【本編20万字完結】カストラート 〜傾国の歌劇(オペラ)〜【幕間更新あり】
すると、それまで僕たちのやり取りを黙って見守っていたアイシャが、静かに一歩前へと進み出た。
そして、僕の衣服の裾を小さな手でぎゅっと掴んだ。
「……次は、ちゃんと相談してくださいね。私たちは、カース様が思っているよりも、ずっとずっと強いんですから」
まっすぐに僕を見上げる彼女の瞳には、凛とした強い光が宿っていた。
突然閉じ込められたことに怒ってはいるのだろう。
けれど、意外なほどに涙は見せなかった。
それどころか、僕の不器用で、いささか独善的すぎた『守り方』の理由を、誰よりも早く理解して納得してくれたのだ。
『ふふ……これが「妻は強し、母は強し」ってやつね。アイシャ、本当に立派な大人の女性になったわ。あの秘密結婚の夜から、彼女はとっくに覚悟を決めていたのね』
脳内で『私』が、どこか誇らしげに、そして深く感心したように呟く。
((ああ、本当に……なんて強くて、美しい人なんだろう))
すべてを包み込むような彼女の底知れない包容力と強さに、僕は心の底から深く、深く惚れ直してしまっていた。
最愛の母を失い、自らの手で父と弟を殺し、ドス黒い罪悪感で満たされていたはずの僕の心が。
彼女の放つ眩いほどの温もりによって、みるみるうちに救われ、解きほぐされていくのが分かる。
――その日の夜。
軟禁の騒動から解放され、ようやく静寂を取り戻した夫婦の寝室。
薄暗い月明かりが差し込む部屋で、僕は結婚後初めて、本当の意味でアイシャを抱いた。
カストラートとしての、子孫を残すことのできない不完全な身体。
実の家族を次々と地獄に叩き落とした、血塗られた大罪人の呪われた肉体。
それでも、アイシャは僕のすべてを慈しむように、愛おしそうに受け入れ、その細い腕で僕を優しく、強く抱きしめてくれた。
「愛しています、カース様……。どんなあなたでも、私はあなたの妻です」
闇の中で二人の呼吸と肌の温もりが重なり、混じり合っていく。
故郷を自らの手で灰にし、地獄へ堕ちることすら完全に受け入れた少年。
だが、彼が最後に還るべき本当の居場所は、目指すべき約束の地は——。
教皇が君臨する聖座の影でも、幼王が座る玉座の影でもない。
自分という存在を無条件に愛し、すべてを許してくれる、この最愛の妻の腕の中にこそあったのだ。