余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
黒帰将・落武者の刃が振り下ろされた。
その刃は、ただ肉を斬るものではない。
道を斬る。
命令を斬る。
帰る場所を斬る。
迷宮の中を流れる命令の筋へ、黒い刃が触れた瞬間、白い霧の奥で、いくつもの配下が揺れた。
グズの泥門が、黒冠軍の背後を守るように閉じる。
ハイハネの霧が、ロード側の視界を濁らせる。
カゲヌイの影糸が、ガルザヴェインの足元を縫う。
湿骨王列の骨橋が、黒冠軍の進軍路を作る。
赤金果守ゴブリンたちは、泣くように鳴きながら、エリラの木の方へ歩かされている。
そしてマネは、余の声で命令を出し続けていた。
「進め」
違う。
余ではない。
「ガルザヴェインを止めろ」
違う。
それは余の命令ではない。
「エリラの実を運べ」
「黙れ!」
白い部屋で、余は叫んだ。
だが、マネの声は止まらない。
余の声で、余の迷宮が汚されていく。
それを、ガルザヴェインは聞いていた。
黒い霧の中で。
仲間だった魔物たちに囲まれながら。
魔神戦王は、拳を握りしめていた。
「カエセ」
低い声だった。
怒りだけではない。
悔しさ。
戸惑い。
そして、恐怖。
自分が殴れば壊れてしまう仲間たちが、敵として前にいる。
それでも、進まなければならない。
止めなければ、迷宮が壊される。
エリラの木が奪われる。
フィルエが危ない。
ロードの声が、さらに奪われる。
「オレノ、ナカマ、カエセ」
ガルザヴェインが踏み込んだ。
◇
最初に襲いかかったのは、操られた霧喰い刃ゴブリンたちだった。
十二体。
すでに一体は抵抗して斬られた。
残った個体は、黒冠の命令で隊列を組んでいる。
以前のような小さな群れではない。
黒帰将の刃に導かれ、軍列として動いている。
正面から三体。
左右から四体。
背後から影を使って五体。
狙いはガルザヴェインの足首、膝裏、指。
小さな刃が一斉に走った。
「グ……!」
ガルザヴェインは踏み潰さない。
蹴り飛ばさない。
拳を振れば、ゴブリンごと砕いてしまう。
だから、彼は足を止めた。
それが、ゼルヴァンの狙いだった。
「踏めないか」
黒鎧の隊長は、静かに言った。
「なら、止まる」
ゼルヴァンは黒剣を抜いた。
長すぎない剣。
飾りの少ない実戦剣。
だが、刃には黒い冠の紋が薄く走っている。
「バロウ」
「応」
「正面」
大盾の巨体、バロウが進む。
黒い大盾を構え、戦槌を肩に担ぐ。
「魔神級のゴブリンか。こいつは戦場に欲しいですな」
「まだ魔神と決まったわけではない」
メルゼアが言った。
「ただ、ゴブリン系統であるのは確かです。ですが、格が異常に高い。通常の王種、将種とは比較になりません」
ゼルヴァンはガルザヴェインを見た。
金色の目。
黒い魔神性。
体に刻まれた戦歴の傷。
そして、配下を踏み潰さないために、拳を止めている動き。
「ゴブリンの上位種」
彼は低く言った。
「いや、上位という言葉では足りんな」
ガルザヴェインが、操られたゴブリンたちを払いのける。
掌で押すだけ。
殺さないように、骨を砕かないように。
それでも数体が転がる。
だが、黒帰将の刃が鳴ると、彼らは再び立ち上がった。
「戦場に立てば、白盾を砕ける」
ゼルヴァンの目が細くなる。
「使える」
余は、その言葉を聞いた。
「……使える?」
白い部屋で、余の声が低くなる。
「ガルザヴェインを、物扱いしたか」
《ゼルヴァン、ガルザヴェインへの支配試行準備》
「ふざけるな」
◇
バロウが突っ込んだ。
大盾を前に。
操られた湿骨王列が、足元に骨橋を作る。
グズの泥が、バロウの踏み込みを支える。
ハイハネの霧が、彼の巨体を隠す。
味方だった配下が、黒冠軍の突撃を補助している。
ガルザヴェインは、歯を剥いた。
「ジャマ、スルナ」
大盾がぶつかる。
魔神戦王の拳が、盾を受け止めた。
衝撃で白い床が割れる。
バロウの足が沈む。
だが、すぐにグズの泥が支えた。
余の配下の泥が、敵の足を支える。
その光景に、余は奥歯を噛んだ気分になった。
「グズ……!」
グズの泥が震える。
きっと抵抗している。
だが、黒冠隷命と黒帰将の指揮が、泥を動かしている。
バロウが笑った。
「重いな、魔神ゴブリン!」
「チガウ」
ガルザヴェインが盾を押す。
「オレ、ロードノ、マモリ」
盾が軋む。
バロウの笑みが消える。
「隊長、こいつ、力が――」
言い終わる前に、ガルザヴェインが盾ごとバロウを押し返した。
だが、そこへ黒帰将が刃を振るう。
ガルザヴェインの帰る足場を斬る。
彼の踏み込みの後ろにある道を、意味ごと断つ。
体勢が崩れる。
その瞬間、リシェが影から出た。
影翼斥候。
黒い刃が、ガルザヴェインの脇腹へ走る。
カゲヌイの影糸が、同時に足を縫う。
味方の影と敵の刃が、同じ瞬間に来る。
ガルザヴェインは避けられない。
黒い刃が脇腹を裂いた。
「グ……!」
血が飛ぶ。
リシェはすぐに影へ戻る。
ゼルヴァンが言った。
「殺すな。削れ」
「了解」
「こいつは奪う」
その一言に、ガルザヴェインの金色の目が動いた。
「ウバウ?」
「そうだ」
ゼルヴァンは左手を上げる。
黒冠の紋様が、今までより濃く浮かび上がる。
「お前は戦場で使える」
「ツカウ?」
「勇者側の盾を割る牙になる」
ガルザヴェインは、ゆっくり拳を握った。
「オレ、ダレノ、モノデモナイ」
ゼルヴァンは答えない。
ただ、黒冠隷命を発動した。
◇
黒い冠の命令が、ガルザヴェインへ向かった。
低位ゴブリンを捕った時とは違う。
ハイハネの霧を奪った時とも違う。
カゲヌイの影糸へ触れた時とも違う。
黒冠の命令は、一本の鎖ではなかった。
王冠のように広がり、ガルザヴェインの額へ落ちる。
命令の冠。
戦場で兵を縛る黒い冠。
それが、魔神戦王の額へ触れた。
「ガルザヴェイン!」
余は叫んだ。
契約線を強く繋ぐ。
「聞くな! 余の声だけを聞け!」
だが、マネが同時に余の声で叫んだ。
「ガルザヴェイン、従え」
「違う!」
余は叫ぶ。
「それは余ではない!」
マネの偽声が重なる。
「黒冠に従え」
「違う!」
「ゼルヴァンに従え」
「違う!!」
余の本物の声。
マネに奪われた偽物の声。
ゼルヴァンの黒冠の命令。
全部が、ガルザヴェインの頭の中でぶつかる。
ガルザヴェインの金色の目が揺れた。
「グ……ア……!」
彼の額に、黒い冠の紋が浮かびかける。
すぐに、黒い魔神性がそれを焼く。
だが、焼き切れない。
また浮かぶ。
また焼く。
「ガルザヴェイン!」
フィルエの声が響いた。
「戻って!」
その声で、ガルザヴェインの目が一瞬だけ定まる。
「フィ……ルエ……」
だが、ゼルヴァンはその反応を見逃さなかった。
「感情反応あり」
冷静な声。
「そこも縛る」
黒冠隷命が、さらに深く入ろうとする。
ガルザヴェインの体が震えた。
拳が、ゆっくり下がる。
黒冠軍の方ではなく、迷宮の奥へ向きかける。
「……まずい」
余は言った。
「管理音声!」
《ガルザヴェインへの外部支配命令、侵入中》
「遮断しろ!」
《魔神性および契約線が抵抗中》
「結果は!」
《抵抗中。完全支配には至っていません》
「なら、まだいける!」
だが、ゼルヴァンは淡々としていた。
「完全に奪えなくてもいい」
彼は言った。
「一拍止まれば、十分だ」
バロウが盾を構える。
リシェが影へ沈む。
メルゼアが血晶瓶を開く。
オルグが骨札を投げる。
黒帰将が刃を掲げる。
操られた配下たちが、一斉に動いた。
ガルザヴェインの動きが、黒冠隷命に抵抗するため一瞬鈍る。
その一瞬へ、全てが叩き込まれた。
◇
バロウの盾が、ガルザヴェインの胸を打つ。
リシェの影刃が、膝裏を裂く。
メルゼアの血晶術が、黒い結晶の杭となって肩へ刺さる。
オルグの骨札が、ガルザヴェインの周囲に拘束陣を作る。
黒帰将の刃が、ガルザヴェインの命令経路を斬ろうとする。
カゲヌイの影糸が、足を縫う。
ハイハネの霧が、視界を奪う。
湿骨王列の骨鎖が、腕へ絡む。
グズの泥が、足元を固める。
そしてマネが、余の声で命じた。
「止まれ」
「違う!」
余の叫びが、白い部屋を震わせる。
ガルザヴェインは止まらなかった。
だが、遅れた。
ほんの一拍。
それだけで、攻撃は入る。
ガルザヴェインの巨体が揺れる。
血が飛ぶ。
黒い魔神性が乱れる。
「グアアアア!」
咆哮。
魔神咆哮が通路を震わせる。
骨鎖が砕ける。
血晶の杭が割れる。
オルグの骨札が燃える。
バロウが盾ごと三歩下がる。
リシェが影へ逃げる。
だが、ゼルヴァンは下がらない。
黒冠の命令を、さらに押し込む。
「膝をつけ」
ガルザヴェインの膝が、わずかに沈んだ。
「つくな!」
余は叫んだ。
「ガルザヴェイン、つくな!」
フィルエも叫ぶ。
「ガルザヴェイン!」
ガルザヴェインの額に、黒冠の紋がまた浮かぶ。
彼は、自分の拳で額を殴った。
ごん、と鈍い音。
黒冠の紋が割れる。
血が流れる。
だが、完全には消えない。
「オレ……」
ガルザヴェインの声が震える。
「オレ、ロードノ……」
マネの偽声が重なる。
「ゼルヴァンに従え」
「チガウ……!」
「黒冠の兵となれ」
「チガウ!」
「戦場で盾を割れ」
「チガウ!!」
ガルザヴェインの拳が震える。
自分の仲間を殴れない。
黒冠の命令に従えない。
ロードの声を聞きたい。
だが、ロードの声が奪われている。
迷宮そのものが、歪んで聞こえる。
その苦しみが、白い部屋まで伝わってきた。
余は、何もできない。
契約線を強くすることしかできない。
声を届けることしかできない。
その声すら、マネに真似られている。
「……くそ」
余は吐き捨てるように言った。
「余の声を、余の配下を、余の迷宮を……」
言葉が震える。
「返せ」
◇
ゼルヴァンは、ガルザヴェインを見ていた。
その目には、欲があった。
だが、冒険者の欲ではない。
軍人の欲だ。
戦場で使える兵器を見つけた時の目。
「やはり、完全には落ちないか」
彼は言った。
メルゼアが血晶瓶を握る。
「それでも、命令は入っています」
「十分だ」
ゼルヴァンは黒剣を構えた。
「抵抗を削る。意志を折れば、黒冠は深く入る」
バロウが盾を鳴らす。
「折れますかね、あれ」
「折る」
短い言葉だった。
その冷たさが、余の神経を逆撫でした。
ガルザヴェインは、折れない。
折らせない。
そう思いたい。
だが、目の前の光景は残酷だった。
ガルザヴェインは、操られた配下たちを傷つけないように戦っている。
そのせいで、攻撃を受ける。
黒冠隷命に抵抗するために、魔神性を消耗している。
そのせいで、動きが鈍る。
ロードの声とマネの偽声が混ざる。
そのせいで、一瞬迷う。
迷った一瞬を、黒冠軍が正確に突く。
強い。
ゼルヴァンの小隊は、天蓋の猟犬とは違う強さを持っている。
美しい連携ではない。
宝を取るための技でもない。
軍だ。
相手の弱点を見つけ、そこへ部隊全体で圧をかける。
抵抗する味方を処理し、奪った敵を盾にし、必要なら仲間すら消耗品として使う。
それが軍の強さだった。
◇
ガルザヴェインの足元で、赤金果守ゴブリンが一体、震えていた。
操られている。
手には、小さな袋。
エリラの実を運ぶための袋。
だが、そのゴブリンは進めない。
自分の足を噛んでいる。
血が出ている。
それでも、黒冠の命令が足を動かそうとする。
「ギ……ギ……!」
ゼルヴァンが、それを見た。
「また抵抗個体か」
「やめろ!」
余は叫んだ。
だが、黒帰将が動く。
刃が上がる。
ガルザヴェインがそれを見た。
そして、動いた。
黒冠隷命で体が重い。
影糸で足が縫われている。
骨鎖が腕を絡めている。
それでも、動いた。
「ヤメロ!」
ガルザヴェインの拳が、黒帰将の刃を受けた。
刃が彼の腕に食い込む。
赤金果守ゴブリンは斬られなかった。
代わりに、ガルザヴェインの腕が裂けた。
「グ……!」
「庇ったか」
ゼルヴァンが言う。
「なら、そこだ」
黒冠隷命が、さらに強くなる。
ガルザヴェインは配下を守った。
その瞬間に生まれた感情の揺れ。
そこへ黒冠の命令が入り込もうとする。
「守るなら、従え」
ゼルヴァンの声が低く響いた。
「従えば、殺さずに済む」
「……」
「黒冠の兵となれ。そうすれば、ここにいる魔物を殺さずに使える」
余は怒鳴った。
「聞くな!」
だが、言葉が遅い。
ゼルヴァンの言葉は、ガルザヴェインの一番痛いところを刺した。
守りたい。
殺したくない。
仲間を取り戻したい。
なら、従えばいい。
そう囁く。
それは、強い者への命令ではなく、守る者への毒だった。
ガルザヴェインの額に、黒い冠が濃く浮かんだ。
「ガルザヴェイン!」
フィルエが叫ぶ。
「だめ!」
その声で、ガルザヴェインの目が揺れる。
だが、黒冠の命令は消えない。
彼の拳が、ゆっくり下がる。
黒い魔神性が、鈍る。
ゼルヴァンが一歩近づいた。
「膝をつけ」
ガルザヴェインの膝が、沈む。
白い部屋で、余は叫び続けた。
「つくな! ガルザヴェイン、つくな!」
マネの偽声が重なる。
「膝をつけ」
「違う!」
偽声。
本物の声。
命令。
呪い。
守りたい気持ち。
殺したくない迷い。
すべてが、ガルザヴェインを押し潰していく。
そして。
魔神戦王の片膝が、白い床についた。
◇
白い部屋が、静まり返った。
《警告》
《ガルザヴェイン、行動制御低下》
《外部支配命令、深度上昇》
《危険域》
「……」
余は、声を出せなかった。
また膝をついた。
天蓋の猟犬に。
ルオに。
そして今度は、黒冠の命令に。
ただの敗北ではない。
これは違う。
今度の膝は、体を砕かれた膝ではない。
心を縛られ、仲間を盾にされ、守りたい気持ちを逆手に取られた膝だ。
ガルザヴェインの金色の目が、白い部屋を見上げているように見えた。
「ロード……」
声が掠れていた。
「オレ……」
マネが、余の声で囁く。
「従え」
「違う」
余は言った。
声は小さかった。
だが、今度は震えなかった。
「ガルザヴェイン」
契約線へ、余の意識を集中させる。
「余の声だけを聞けとは言わん」
ガルザヴェインの目が揺れる。
「フィルエの声も聞け」
フィルエが息を呑む。
「お前自身の声も聞け」
ガルザヴェインの拳が震える。
「お前は、誰の兵でもない」
ゼルヴァンの黒冠が、さらに濃くなる。
「お前は、余の配下だ」
マネの偽声が、同じ言葉を真似ようとする。
だが、余は続けた。
「だが、その前に」
ガルザヴェインの金色の目に、黒い冠と金色の火が同時に揺れる。
「お前は、お前だ」
その瞬間、ガルザヴェインの拳が、白い床を掴んだ。
爪が床へ食い込む。
黒い冠が額で軋む。
まだ消えない。
だが、止まった。
ゼルヴァンが目を細める。
「まだ折れんか」
ガルザヴェインは、片膝をついたまま、ゆっくり顔を上げた。
黒冠の命令に抵抗しながら。
仲間たちに囲まれながら。
自分の中の怒りと恐怖と悔しさを噛みしめながら。
「オレ……」
彼は低く言った。
「ゼルヴァンノ、ヘイ、チガウ」
黒い魔神性が、再び揺れ始める。
「オレ、ロードノ、マモリ」
まだ立てない。
まだ完全には戻れない。
黒冠隷命は、額に食い込んでいる。
配下たちは操られたまま。
マネの偽声も止まらない。
黒帰将の刃は、次の命令を待っている。
だが、ガルザヴェインは折れていなかった。
ゼルヴァンは、静かに黒剣を構える。
「なら、折る」
黒冠軍第七牙と、奪われた迷宮の配下たちが、再び動き出す。
片膝をついた魔神戦王へ向かって。
そして余は、白い部屋で、まだ何も取り戻せないまま叫んだ。
「立て、ガルザヴェイン!」
その叫びに、ガルザヴェインの指が、白い床を砕いた。