電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
熱は、翌朝の早い時間に引いた。
レナは目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。昨夜、寝入る寸前に何かが頭の中で繋がりかけたことを、ぼんやりと覚えていた。
コイルの形。巻き数。誘導。
そして、フェネクのアンテナに巻かれた、あの銅電線。
レナは身を起こした。額からずり落ちた冷却シートが、シーツの上にぺとりと落ちた。氷雪草の匂いはもう薄くなっていた。
『おはようございます、レナ。体調はいかがですか』
「フェネク」
『はい』
「実験する」
『はい?』
レナはベッドから足を下ろした。少しふらつくが、立てる。立てた瞬間に、もう頭の中は実験の手順を組み立て始めていた。学生の頃以来の感覚だった。
レポート提出の前夜、思いついた仮説を確かめずにはいられなかった、あの感覚。
胸の奥が、ほんの少しだけ、ドキドキしていた。
***
最初に必要なのは、コイルだった。
巻く芯は、宿の備品の傘立てから抜いてきた檜の棒で代用した。失敬します、と心の中で謝った。
問題は電線だった。レナは昨日のうちに、念のため、ジャンク市の屋台で売られていた電線の切れ端を一巻き買っておいた。OW架空電線、JIS581番——街の頭上に張り巡らされている、耐候メタルスライムシース・キングスライム被覆電線と同じやつだ。
これを剥いて、内側の銅線を取り出して、檜の棒に巻きつければいい。
簡単な話だった。
簡単な話のはずだった。
レナは買ってあった電工ナイフを取り出した。刃を当てた。力を込めた。
刃が、滑った。
メタルスライムシースの表面は、つるりとして硬く、ナイフの刃を寄せ付けなかった。レナは角度を変えてもう一度試した。今度は刃が食い込んだ気がしたが、力を入れると、また滑った。
「……んっ」
レナは唇を噛んで、もう一度。シースの表面に薄く傷がついた。傷の深さ、〇・二ミリほど。
被覆の厚みは、たぶん三ミリある。
「……かっ……た……」
汗が一筋、額から落ちた。
ヘルマンが工房で、これをするすると剥いていたのを思い出した。あの動作、どう考えても素人には無理だった。レナは大学で材料規格表を見てきた。メタルスライムシースの耐候性、引張強度、電気特性——数値はすべて頭に入っている。
でも、剥く苦労は、規格表のどこにも書いていなかった。
3度目の挑戦で、レナはとうとう諦めて、JIS581番をベッドの上に放った。代わりに、もっと細い、KIS電線——可撓絶縁スライム被覆電線——を取り出した。これなら剥けるはずだった。
そして実際、剥けた。あっさりと。
レナは少しだけ、敗北感を味わった。
***
机の上に、おもちゃのような装置が組み上がっていった。
左端にM2E。これはキャンプ用の小型のもの、ジャンク市で買ってあった。右端にE2M。これも同じく小型のもの。充分はなして中央に、檜の棒に銅線を巻きつけたコイル。すべてを細い銅線で繋ぐ。端子の接続は慎重に。一度大学の実験で、端子を緩く締めたまま電源を入れて、火花を散らした記憶があった。あれは怖かった。
フェネクが横で覗き込んでいた。
『レナ。これは何の装置ですか』
「実験装置」
『何を実験するのですか』
「えーと……」
レナは少し考えた。
「電気と魔法の、間にあるもの」
『……難しい質問ですね』
「うん。難しい」
レナは銅線の最後の端を、コイルの巻き始めに繋いだ。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
「はーい!」
反射的に、ナイフを持ったまま、レナは扉まで小走りに行った。扉を開けた。
配達員の若い男が、レナの手元を見て、表情を凍りつかせた。
レナは自分の右手を見た。電工ナイフ。刃が出たまま。
「あ」
「ど、どうも、宅配です」
「あ、はい、ありがとうございま……」
「では失礼します!」
配達員は荷物を玄関の前にどさりと置くと、サインの紙だけ差し出して、押印を待たずに走り去った。
レナは扉を閉めて、しばらく考えてから、「あ」ともう一度言った。
『レナ。手にナイフを持ったままでした』
「うん」
『次回はご注意ください』
「うん」
荷物を開けた。中身は、調査会社経由で取り寄せた小型モーター。実験に必要なものは揃った。
レナは机に戻り、モーターをE2Mに繋いだ。
装置が、完成した。
机の上に並んだそれは、本当に、子どものおもちゃみたいだった。檜の棒、銅線、二つの小さな箱、ちょこんと座ったモーター。学生時代に作った教材実験のキットを思い出した。
「……動くと思う?」
『データにありません』
「うん、ですよね」
ピンポーン。
また、チャイムが鳴った。
***
扉を開けると、ヘルマンが立っていた。手に紙袋。
「もう、大丈夫か」
「あ、はい、おかげさまで」
ヘルマンは紙袋を差し出しかけた。
そして、その手が止まった。
レナの背後に並んだ机の上、おもちゃのような装置に、視線が吸い込まれていた。
お見舞いに来たことは、もう忘れたらしかった。
袋を持ったまま部屋に入ってきて、靴も脱がずに机まで歩み寄り、装置をじっと見下ろした。長身のヘルマンが屈み込むと、机がさらに小さく見えた。
「……これ、お前が作ったのか」
「あの、思いついたことがあって」
「ふぅん」
ヘルマンは紙袋をようやく床に置いた。装置の周りを一周しながら、配線を目で追っていた。指で銅線の張りを確かめ、コイルの巻き数を数え、ドライバーで端子の締め具合を確認した。
「まだ緩い」
「すみません」
「やってみろ」
ヘルマンの声に、ちょっとだけ、笑みが混じった気がした。
***
レナは深呼吸をして、装置の電源を入れた。
M2Eが小さく唸り、銅線を電気が流れた。コイルを通り、E2Mに入り、モーターが回り始めた。
フェネクがパネルにオシロスコープを表示させて、モーターの手前にそっと触れた。波形が画面に現れた。
鋸歯状の、汚い波形だった。
「出てます。高調波」
「ふん」
ヘルマンはコイルに指を伸ばした。すぐに引っ込めた。
「熱いな」
「おそらくコイルが、高調波を吸って熱を持つんです」
「焼ける前に止めろ」
レナはモーターを別のものに付け替えた。E2Mも別のものに替えてみた。波形は、相変わらず歪んでいた。
「……E2Mを替えても、変わらない」
「だな」
レナは画面を見つめた。それから、ぽつりと言った。
「2種類の魔石を使って同じ効果が出ることはありません。誤呪効果ではないと言えます」
「ふむ」
「電気が、もともとこういう性質を持っているんです。E2Mが、M2Eの回転周期と微妙にズレた負荷をかける。そのせいで回路全体にわたってうねりが生じ、波形が歪む。魔法を使っているせいじゃない。電気そのものに、こういう性質がある」
ヘルマンはしばらく無言だった。
それから、ぼそりと言った。
「充分、魔法だろ」
レナは思わず顔を上げた。
ヘルマンという職人は、感覚だけで電気をとらえている。理屈を持たない彼にとって、魔法と同じようなものなのだ。
レナは少しだけ、笑った。
「……じゃあ、おまじないをかけます」
レナは、カバンから太いアース線の切れ端を取り出した。昨日、ジャンク市で一緒に買ってあったもの。小さなボビンに巻きつけて、即席の大型コイルを作った。手の感覚は、ヘルマンの手つきを見様見真似で。
コイルとE2Mの間に、大型コイルを直列に挿入した。
もう一度、電源を入れた。
フェネクのオシロスコープの波形が、変わった。
鋸歯状の汚い波形が、ぐっと滑らかになった。完全な正弦波ではないが、明らかに高調波が抑え込まれていた。
コイルに手をかざした。さっきほど熱くない。代わりに大型コイルの方が温かくなっている。
「……減ってる」
「だな」
「大型コイルが、高調波を引き受けて、代わりに熱くなっている」
「だな」
「おまじないの正体は、たぶん、これですね」
ヘルマンは腕を組んで、装置を見下ろしていた。表情は、なぜか、少し遠くを見ているようだった。
***
レナは姿勢を正した。
「ヘルマンさん。これ、ちゃんとした製品として作ってくれませんか。とりあえず来週の企画会議に間に合えばいいので」
「もう、これでいいだろ」
「いえ、これじゃ……おもちゃみたいだから」
ヘルマンは机の上のおもちゃを、もう一度、見た。
そして、ふっと、息を吐いた。
「最初にM2Eを発明した奴も、ちょうどこんなおもちゃを持って、王立魔法協議会に立ってたって話だ」
「えっ」
「うちの祖父さんから、耳タコで聞かされた伝説だ」
ヘルマンは床に置いた紙袋を椅子の上にぽんと置いて、自分は別の椅子に腰を下ろした。
「八十年前だ。テンディルコンタル州でE2Mが発明されて、けれど動力源の電気をどうやって生み出すのか、まだ誰も答えを持っていなかった時代だ。魔法インフラも、まだ送電なんてアイデアはなくて、魔力ダムからゴリ押しで大量の魔力を送ってて、魔法をほとんど使わないE2Mは、それらの寿命も効率も千倍ちかく引き延ばす可能性を秘めていた。先生が――M2Eを発明した先生だ――王立魔法協議会で、おもちゃみたいな装置を持って演壇に立ったらしい」
「……」
「銅線をぐるぐる巻いた、ちょうどこんな感じのコイルだった。それに、磁石をひょいと近づけたり離したりした。それだけで、繋がってた検流計の針が振れた。それを見せて、先生は言ったらしい。『電気と磁気の間に、橋がある』って」
レナは息を止めて聞いていた。
「『電磁誘導』だ……電気から磁気を生み、磁気から電気を生む、循環システムがあることを示した。あの実験装置が、後の魔石工学の歴史を全部ひっくり返した。世界中でM2E-E2M構想が研究され、送電線が世界中を走るようになった。お前さんとこのエアコンが動くのも、俺んとこのバルトが動くのも、全部、あの一晩のおもちゃから始まった」
ヘルマンは、机の上のおもちゃを見つめた。
「祖父さんは、その講演会に通い詰めた。毎週、毎週。寝る前に山のように質問することを考えておいて、会うたびに先生に質問しまくって、めんどくさがられた、最後には自作の論文を持って行って、押しかけ弟子になった。先生がちょうど助手をクビにしたところでな、人手が足りなかったから採用されたんだと。運がよかった」
「……」
「先生はその後、別の研究に夢中になった。魔石の存在しない魔力空間、『魔力場』の研究だ。E2Mの開発は祖父さんに任せたんだ。祖父さんは独立して、この街で工房を構えた。それが、うちだ」
ヘルマンは立ち上がった。
「俺はその先生にも、祖父さんの最初の仕事にも立ち会ったことはない。話を聞かされただけだ。だけど、机の上にこういうおもちゃが乗ってるのを見ると、なんか、その話を思い出すんだ」
ヘルマンは作業着の胸ポケットから、よれよれの手帳を取り出した。
「簡単な図でいい。設計してくれ。いくつか試験機を作るんだろ? 見積もりくらいは出してやれる」
「……はい」
レナは頷いた。それから、自分の声が少し震えていることに気づいた。
「あの、ヘルマンさん」
「ん?」
「お祖父様のお話、もっと、聞きたいです」
ヘルマンは、少し驚いた顔をした。
それから、いつもの皺の深い顔で、ふっと笑った。
「いつでも聞かせてやる。爺さんの話なら、たぶん三日三晩は止まらんよ」
ヘルマンが帰った後、レナは机に向かった。
製図用紙を広げ、ペンを取った。線を引き始めて、ふと手が止まった。
机の上のおもちゃが、橙色の照明の下で、静かに座っていた。
八十年前にも、たぶんこういう照明の下で、誰かが同じようにおもちゃを見つめていた。
「よし……やるか」
レナはもう一度ペンを動かした。線は、思ったより、まっすぐ引けた。