余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
二百六十三人の侵入者を全滅させた翌朝。
霧灰白庭迷宮の各所では、まだ戦いの痕跡が残っていた。
白陽砲によって焼かれた天井。
砕かれた白磁の床。
人間たちが落とした盾や槍。
清められた灰が付着し、再利用できなくなった骸骨騎士の骨。
覇牙軍団と百骸騎士団の欠員については、戦いで得たソウルを使い、すでに補充を終えている。
《覇牙軍団、欠員七体を補充》
《総数、百二十体》
《冥月百骸騎士団、欠員十体を補充》
《総数、百体》
《消費ソウル:630,000》
《今回獲得分残存:2,654,000ソウル》
覇牙軍団は、再び百二十体。
百骸騎士団も、再び百体。
ガルザヴェインとカゲツは、新たに加わった兵をそれぞれの軍列へ組み込み、配置の確認を進めている。
死んだ兵が蘇ったわけではない。
だが、次の侵入者がいつ現れても動けるだけの数は戻った。
今はそれでよい。
◇
「管理音声」
《はい》
「戦場の処理状況を出せ」
《表示します》
⸻
《第二百六十三名侵入戦・処理状況》
人間側遺体回収:完了。
武具回収:七十八パーセント。
薬品回収:完了。
魔導器具回収:六十四パーセント。
白陽砲:大破。
万蝕酸界到達者四十六名:
遺体および装備、回収不能。
⸻
「回収不能ではないだろう」
《ウルグの体内へ溶解済みです》
「それを回収不能と言うのだ!」
万蝕酸界へ意識を向ける。
透明な床全体が、昨日よりわずかに厚くなっている。
「ウルグ」
「うるぐ」
「人間たちを溶かしてから、体が増えているな」
「うるぐ」
「誤魔化すな」
《ウルグの体積は、戦闘前と比較して十三・六パーセント増加しています》
「やはり増えているではないか!」
透明な床が、ぷるんと揺れた。
どこか得意そうに見える。
「区画から出るなよ」
「うるぐ」
「勝手に分裂するな」
「うるぐ」
「返事だけは素直なのが不安だな」
ウルグを越えた先。
命の苗床では、エリラの芽が赤金色の葉を広げている。
戦いの影響はない。
根も。
葉も。
生命反応も安定している。
フィルエが、葉の表面へ傷がないか、一枚ずつ確認していた。
その近くでは、赤金果守ゴブリンたちが小さな器を抱え、戻り水を運んでいる。
昨日。
二百六十三人の軍は、この場所まで届かなかった。
それだけで。
余は、新たに軍を増やした判断が間違っていなかったと思えた。
◇
「ロード」
白骨書記が呼んだ。
「何だ」
戦場跡に立つ白骨書記が、割れた黒い板を両手で持っている。
長方形。
人間の手に収まる程度の大きさ。
表面には、ひび割れた魔石と、細い文字が刻まれていた。
「それは」
《人間側の通信器具と思われます》
「ベルガが使っていた物か」
《記録上、同型の器具による通信を複数回確認しています》
先行隊から、外で待つ本隊へ。
本隊が侵入してからは、さらに外部の誰かへ。
ベルガたちは、迷宮内で得た情報を送っていた。
「動くか」
《破損していますが、一部機能は維持されています》
「解析しろ」
《承知しました》
白骨書記が、黒い板を白磁の台へ置く。
細い骨の指が、ひび割れた術式をなぞる。
管理音声の白い光が、板の内部へ流れ込んだ。
数秒。
黒い表面に、淡い文字が浮かび始める。
⸻
《送信済み記録・第一報》
白い封鎖迷宮内部に、軍列を組む強化ゴブリンを確認。
確認兵種:
盾、槍、刃、弓、術。
推定数、百以上。
負傷個体を後方へ退避させ、別個体と交代する行動を確認。
単純な魔物群ではない。
高位指揮個体が存在する可能性が高い。
⸻
余は、その記録を黙って読んだ。
「第一防衛線の後か」
《はい》
ガルザヴェインが率いる覇牙軍団。
その存在は、完全に知られた。
ただ強いゴブリンが多数いたというだけではない。
兵種。
交代戦。
指揮個体。
そこまで正確に送られている。
次の文字が浮かぶ。
⸻
《送信済み記録・第二報》
深部手前に、武装した骸骨騎士約百体を確認。
青黒い月を背負う将軍個体が指揮。
騎士団は城壁状の陣を形成。
破壊された騎士の骨を用い、再構成を行う能力あり。
聖灰による再生阻害は有効。
完全破壊には、白陽砲の使用が必要と判断。
⸻
「カゲツ」
「ロード」
少し離れた場所で百骸騎士団を確認していたカゲツが、こちらへ兜を向ける。
「お前の姿も送られた」
「確認済ミ」
「人間側は、次に聖灰を増やすだろう」
「対策、必要」
「ああ」
今回。
カゲツの骸兵再陣を封じたのは、人間たちの持つ清められた灰だった。
量は多くなかった。
だから冥風で押し返せた。
だが。
次に同じ相手が来れば、倍以上を持ち込む可能性がある。
「聖灰対策は後で考える」
「承知」
カゲツは短く答え、大剣を抱え直した。
黒い板には、さらに記録が残っている。
⸻
《送信済み記録・第三報》
深部方向より、極めて高密度の生命反応を確認。
既存の高位薬草、霊樹、回復用魔導素材とは一致せず。
赤金の奇跡果、あるいは発生源となる植物が存在する可能性、極めて高し。
最低十個の確保を継続。
可能であれば枝、根、周辺土壌を採取。
⸻
白い部屋の空気が冷えた。
「やはり、送られている」
《はい》
エリラの芽を直接見られたわけではない。
赤金色の葉も。
命の苗床も。
枯れたエリラの木の根へ、新しい根が絡んでいることも。
人間側は知らない。
だが。
深部に高密度の生命反応があること。
それが赤金の奇跡果と関係している可能性。
そこまでは外へ伝わってしまった。
「ロード」
命の苗床にいるフィルエが、不安そうに顔を上げる。
「聞こえている」
「外の人、芽のこと知ったの?」
「芽そのものは知られていない」
「でも」
「ああ。何かがあるとは知られた」
フィルエが、赤金色の葉を見る。
その手が、芽を囲うように置かれる。
「大丈夫だ」
余は言った。
「次に来ても、ここまでは通さない」
フィルエは小さく頷いた。
黒い板へ、最後の記録が浮かんだ。
⸻
《送信済み記録・第四報》
全予備戦力投入。
白陽砲使用。
骸骨騎士団の完全消滅を試みる。
⸻
そこで、ベルガ自身が入力した文章は終わっていた。
だが。
黒い板の最下部には、別の文字が残っている。
書き方が違う。
短く。
感情がない。
⸻
《自動生命反応報告》
指揮権保持者:
ベルガ・ハインズ。
生命反応、消失。
副指揮権保持者:
生命反応、消失。
登録同行者:
生命反応、順次消失。
最終生存確認数:
零。
⸻
「これは」
《登録者の生命反応が消失した場合、自動的に外部へ送信される機能と思われます》
「ベルガがウルグに溶かされた時か」
《送信時刻は、ベルガ・ハインズ死亡直後と一致》
最後の一人。
ベルガ・ハインズの体が、万蝕酸界へ沈んだ瞬間。
二百六十三人の全滅は、外部へ伝えられた。
「送信先は」
《解析困難》
「大まかな方向だけでも出せ」
《王国中央部から南東に位置する貴族領方面》
「ヴァレスト公爵家か」
《可能性が高いです》
二百六十三人を送った家。
ノエル公子とやらを救うため、白い迷宮へ軍を向かわせた者。
そこへ。
全員死亡。
生存者、零。
その報告が届いた。
「次が来るな」
余の言葉に、ガルザヴェインが顔を上げる。
「マタ、グン?」
「分からん」
「来タラ」
魔神覇王は、百二十体の覇牙軍団を見る。
「倒ス」
「ああ」
カゲツも大剣を床へ突く。
「百骸騎士団、戦闘可能」
「警戒は維持しろ」
「承知」
軍は戻っている。
ウルグもいる。
配下の治療も進んでいる。
だが、人間側も。
昨日と同じ形で来るとは限らない。
◇
ヴァレスト公爵領。
堅牢な石壁に囲まれた公爵邸の最奥。
陽の光を厚いカーテンで遮った寝室に、一人の少年が横たわっていた。
ノエル・ヴァレスト。
十歳。
痩せた頬には血の気がなく、額には濡れた布が置かれている。
呼吸は浅い。
吸うたび。
胸の奥で、小さく何かが擦れるような音が鳴った。
「ノエル」
寝台の横に座る少女が、弟の手を握っていた。
セリア・ヴァレスト。
ヴァレスト公爵家の長女。
淡い金色の髪を背中へ流し、眠る弟を一睡もせずに見守っている。
「姉様……」
ノエルの瞼が、わずかに開いた。
「ここにいるわ」
「朝……?」
「もう昼よ」
「そうなんだ」
少年は、小さく笑おうとした。
だが、すぐに咳が出た。
「ごほっ……ごほっ……!」
「ノエル!」
セリアが背を支える。
白い布が口元へ当てられる。
咳が収まった後。
布の中央には、淡い黒色の染みが広がっていた。
血ではない。
病によって、体内から漏れ出す濁った魔力。
医師たちは、それを《黒脈崩壊症》と呼んでいた。
生まれつき体内の魔力経路が弱い者に、ごく稀に発生する病。
年月をかけて魔力経路が崩れ。
最後には、生命力そのものが肉体を内側から傷つける。
治療法はない。
高位回復魔法でも。
聖女の祈りでも。
一時的に痛みを抑えることしかできなかった。
「ベルガさんたちは?」
ノエルが尋ねる。
セリアの手が止まった。
「まだ戻っていないの?」
「……ええ」
嘘ではない。
帰ってきてはいない。
これからも。
帰ってくることはない。
「きっと、迷ってるんだね」
ノエルは、弱い声で言った。
「森、広いって聞いたから」
「そうね」
「ベルガさん、方向を間違えることあるの?」
「ないわ」
「じゃあ、大丈夫だ」
少年は目を閉じる。
「赤い果物……見つかるといいね」
その声は。
自分を救ってほしいという願いより。
兵たちが無事であってほしいと願っているように聞こえた。
セリアは、弟の手を強く握る。
何も言えない。
「姉様」
「何?」
「泣いてる?」
セリアは急いで頬を拭った。
「泣いていないわ」
「嘘」
「眠っていなさい」
「うん」
ノエルは、それ以上問い詰めなかった。
しばらくして。
再び浅い眠りへ落ちる。
その時。
寝室の外から、複数の足音が近づいてきた。
「セリアお嬢様」
老執事の声。
「公爵閣下がお呼びです」
セリアは、ノエルの手を布団の中へ戻す。
「すぐ戻るわ」
眠る弟へ告げ。
寝室を出た。
◇
ヴァレスト公爵家の作戦室。
普段なら領内の防衛計画や税収、他領との交渉を扱う場所。
今。
長い卓の中央には、黒い魔導伝書板が置かれていた。
表面には。
何度消そうとしても消えない文字が残っている。
⸻
ベルガ・ハインズ。
生命反応消失。
登録兵員、生存確認数。
零。
⸻
ヴァレスト公爵ディルクは、卓の前に立っていた。
黒髪には白いものが混じり。
深く刻まれた皺が、昨日よりさらに増えているように見える。
側近。
騎士団幹部。
医師。
公爵家の重臣たち。
誰一人、声を出さない。
「……二百六十三人」
ディルクが、かすれた声を出した。
「全員だ」
誰も否定しない。
「ベルガも」
拳が震える。
「二十二の頃から、余のそばにいた」
ディルクにとって。
ベルガは単なる私兵隊長ではなかった。
若い頃。
盗賊に襲われた馬車から救い出した男。
公爵家の内乱で、背中を預けた男。
ノエルが生まれた時。
誰よりも喜んだ男。
「余が送った」
ディルクは伝書板を見た。
「余が」
誰も、違うとは言えなかった。
命令を出したのは公爵。
だが。
その場にいる全員が、止めなかった。
ノエルを救うには。
赤金の奇跡果しかない。
そう信じた。
「閣下」
側近の一人が、震える声で言った。
「王都の聖騎士団へ協力を求めましょう」
「……何?」
「白い封鎖迷宮は、明らかに王国へ敵対する危険存在です」
側近は続ける。
「強化ゴブリン百体」
「骸骨騎士百体」
「未知の高位魔物も潜んでいる可能性があります」
「討伐理由としては十分です」
「王国軍と聖騎士団を動かせば――」
「黙れ」
ディルクの声は低かった。
「しかし」
「黙れと言った!」
卓が叩かれる。
伝書板が跳ねた。
「二百六十三人だぞ!」
公爵の怒声が、石造りの作戦室を震わせた。
「ベルガが率いた二百六十三人が、一人も戻らなかった!」
「それでも足りぬから、次は王国兵を送るのか!」
「ノエル公子を救うためには――」
「何人死なせれば満足する!」
側近が口を閉ざす。
ディルクは、荒い息を吐いた。
弟を。
息子を助けたい。
その気持ちは消えていない。
むしろ。
時間がなくなるほど、強くなっている。
だが。
ベルガまで失って。
何も考えず、さらに多くの兵を送ることはできなかった。
「父上」
扉の方から声がした。
全員が振り返る。
セリアが立っている。
「ノエルは」
ディルクが尋ねる。
「眠っています」
部屋にいた医師が目を伏せた。
「公子の黒脈は、心臓付近まで崩壊しております」
「あと、どれほどだ」
「今夜」
医師の声は小さい。
「長くとも、明け方までかと」
ディルクが椅子へ手をついた。
足から力が抜けかけたのだ。
セリアは、卓上の伝書板へ近づく。
一つずつ。
送られてきた記録を読む。
強化ゴブリン。
骸骨騎士団。
指揮個体。
負傷した魔物を後方へ下げる交代戦。
壊された壁を修復する迷宮。
「父上」
「何だ」
「白い迷宮へ送った部隊は」
セリアは、最後の記録を見た。
「話し合いを求めましたか」
部屋が静まり返る。
「何を言っている」
「白い迷宮へ入る前に」
セリアは父を見る。
「赤金の奇跡果を分けてほしいと、頼みましたか」
「……頼んで、渡すと思うのか」
「分かりません」
「相手は迷宮だぞ」
「はい」
「魔物を生み、人間を喰う存在だ」
「はい」
「話が通じる保証などない」
「ですが」
セリアは、第一報の文字へ指を置いた。
「魔物を軍として動かしています」
次に。
負傷者を後ろへ下げたという部分。
「傷ついた魔物を、死ぬまで戦わせていません」
骸骨騎士団。
指揮する将軍。
変化する通路。
「人間側の行動を見て、戦い方を変えています」
ディルクは何も答えない。
「考えています」
セリアは言った。
「少なくとも」
「何も考えず、本能だけで人間を喰う迷宮ではありません」
「だから何だ」
「言葉を理解する可能性があります」
側近が首を振る。
「危険すぎます」
「軍で攻めて二百六十三人が死にました」
セリアは側近を見る。
「それより危険な方法があるのですか」
「次は王国軍を――」
「ノエルは今夜を越えられません」
誰も言葉を返せなかった。
セリアは父へ向き直る。
「私が行きます」
「ならん」
ディルクは即答した。
「一人で行きます」
「ならん!」
「護衛も連れていきません」
「セリア!」
「武器も持ちません」
「二百六十三人が死んだのだぞ!」
「分かっています!」
セリアの声が、初めて大きくなった。
「ベルガも!」
「副隊長も!」
「薬師たちも!」
「全員、ノエルを助けるために死んだ!」
涙が頬を伝う。
「だから、もう誰も連れていきません」
「私一人で行きます」
「行って、何をする」
ディルクの声も震えていた。
「戦う力もないお前が、一人で何をする!」
「謝ります」
セリアは答えた。
「二百六十三人を送り込んだことを」
「そして」
一度、目を閉じる。
「頼みます」
「果実を寄越せとは言いません」
「木も」
「枝も」
「根も求めません」
「ただ」
眠る弟の顔を思い浮かべる。
「ノエルを助ける方法があるなら、分けてほしいと頼みます」
「断られたら」
「受け入れます」
「殺されたら」
短い沈黙。
「それも受け入れます」
「認めん」
ディルクは首を振る。
「父として、娘を死地へ行かせることなどできん」
「では」
セリアは、父の目を見る。
「ノエルが死ぬのを、ここで一緒に待ちますか」
ディルクの表情が固まった。
残酷な言葉だった。
だが。
残された選択は、それしかない。
公爵は目を閉じた。
長い沈黙。
誰も口を挟まない。
「……何を持っていく」
やがて。
ディルクが尋ねた。
許可ではない。
だが。
止める言葉でもなかった。
「ヴァレスト家の植物大典を」
「家宝だぞ」
「だからです」
セリアは答える。
「赤金の奇跡果を生む植物があるなら」
「あの本は、きっと役に立ちます」
金でも。
宝石でも。
武器でもない。
迷宮が守っている植物のためになる物。
それを持っていく。
「分かった」
ディルクは、絞り出すように言った。
「ただし」
セリアの肩へ両手を置く。
「必ず帰ると約束しろ」
セリアは。
すぐには答えられなかった。
嘘になるからだ。
「帰るために、全力を尽くします」
それが。
彼女にできる、唯一の約束だった。
◇
日が傾き始めた頃。
霧灰白庭迷宮の外縁に、新たな反応が現れた。
《外縁接近個体を確認》
「数は」
《一名》
「一人?」
《はい》
余は、すぐに壁面を切り替えた。
森の中。
白い霧へ続く道を、一人の女が歩いている。
年は若い。
淡い金色の髪。
旅用の白い外套。
腰に剣はない。
杖も。
弓も。
鎧すら身につけていない。
両手で抱えているのは。
古びた木箱一つだけ。
「管理音声」
《はい》
「周辺を調べろ」
《半径五キロメートル以内を確認》
《武装集団反応、確認出来ズ》
「地下」
《反応無シ》
「上空」
《反応無シ》
「転移待機者」
《確認出来ズ》
ガルザヴェインが、壁面の女を睨む。
「ヒトリ」
「ああ」
「ワナ、カモ」
「その可能性はある」
カゲツも大剣を持ち直す。
「敵影」
一拍。
「異常無シ」
「魔力潜伏」
「異常無シ」
「完全に一人か」
「現状、単独ト判断」
余は、白い霧へ近づいてくる女を見る。
歩き方には疲れがある。
何度か木の根へ足を取られ。
それでも、立ち止まらない。
武人の歩き方ではない。
森を歩き慣れてもいない。
「ロード」
フィルエが、命の苗床から壁面を見る。
「昨日の人たちと同じ服?」
「違う」
鎧も。
家紋を隠す黒布もない。
「でも、同じ匂いが少しする」
「何の匂いだ」
「昨日の人たちが持ってた薬と、紙」
同じ家から来た者。
その可能性が高い。
余は、覇牙軍団へ待機を命じた。
「ガルザヴェイン」
「ウン」
「軍は持ち場から動かすな」
「承知」
「マネ」
「ロード」
「外部へ声を出す準備だけしておけ」
「ウン」
「カゲツ」
「ロード」
「百骸騎士団は第二防衛線を維持」
「承知」
「侵入を確認した場合のみ動け」
「命令、受諾」
万蝕酸界にも意識を向ける。
「ウルグ」
「うるぐ」
「外へ出るな」
「うるぐ」
「今は敵かどうかも分からん」
透明な床が、ゆっくり平らになる。
◇
女は。
白い霧の三歩手前で止まった。
昨日。
二百六十三人の軍が立っていた場所。
白陽砲を運び。
赤金の奇跡果を必ず持ち帰ると誓った場所。
今は。
一人しかいない。
女は、抱えていた木箱を地面へ置いた。
次に。
白い外套の内側から、一枚の布を取り出す。
真っ白な布。
武器を隠していないと示すように、両手で広げた。
地面へ敷く。
その上へ。
ゆっくり両膝をついた。
ガルザヴェインが壁面を睨む。
「コワガッテル」
「ああ」
女の手は震えている。
息も。
肩も。
膝も。
森の中に一人でいるだけでも怖いはずだ。
その目の前には。
二百六十三人を一人も返さなかった迷宮がある。
それでも。
逃げなかった。
女は、木箱を自分の前へ置く。
そして。
白い霧へ向かって深く頭を下げた。
「この迷宮を治める方へ」
声が震える。
一度。
喉が詰まり。
それでも続けた。
「私の声が届いているかは、分かりません」
「言葉を理解していただけるかも、分かりません」
「ですが」
両手を白布へつく。
「どうか」
「話を聞いてください」
余は答えない。
まだ。
女は、頭を下げたまま続ける。
「私の名は」
一度だけ息を吸った。
「セリア・ヴァレスト」
ヴァレスト。
ベルガたちが仕えていた家。
二百六十三人を、余の迷宮へ送った者たち。
「昨日」
セリアの指が、白布を強く掴んだ。
「この迷宮へ軍を送った、ヴァレスト公爵家の者です」
ガルザヴェインの拳が握られる。
「ヤッパリ」
「ああ」
カゲツの大剣が、わずかに持ち上がる。
「敵対家門ノ者」
「まだ動くな」
「承知」
セリアは。
自分の家が軍を送った事実を隠さなかった。
「二百六十三人」
数まで。
正確に口にする。
「彼らは」
声が小さくなる。
「この迷宮にある物を、奪うために入りました」
言い訳をしない。
公子を救うためだったとも。
時間がなかったとも。
先には言わない。
「彼らが、一人も戻らなかったことも」
セリアは目を閉じる。
「知っています」
土へ。
額をつける。
「まず」
涙が、白布へ一滴落ちた。
「謝らせてください」
「私たちが」
「間違っていました」
森に。
白い霧が流れる音だけが残った。
◇
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「聞こえている」
「この人」
「ああ」
「嘘ついてないと思う」
「まだ分からん」
謝罪が本物でも。
その後に何を求めるかは別だ。
二百六十三人が死んだ。
その怒りで来たのかもしれない。
油断させるためかもしれない。
「殺ス?」
ガルザヴェインが尋ねた。
「まだだ」
「ウン」
ガルザヴェインは拳を下ろさない。
だが。
すぐに軍へ攻撃を命じることもしなかった。
「カゲツ」
「ロード」
「敵意を感じるか」
「現時点」
壁面のセリアを見つめる。
「確認出来ズ」
「木箱は」
「呪詛反応、無シ」
「攻撃術式」
「確認出来ズ」
「管理音声」
《カゲツの観測と一致します》
「中身を解析できるか」
《木箱内部に紙媒体を確認》
「本?」
《はい》
「それ以外は」
《確認出来ズ》
本を一冊持ち。
武器も。
護衛もなく。
公爵家の娘が一人で来た。
「外部音声を開け」
《承知しました》
白い霧の一部が、わずかに揺れた。
セリアが顔を上げる。
何かが変わったことを感じたのだろう。
余は、霧の奥から声を届けた。
《一つだけ答えろ》
森に。
人ではない声が響いた。
セリアの肩が大きく跳ねた。
目が見開かれる。
本当に。
言葉が返ってくるとは思っていなかったのかもしれない。
それでも。
立ち上がらなかった。
逃げもしなかった。
「……はい」
《昨日》
余は問う。
《二百六十三人を、この迷宮へ送ったのは》
一拍。
《お前たちヴァレスト公爵家か》
誤魔化す機会はあった。
自分は知らなかったと。
父が勝手にやったと。
兵たちが独断で入ったと。
言うこともできた。
だが。
セリア・ヴァレストは。
霧の奥にいる何者かを真っ直ぐ見て。
「はい」
と答えた。
「私たちが」
「送りました」
逃げ道を作らない答えだった。
帰らぬ二百六十三人の軍の代わりに。
今度は。
一人の女が。
武器ではなく、言葉を持って。
白い迷宮の前へ来た。