電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
宿の鍵を回した時、手が少し震えていた。
あ、これ……やば。
レナは自分の手を見つめた。震えは、寒さのせいか、別の何かのせいか、わからなかった。部屋の中は暖房が入っていたけれど、入った瞬間にぞくっと寒気が走った。それでだいたい察した。
『レナ』
「うん、わかってる」
『体表温度が、平常値より一・八度高いです』
「うん」
カバンを床に置いて、上着を椅子の背にかけた。それだけの動作で息が上がった。ベッドまで三歩。なんとか辿り着いて、靴も脱がずに倒れ込んだ。
天井が、遠ざかったり近づいたりしていた。
『レナ、靴を』
「あとで」
『靴を脱いでください』
「……はい」
片足ずつ、なんとか靴を脱いだ。脱いだ靴がベッドの下に転がる音がした。レナはそのまま枕に頭を埋めた。
天井の電球は、淡い橙色だった。電線ジャングルの天蓋を通して、外のネオンの色が窓越しに薄く混ざっていた。紫が一瞬、緑が一瞬。誰かのため息のようなリズムで、明滅していた。
レナは、暗闇に寄りかかるみたいに、目を閉じた。
***
夢の中で、母の声がした。
はっきりとした言葉ではなかった。「ちゃんと食べた?」とか、「無理しないで」とか、そんな単語の輪郭だけが、霞の中に浮かんでは消えた。台所の音がした。鍋の蓋が湯気で持ち上げられて、かたかたと鳴る音。
匂いがした。
ベーコンと玉葱が、長く煮込まれた匂い。
「……ポトフ」
自分の声で、レナは少しだけ意識を取り戻した。
枕元にフェネクが座っていた。装甲がほんのり青白く光って、レナの顔を見守っていた。
『レナ。何か言いましたか』
「……ううん」
『ポトフ、と聞こえました』
「うん。お母さんの……」
最後まで言えずに、レナはまた目を閉じた。
迷宮都市では、駅前を除いてコンビニは見かけなかった。
この先、いったいどうやってご飯を食べればいいんだろう、と不安になりながら。
フェネクは、しばらく動かなかった。それから、装甲の発光パターンが何度か変わった。データベースを検索しているのだ、とレナはぼんやり感じた。
***
それから、どれくらい、眠ったかわからない。
次に目を覚ました時、部屋の中に、知っている匂いが漂っていた。
ベーコン。玉葱。にんじん。じゃがいも。長く煮込まれた、優しい匂い。
レナはゆっくりと身を起こした。額の冷却シートが、ずれて頬の方に滑り落ちた。
氷冷草エキス配合の冷却シートだった。ほのかにハッカの匂いがする。
机の上には、茶色い小瓶の解熱薬。普通の薬。魔法成分は入っていない。
こういう医療品には、魔法を使っていないアイテムが多かった。
レナが看護師の友達に聞いた話だと、患者が魔力を浴びていると、医者の治癒魔法の効果をはじいてしまう事があるからだそうだ。
なので、極力魔石も魔法素材も使わなかった。
細長い棒状の体温計は、完全に電気で動いている。先端にダイオウイカ液晶の小さな表示窓。脇に挟むと、三十秒ほどで、ピッと電子音が鳴った。
三十八度二分。
これが魔法とどう違うのか。いろいろ考えてみたけれど、頭がズキズキ痛むのでやめた。
フェネクが宿の小さなキッチンに立っていた。背伸びをしてコンロに手を伸ばし、お玉で何かをかき混ぜていた。装甲のセンサーが、湯気の中で青く光っていた。
小さな影が、台所で頑張っていた。
レナは、しばらく、ただそれを見ていた。
『目が覚めましたか、レナ』
「……うん」
『レナが、ポトフ、と仰ったので』
「うん、ありがとう」
レナは小さく頷いた。それからもう一度、頷いた。
フェネクが、湯気の立つ皿を運んできた。サイドテーブルの上に置かれた皿の中に、ベーコンの厚切りと、大きく切られた野菜が、透明なスープに沈んでいた。表面に、ほんの少しだけ、油の輝きが浮かんでいた。
一口、食べた。
舌の上で、塩味と、玉葱の甘さと、ベーコンの脂が、ゆっくりと広がった。
二口目で、目の縁が少し熱くなった。
なぜか、王都の家の台所が思い出された。冬の朝、母が長く煮込んでいた鍋。学校から帰ってくると、ドアを開けた瞬間に、この匂いがした。
「あなたが唯一の癒しだわ、フェネク」
『光栄です、レナ』
フェネクの装甲が、ほんのりと、青と緑の中間の色に光った。何の発光パターンなのか、レナにはわからなかった。たぶん、フェネク自身にも、はっきりとはわかっていなかった。
***
ポトフを半分ほど食べて、レナはまたベッドに横になった。
熱は、まだ少し残っていた。でも、最初の刺すような鋭さは消えていた。体の奥に、まだ温かいスープがあって、レナを守ってくれている感じがした。
フェネクが食器を片付けて、また枕元に戻ってきた。装甲をほんのり光らせて、レナを見守っていた。
レナは、何をするでもなく、ただ、ぼんやりとフェネクを眺めていた。
白い小さな装甲。胸の発光パターン。それから、首の後ろの——
アンテナ。
ヘルマンが、無造作に巻きつけた銅電線。「おまじないだ」と言っていた、太い銅の螺旋。フェネクの繊細な通信アンテナを、ぐるぐると、何重にも、無造作に。
半分眠りかけた頭の中で、いくつかの映像が、ゆっくりと並び始めた。
ヘルマンの工房で計測した、綺麗な波形。
レナの会社のエアコンで計測した、歪んだ波形。
工房で見た、ヘルマンが手早く何かを巻いていた手つき。
そして、フェネクのアンテナに、ぐるぐると——
「おまじないだ」
レナの目が、わずかに開いた。
「……ひょっとして」
声が、自分でも聞こえないほど小さかった。
「……これか?」
フェネクが少し首を傾げた。
『何か仰いましたか、レナ』
レナは答えなかった。
頭の中で、何かが繋がりかけていた。
電線は、電気を流す金属の線のことだ。
コイルというのは、ただ、その電線をぐるぐる巻いた、それだけの構造だった。
けれども、まっすぐの電線よりも強力な磁力を生み出すことができて、E2Mには必ず含まれている。
変圧コイル、巻数、励磁、逆起電力。
大学で習った、電気工学の単語が、迷宮都市の薄暗い天井の下で、別の意味を持って浮かび上がっていた。
でも、その意味を、最後まで辿る前に、瞼が落ちた。
レナはもう一度、深い眠りに落ちた。
「フェネク……明日、またヘルマンさんのところに、行かなきゃ……」
『了解しました』
フェネクが、額の冷却シートをそっと取り替えた。冷えたハッカの匂いが、レナの夢の中まで、静かに届いていた。