余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
白陽砲の砲身へ、清められた光が集まっていく。
白い。
ただ明るいのではない。
骨を焼き。
呪いを消し。
死者を、この世に残った痕跡ごと消す光。
砲身の周囲では、十二人の魔術兵が杖を構えていた。
さらに八人の神官兵が祈りを重ねる。
工兵たちは地面へ固定杭を打ち込み、砲身が反動でずれないように鎖で縛っている。
「充填、七十!」
「術式、安定!」
「百骸城陣の中央へ照準!」
ベルガ・ハインズは、白い霧の向こうに立つ骨の城壁を見ていた。
冥月百骸騎士団。
何度砕いても、残った骨を組み直して立ち上がる死者の軍。
その中央には、冥月骸将カゲツがいる。
「一撃で消す」
ベルガは言った。
「骨を一片も残すな」
「充填、八十!」
砲身の白い光が強くなる。
白い通路の壁が、熱だけで焦げ始めた。
人間側の兵たちは、砲撃線から左右へ離れていく。
その顔には、勝利への期待が浮かんでいた。
骨が残るから戻る。
なら、骨を残さなければいい。
正しい考えだ。
普通のアンデッド軍なら。
「カゲツ」
余は呼んだ。
「ロード」
「受けるな」
カゲツの兜の奥で、青い光が揺れた。
「先ホドハ、退カヌト」
「一歩も退くな。だが、真正面から消し飛ばされろとは言っていない」
白陽砲の光は、さらに増している。
あれを百骸城陣だけで受ければ。
カゲツは残っても、騎士団の多くが完全に消える。
「城を変えろ」
「形ヲ?」
「ああ」
余は、第二防衛線の天井を見た。
白陽砲の正面。
城壁の真上。
そこには、戦闘前に作っておいた空の区画がある。
何も置いていない。
配下もいない。
ただ、強い攻撃を逃がすためだけの空洞。
「正面から上へ流せ」
カゲツの青い目が強く光った。
「承知」
◇
「充填、九十五!」
ベルガが剣を上げる。
「全隊、衝撃に備えろ!」
盾兵が盾を床へつく。
魔術兵が防壁を張る。
工兵が耳を塞ぐ。
「充填、完了!」
「撃て!」
白陽砲が吠えた。
白い光の柱が、狭い通路を埋め尽くす。
霧が消える。
床が焼ける。
壁の表面が溶ける。
死者を許さない白い太陽が、百骸城陣へ突き進んだ。
「冥月軍令」
カゲツが大剣を掲げる。
「転城」
骨の城壁が、一瞬で形を変えた。
盾騎士が左右へ分かれる。
槍騎士が長槍を斜めに組む。
剣騎士は自分の鎧と骨を、その上へ重ねた。
真正面を塞いでいた壁が。
巨大な、斜め上を向く骨の坂へ変わる。
さらに。
「冥月蝕光」
カゲツの背後に浮かぶ青黒い月が、盾の表面へ広がった。
白陽砲がぶつかる。
世界から、音が消えた。
白。
青黒。
二つの光が、骨の坂の上で押し合う。
「消し飛べ!」
人間側の魔術兵が、さらに力を注ぐ。
白陽砲が太くなる。
盾騎士の腕が砕けた。
槍騎士の長槍が、白い光の中で崩れる。
青黒い月にも、何本もの亀裂が走った。
「カゲツ!」
「未ダ」
カゲツは大剣を下げない。
「我ガ軍ハ」
百の骨が軋む。
「壁デハナイ」
白い光が。
少しずつ。
斜め上へ曲がり始める。
「道デアル」
白陽砲の光が、骨の坂を滑った。
真正面へ進まず。
天井へ。
余が開いた空洞へ。
白い光の柱が、第二防衛線の天井を貫いた。
空の区画が白熱する。
壁が崩れる。
何もない空間だけが、白い太陽に焼き払われた。
百骸城陣は。
残っていた。
《白陽砲、直撃回避》
《百骸騎士団、損傷》
《完全消失、三体》
《重損傷、二十二体》
「三体……」
カゲツが低く呟く。
「だが、九十体は残った」
「承知」
白陽砲の光が消える。
人間側の兵たちは、白い煙の向こうを見た。
骨の城壁が。
まだ立っている。
「嘘だろ……」
「白陽砲だぞ」
「アンデッドが、なぜ消えていない!」
ベルガだけは、驚きながらも砲撃の跡を見ていた。
天井へ抜けた白い穴。
斜めに組み替えられた骨。
「流された……」
彼は気づいた。
「砲撃を上へ逃がされた!」
「再充填を!」
工兵が叫ぶ。
「次は角度を変えます!」
「間に合わん」
ベルガが答えるより早く。
白い壁の中から。
百を超える足音が響いた。
◇
「ガルザヴェイン」
「ウン」
「白陽砲を壊せ」
「覇牙軍団」
魔神覇王の金色の目が、軍を見渡す。
「牙囲」
壁。
天井。
床の近く。
新しく作った小型軍用路が、砲兵隊の周囲で一斉に開いた。
「ギャアアアアッ!」
覇牙刃兵、三十体。
覇牙弓兵、二十体。
覇牙槍兵、二十体。
術兵、十体。
砲兵隊の真正面ではない。
左右と後ろ。
白陽砲を守る盾列の内側へ、直接飛び出した。
「敵だ!」
「砲を守れ!」
「近すぎる! 撃てない!」
白陽砲は強い。
だが、巨大だ。
砲身を動かすだけでも時間がかかる。
懐へ入られれば。
ただの大きな金属の塊だった。
覇牙弓兵の矢が、魔術兵へ降る。
喉。
腕。
杖を持つ手。
魔術兵たちが倒れる。
覇牙刃兵は、砲身を固定する術式線を切る。
工兵が工具で殴りかかる。
だが、覇牙槍兵の長槍が、盾の隙間から胸へ入った。
「ぐあっ!」
《侵入者一名、死亡》
《侵入者三名、死亡》
《侵入者五名、死亡》
「砲身を捨てろ!」
ベルガが叫ぶ。
「退け!」
しかし。
覇牙術兵が、灰色の魔力を砲身の根元へ集中させた。
熱ではない。
重さ。
白陽砲の片側だけを、急激に重くする。
固定杭が抜ける。
砲身が横へ倒れた。
「離れろ!」
間に合わない。
巨大な砲身が、人間側の兵十数名をまとめて押し潰した。
鎧がひしゃげる。
骨が折れる。
白陽砲の内部へ残っていた光が暴発した。
小さな白い爆発。
砲兵隊が、光と鉄片へ呑まれる。
《白陽砲、破壊》
《侵入者、二十八名死亡》
たった一度の砲撃。
それが。
人間側に許された、最後の大きな一撃だった。
◇
「全隊、円陣!」
ベルガの声が、混乱する兵たちを止めた。
「盾を外! 負傷者を中央!」
白陽砲を失った。
砲兵隊も壊滅。
それでも、ベルガは軍を崩さない。
百を超える兵が、すぐに円陣を作る。
外側に盾。
その隙間へ槍。
内側に弓と魔術兵。
「東側、ゴブリン!」
「西側、骨の城壁!」
「後方の道は!」
「消えています!」
ベルガが振り返る。
通ってきたはずの白い道。
そこには今。
壁がある。
目印の魔力糸も、壁の中へ飲み込まれていた。
「迷宮が道を変えた」
「入口はどこです!」
「分からん!」
余は、白い部屋で静かに答えた。
「もうない」
少なくとも。
こいつらが生きている間は。
「入口を閉鎖」
《完了》
「退避中の重傷者も含め、一人も外へ出すな」
《承知》
ベルガたちは、公子を救うために来た。
その思いが嘘だとは思わない。
だが。
余の芽を掘り。
根を持ち帰り。
残る実まで奪うつもりだった。
「余にも、守るものがある」
だから。
一人も帰さない。
◇
「カゲツ」
「ロード」
「前へ出ろ」
青黒い月が。
骨の軍の上へ広がった。
「百骸騎士団」
カゲツが大剣を、人間軍へ向ける。
「進軍」
先ほどまで一歩も退かなかった骸の壁が。
今度は。
一歩ずつ前へ進み始めた。
盾を重ねたまま。
槍を揃えたまま。
百体で一つの城となったまま。
重い足音。
骨。
骨。
骨。
人間側の円陣へ、死の城が迫る。
「魔術兵、撃て!」
残った魔術が放たれる。
炎。
雷。
光。
骨の城へ突き刺さる。
盾騎士が砕ける。
槍騎士の腕が落ちる。
だが。
「骸兵再陣」
落ちた骨が。
後ろへ戻る。
別の骨と繋がる。
再び盾となる。
再び腕となる。
人間側が一体を壊す間に。
カゲツは二体を戻した。
「聖灰を!」
「もう残りが少ない!」
「全部使え!」
清められた灰が、骨の城へ投げられる。
カゲツは、それを見た。
「術騎士」
青い骨杖が上がる。
「冥風」
冷たい風が、城壁の隙間から噴き出した。
聖灰は骨へ届かない。
人間側へ押し戻される。
「目を閉じろ!」
「吸うな!」
白い灰が、円陣の中へ降る。
兵たちの視界が塞がる。
「ガルザヴェイン」
「ウン」
「今だ」
「覇牙軍団」
魔神覇王が拳を上げた。
「進軍」
人間側の背後。
左右。
小さな軍用路から、覇牙軍団が一斉に出る。
もう、隠れて切るだけではない。
正面から。
百を超えるゴブリンが、軍として突撃した。
「ギャアアアアアアッ!」
◇
骸の壁。
覇牙軍団。
人間側は、前後から同時に押された。
「盾を分けろ!」
ベルガが命じる。
「前方五十! 後方五十!」
円陣が二つへ分かれる。
だが。
分けた瞬間。
カゲツの青い月が輝いた。
「死路封陣」
人間軍の左右から、骨槍が地面を破って立ち上がる。
通路を狭くする。
二つに分かれた人間軍の間へ、骨の柵が生える。
「隊が分断された!」
「ベルガ隊長!」
「こちらへ戻れ!」
戻れない。
骨の柵。
白い壁。
グズの黒泥。
それらが、人間軍を七つの集団へ切り分けていく。
五十人。
三十人。
二十人。
十数人。
大軍ではなく。
小さな群れへ。
「一つずつ喰え」
余が命じた。
◇
第一の集団。
三十二名。
覇牙盾兵が正面を押さえる。
天井から弓兵。
左右から刃兵。
人間の槍兵が突きを放つ。
覇牙盾兵が受ける。
槍の隙間へ、霧喰い刃ゴブリンが潜る。
古参の小さな配下たち。
覇牙軍団へ霧の歩き方を教えた者たち。
今は。
新しい刃兵と並んで走っている。
「ギギッ!」
「ギャッ!」
小さな刃と大きな刃が、同時に人間兵の膝裏へ入る。
盾が落ちる。
覇牙槍兵の槍が、胸へ突き刺さる。
《侵入者、三十二名全滅》
第二の集団。
二十七名。
グズの泥が足を止める。
ハイハネの霧が声の方向を変える。
マネがベルガの声を真似た。
「盾を捨てろ!」
「偽声だ!」
「剣へ持ち替えろ!」
「違う!」
「後ろから来るぞ!」
「どれが本物だ!」
混乱した一瞬。
百骸弓騎士の骨矢が降る。
目。
首。
鎧の隙間。
倒れた者へ、百骸剣騎士が無言で刃を振り下ろした。
《侵入者、二十七名全滅》
第三の集団。
四十一名。
魔術兵を多く含んでいた。
「炎の壁を作れ!」
燃える壁が、覇牙軍団を止める。
だが。
カゲツが大剣を横へ振った。
「冥月斬」
青黒い月の刃が、炎の壁ごと術式を切る。
消えた炎の向こうから。
覇牙軍団が飛び込んだ。
《侵入者、四十一名全滅》
第四。
第五。
第六。
大軍だった人間たちが。
一つずつ。
消えていく。
◇
「ロード」
ルオの声が届いた。
『もう行かなくていいか?』
「ああ」
余は、迷宮図を見た。
人間側の反応が。
次々と消えている。
「来なくていい」
『勝ってるんだな』
「ああ」
『圧倒してる?』
余は。
少しだけ間を置いた。
「圧倒している」
ルオが、声の向こうで笑った。
『ちゃんと軍になったな』
「ああ」
今度は。
奇跡を待っていない。
ガルザヴェイン一人へ、全てを背負わせていない。
フィルエが飛び出す必要もない。
ルオが駆けつけなければ終わる戦いでもない。
余の軍が。
余の迷宮を守っている。
◇
ベルガの周囲に残っていたのは、四十六名。
副隊長。
年老いた薬師。
盾兵。
槍兵。
魔術兵。
治療兵。
残った中では、最も強い者たち。
「隊長」
副隊長が、血に濡れた盾を構える。
「このままでは」
「分かっている」
「撤退路は」
「ない」
ベルガは、静かに答えた。
怒鳴らない。
誰かを責めない。
白陽砲を失った。
軍を分断された。
兵が次々と殺されている。
それでも。
指揮官の顔を崩さなかった。
「公子を……」
年老いた薬師が呟く。
「助けられない」
ベルガの拳が、剣の柄を強く握った。
「まだだ」
「ですが」
「まだ、奥への道がある」
彼の前。
白い壁が、ゆっくり開いた。
余が開いた。
細い道。
人間が数人ずつ通れる幅。
その奥から。
微かな甘い香りが流れてくる。
「……果実」
薬師が顔を上げる。
「この奥です」
「隊長!」
「罠です!」
副隊長が叫ぶ。
当然だ。
今まで閉じていた道が。
都合よく開くはずがない。
ベルガも分かっている。
それでも。
公子に残された時間はない。
後ろには、覇牙軍団と百骸騎士団。
前には、甘い香り。
「進む」
ベルガは言った。
「隊長!」
「ここで死ぬか」
細い道を見る。
「奥で死ぬかだ」
そして。
四十六人は。
余が開いた道へ入った。
◇
「ロード」
フィルエが、完全退避室から呼ぶ。
「何だ」
「どこへ連れていくの?」
「万蝕酸界」
フィルエが息を呑む。
「ウルグのところ?」
「ああ」
「全員?」
「ああ」
もう。
芽の場所へは届かせない。
万蝕酸界を越えた先の扉は、開かない。
ウルグだけが待っている。
◇
ベルガたちは、透明な部屋へ入った。
床。
壁。
天井。
白く澄んでいる。
何もいない。
罠も見えない。
甘い香りは。
さらに奥から漂ってくる。
「止まれ」
ベルガが命じた。
「床を調べろ」
工兵は、もうほとんど残っていない。
副隊長が、折れた槍を床へ突いた。
槍先が。
消えた。
「……何だ?」
槍を引く。
先端がない。
溶けている。
「酸だ!」
薬師が叫ぶ。
「床全体が酸です!」
透明な床が。
ぷるん。
小さく揺れた。
「床ではない」
ベルガが気づいた。
「魔物だ」
「うるぐ」
部屋全体から。
小さな声のような泡が鳴った。
蝕界のウルグ。
万蝕酸界。
透明な床。
透明な壁の下部。
天井から落ちる滴。
全てが。
一体のスライム。
「魔法が効く!」
薬師が叫ぶ。
「物理攻撃はするな! 酸が飛び散る!」
「魔術兵!」
残った六人の魔術兵が前へ出る。
「氷結!」
青い冷気が、透明な床へ放たれる。
ウルグの表面が凍る。
「効いた!」
兵たちの顔に、希望が浮かぶ。
だが。
凍ったのは。
表面の薄い一層だけ。
その下。
透明な酸が動く。
氷の内側から。
じゅううううっ。
氷が溶けた。
ウルグの一部となって消える。
「さらに撃て!」
「炎!」
「雷!」
「光!」
魔法が降る。
ウルグの体が蒸発する。
へこむ。
揺れる。
確かに効いている。
だが。
部屋全体が本体だ。
一部を削った程度では。
足場は生まれない。
「魔力防壁を足へ集中しろ!」
ベルガが叫ぶ。
「全員で走る!」
兵たちが、足元へ魔力を集める。
盾兵。
槍兵。
薬師。
それぞれが、自分の魔力で酸を押し返そうとする。
「行け!」
最初の一人が、ウルグへ足を乗せた。
靴が溶ける。
魔力の膜が消える。
足の皮膚が。
肉が。
骨が。
一歩も進まないまま消えた。
「ぎゃああああああっ!」
男が倒れる。
両手を床へつく。
腕まで溶ける。
胸。
顔。
叫び声ごと、透明な酸の中へ沈んだ。
「下がれ!」
遅い。
ウルグの床が、波打った。
透明な酸の波が、四十六人へ押し寄せる。
「魔力壁!」
六人の魔術兵が、全員で壁を作る。
酸の波がぶつかる。
じゅううううううっ。
魔力壁が溶ける。
「魔力まで……!」
「ウルグは、弱い魔力も喰う」
余は言った。
もちろん。
人間たちには届かない。
魔力壁が破れる。
酸の波が、人間軍へ入った。
◇
盾が消えた。
鎧が消えた。
槍も。
剣も。
人間の体と区別なく溶けていく。
「助けて!」
「腕が!」
「顔が溶ける!」
「治療を!」
「触れないで! 酸が移る!」
薬師が叫ぶ。
だが、逃げる床がない。
壁へ手をつけば。
壁の下部もウルグ。
天井から落ちる透明な滴が、兵の肩へ触れる。
一滴。
それだけで鎧へ穴が開く。
皮膚へ届く。
男が肩を押さえる。
押さえた手まで溶け始める。
「いやだ!」
「公子を……!」
「帰りたい!」
「ベルガ隊長!」
人間軍の叫びが。
一つずつ。
酸の中へ消えていく。
《侵入者、十二名死亡》
《侵入者、二十一名死亡》
《侵入者、三十七名死亡》
残ったのは。
ベルガ。
副隊長。
年老いた薬師。
そして、最後の魔術兵二人。
五人だけ。
全員の魔力を重ね。
足元へ厚い防壁を作っている。
それでも。
靴底から煙が上がっていた。
「進め……!」
ベルガが叫ぶ。
「あと少しだ!」
部屋の向こう。
閉じた白い扉。
その先に。
赤金の香りがある。
だが。
扉は開かない。
開けるつもりもない。
「公子が……待っている……!」
副隊長の防壁が切れた。
右脚が溶ける。
倒れた。
「隊長、行ってください!」
残る魔力を、ベルガへ送る。
「お前も――」
「行け!」
副隊長の体が。
酸へ沈んだ。
年老いた薬師も、持っていた薬瓶を全て投げた。
「中和薬!」
透明な液体が、ウルグへ広がる。
一瞬だけ。
酸の動きが鈍る。
「今です!」
ベルガが走る。
だが。
ウルグが。
部屋全体を持ち上げるように盛り上がった。
「酸界拡張」
透明な壁。
透明な天井。
透明な波。
三方向から。
最後の五人を包む。
魔術兵が消える。
薬師が消える。
ベルガの魔力防壁だけが、最後まで残った。
「ぐ……!」
鎧が溶ける。
剣も半分になる。
皮膚から煙が上がる。
それでも、扉へ手を伸ばす。
「ノエル……公子……」
余は。
白い部屋から、その男を見ていた。
ベルガは、悪人ではないのだろう。
部下を捨てなかった。
死者へ謝った。
傷ついた者を帰そうとした。
一人の公子を救うため。
二百六十三人を率いて、ここまで来た。
だが。
「お前が守りたいもののために」
余は静かに言った。
「余の守るものを奪わせるわけにはいかない」
ベルガの魔力防壁へ、ウルグの酸が染み込む。
亀裂。
光が消える。
「……届かなかった、か」
最後の言葉。
透明な酸が。
ベルガ・ハインズの体を包んだ。
鎧。
剣。
肉。
骨。
全てが。
跡形もなく溶けた。
《指揮官ベルガ・ハインズ、死亡》
《侵入者残存数:ゼロ》
◇
白い迷宮が。
静かになった。
人間の声はない。
足音も。
祈りも。
白陽砲の光も。
残っているのは。
覇牙軍団の荒い呼吸。
百骸騎士団の骨が鳴る音。
そして。
万蝕酸界で、透明な床が静かに揺れる音だけ。
《ヴァレスト公爵家私兵および同行者》
《侵入者総数:二百六十三名》
《全員死亡》
《生存者:ゼロ》
《逃走者:ゼロ》
《今回総獲得ソウル:3,284,000》
濃いソウルが。
迷宮核へ流れ込んでくる。
二百六十三人分。
軍として鍛えられた者たち。
公子を救うという願いを持った者たち。
その全てを。
余の迷宮が喰った。
◇
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「終わった」
「ウン」
ガルザヴェインは、亡くなった覇牙軍団の仲間たちを見ている。
「七体」
第一戦。
第二戦。
合わせて。
覇牙軍団の死者は七体。
重傷者は多い。
だが、百体以上が生きている。
「オボエル」
「ああ」
「ナマエ、ツケル」
「ああ。全員だ」
カゲツも。
完全に消えた百骸騎士団の十体が立っていた場所へ、大剣を向けた。
「我ガ騎士」
「戻せなかったな」
「骨、残ラズ」
「だが、忘れない」
「承知」
「お前たちは、一歩も退かなかった」
カゲツの兜の奥で。
青い光が静かに揺れた。
「任務、完遂」
「ああ」
◇
「ルオ」
声の道へ呼びかける。
『何だ、ロード』
「終わった」
『勝った?』
「ああ」
『何人逃げた?』
「一人もいない」
向こうで。
短い沈黙があった。
『……すげえな』
「余の軍だ」
『うん』
「もう、お前が偶然来るのを待つだけの迷宮ではない」
『分かってる』
ルオが少し笑う。
『でも、危なくなったら呼べよ』
「ああ」
『意地張るなよ』
「お前に言われたくない!」
声の向こうで。
いつもの笑いが返る。
◇
完全退避室を開く。
フィルエが最初に出てきた。
「終わった?」
「ああ」
「皆は?」
「死者は出た」
フィルエの表情が沈む。
「だが、軍は残った」
覇牙軍団。
百骸騎士団。
グズ。
ハイハネ。
カゲヌイ。
マネ。
皆。
傷つきながらも戻ってくる。
赤金果守ゴブリンたちも、実の保存箱を抱えて出てきた。
「芽は?」
《生命反応、安定》
「よかった」
フィルエは、命の苗床へ向かった。
白晶足場を通り。
万蝕酸界の向こうへ。
ウルグは、許可された足場を溶かさない。
「うるぐ」
透明な床全体から、声がする。
「守ってくれてありがとう」
フィルエが言う。
ウルグが。
ぷるん。
大きく揺れた。
◇
エリラの芽は。
赤金色の葉を広げていた。
何も知らないように。
戦いの間も。
土の中で根を伸ばしていた。
フィルエが、その前へ座る。
ガルザヴェイン。
カゲツ。
傷ついた軍団も、少し離れた場所から芽を見る。
「守った」
余は言った。
前回は。
道を開け。
木を失った。
フィルエを傷つけられ。
ガルザヴェインを倒され。
最後にはルオの力へ頼った。
今回は違う。
最初から。
非戦闘員を下げた。
軍を動かした。
将が率いた。
傷ついた者を戻した。
敵を一人も、芽の前へ立たせなかった。
「今度は」
フィルエが、芽へ触れないように手を添える。
「ちゃんと守れたね」
「ああ」
余は答えた。
「今度は、余たちだけで守った」
二百六十三人の願いは。
白い迷宮へ届かなかった。
願いがあるからといって。
他者の守るものを奪う権利にはならない。
白い迷宮は。
二百二十一の新たな牙で。
二百六十三人を。
一人も外へ返さなかった。