな赤金果守ゴブリンが、白い床に倒れた。
赤金の実を守るために生まれた配下が。
同じ迷宮の配下に。
斬られた。
白い部屋で、余は音を失った。
フィルエが息を呑んだ。
「……ロード」
返事ができなかった。
《赤金果守ゴブリン一体、死亡》
管理音声の声が、遠い。
《外部支配命令への抵抗個体が殺害されました》
余の配下を。
余の迷宮で。
余の声を使って。
余の配下に殺させた。
「……ゼルヴァン」
余は、ようやく声を出した。
自分でも驚くほど、低い声だった。
「お前だけは、殺す」
◇
ガルザヴェインが動いた。
影糸を引きちぎる。
黒い魔神性が、深部手前を揺らす。
「ロード」
「行け」
余は言った。
迷いはなかった。
「ただし、殺せる敵だけを殺せ。配下を壊すな」
「ワカッタ」
「黒冠軍を止めろ。ゼルヴァンを止めろ。マネを取り戻せ。赤金果守を、エリラに近づけるな」
「ワカッタ」
ガルザヴェインは、前へ出た。
だが、その前には、黒冠軍の五人だけではない。
操られた霧喰い刃ゴブリン。
ハイハネの霧。
カゲヌイの影。
グズの泥門。
湿骨王列の骨。
赤金果守ゴブリン。
マネの偽声。
そして、黒帰将・落武者。
全部、余の配下だったもの。
いや、今も余の配下だ。
奪われているだけだ。
ガルザヴェインの金色の目が、震えた。
殴れば壊れる。
踏めば死ぬ。
焼けば消える。
だが、止めなければ迷宮が壊される。
エリラの木が奪われる。
フィルエが危ない。
余のコアも危ない。
ゼルヴァンが、ガルザヴェインを見た。
「強いな」
彼は黒剣を抜く。
「だが、味方を踏めないなら、軍には勝てない」
その言葉に、ガルザヴェインの拳が震えた。
白い部屋で、余のコアも震えた。
ゼルヴァンは正しい。
正しいからこそ、殺したい。
黒帰将が刃を掲げる。
操られた配下たちが、一斉にガルザヴェインへ向く。
マネが、余の声で命じた。
「ガルザヴェインを倒せ」
「違う!」
余は叫んだ。
だが、偽りの余の声が、迷宮に響く。
ガルザヴェインは、黒い霧の中で拳を握った。
目の前にいるのは敵。
だが、仲間。
守るべきもの。
奪われたもの。
そして、黒冠軍第七牙が、その背後から冷静に進軍してくる。
ガルザヴェインは、初めて歯を食いしばるように言った。
「カエセ」
魔神性が、黒く燃える。
「オレノ、ナカマ、カエセ」
黒冠軍と、奪われた配下たち。
魔神戦王ガルザヴェインは、その全てを前にして立った。
そして余は、白い部屋で、何もできないまま見ていた。
自分の配下が、自分の配下を殺し。
自分の声が、自分の迷宮を裏切る。
その地獄の中心で。
黒帰将の刃が、ゆっくりと振り下ろされた。