電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
朝の宿のキッチンで、レナはノートを開き、太いペンで一行書いた。
「自炊、はじめます」
下に箇条書きで、「健康になる」「親方を見返す」「お金が浮く」と書き加える。書いてから、満足げに頷いた。
背後で、フェネクの光学センサーが、ぴ、ぴ、と二度点滅した。
『レナ。質問が三件あります』
「どうぞ」
『一件目。レナは、これまで、自炊の経験がありますか』
「……サンドイッチなら」
『サンドイッチは、調理に該当しません』
「パンに具を挟むのは、立派な調理よ」
『広義の解釈では、同意します。狭義では、組み立てです』
「フェネク、あなた、最近、言うわね」
『親方の影響と、推測します』
レナは少しムッとして、ペンを握り直した。
『二件目。レナの実家での、担当家事は』
「お皿洗い……たまに」
『三件目。一人暮らしの経験は』
「……」
『レナ?』
「会社の研修寮で、半年。でもあれは、食堂付きだったし」
『では、純然たる自炊生活の経験は、ゼロですね』
「ゼロって言うな、初心者って言って」
『初心者、と訂正します』
レナはノートに「初心者」と書き加える。書いた自分の文字を見て、少しだけ気持ちが萎えそうになる。
ふと、母のポトフを思い出した。風邪で寝込んだとき、母がベッドの脇まで運んできてくれた、湯気の立つ椀。ああいうのを再現したい。けれど、あれは母の手から出る何かであって、レナの手からは、出ない。
からっぽの台所を眺めているうちに、レナはふと気づいた。
「あれ? そういえば、前にフェネクがポトフを作ってくれたよね」
『はい、レナ』
「あの調理器具は? 見当たらないのだけど」
『大家さんにお返ししました』
「調理器具ないんだ」
レナは、空っぽの台所を前に、頭を切り替えた。
(……まあいいや、とりあえず、道具、買おう)
道具から入る。典型的なエンジニアの発想だった。
レナはフェネクを連れて、職人街の家電屋を回った。
最初の店は、家電屋というか、半分ジャンク屋だった。陳列棚には、見たことのある家電と、見たことのない家電が混在している。値札は紙の切れ端で、値段の上に二重線が引かれてさらに値下げされていたりする。
「フェネク、これ、何?」
『陣可動式オーブン、最大温度三百二十度、内寸三十センチ立方。ジペンゼ製です』
「輸入品なんだ……三十センチ立方って?」
『立方体です』
「分かるわよ、立方体くらい!」
レナは三十分かけて、コンロ、フライパン、鍋、包丁、まな板、ザル、ボウル、菜箸、お玉、計量カップ、ピーラー、おろし金、保存容器、ふきん、スポンジ、洗剤を選んだ。全部、新品で揃えた。中古は、なんとなく、嫌だった。
会計で、レナは値札の合計を二度見した。
「……あ、これ、思ったより、いく」
『会社の経費としては、計上できません』
「分かってる、分かってるって」
両手いっぱいの紙袋を抱えて、宿に戻った。紙袋の中で、買ったばかりのフライパンが、かちゃかちゃと、誇らしげに鳴っていた。
宿のキッチンで、レナは新品の調理器具を、まな板の上に儀式的に並べた。
包丁の刃を撫でて「これ、よく切れそう」と呟き、フライパンをコンロに乗せて「うん、収まった」と頷き、ザルをボウルに入れて「ここに、お米を……」とシミュレーションした。
すべての準備が整って、レナは胸を張って、フェネクに向き直った。
「よし。フェネク」
『はい、レナ』
「何を作ったらいい?」
『……』
「フェネク? もしもーし」
『材料が、ありません』
「ふぁっ」
レナは、新品の調理器具が並んだキッチンを、ゆっくりと見回した。
完璧な戦場だった。武器も鎧も整っていた。
ただし、敵がいない。というか、素材がない。
「……あれ、私、何を、買えばよかったんだっけ」
『食材です、レナ』
「うん、分かる分かる。それは分かるんだけど」
『具体的には、何を作りたいか、を先に決める必要がありました』
「……それだわ、フェネク」
『献立から逆算するのが、料理の基本です』
「フェネク、それ知ってたなら、家電屋で言ってよ!」
『レナが熱心に道具を選ばれていたので、声をかけるタイミングを逸しました』
「優先順位がおかしいわ!」
『観察と介入は、似て非なる概念です』
「私を観察してどうするのよ! サポートしてよ!」
『善処します』
レナは、新品のフライパンを、コンロの上で、虚しく一回、傾けた。
カチン、と、軽い金属音が鳴った。
(……うちの母、すごかったんだな)
レナはふと、母の偉大さに気づいた。気づいたところで何の役にも立たないが、気づいた。