転生貴族リデル・バートンの野望
十二月三十一日。
霊峰インテグロモンテは、未曾有の熱狂に包まれた祝祭の夜を迎えていた。
漆黒の夜空へ、鮮烈な花火が打ち上げられた。
一発、また一発。途切れることなく次々と華やぎが炸裂し、冬の凍てつく山空を彩っていく。
今夜は、二重の意味で特別な祝祭であった。
一年の終わりを告げる年越しの祝賀と、この地に最初の大聖堂が建立されてからちょうど「三百年」という歴史的節目。百年に一度の記念日と年越しが重なる奇跡のような夜──生きておるうちに二度と拝めぬであろうその瞬間を分かち合おうと、山中に点在する施設から無数の人々が溢れ出していた。
広間の食卓には、到底食べきれぬほどの山海の珍味が積み上げられていた。
大きな杯からは、呑みきれぬほどの高級酒が惜しげもなく溢れ出している。
楽師たちが奏でる狂乱の調べに乗せ、歌い手が声を張り上げ、人々は笑い、狂い、叫び散らしていた。
そして──豪華な施設の裏側では、聖なる戒律など誰一人として気にとめぬ不徳の宴が、繰り広げられていた。肉欲に呑み込まれた男女が、暗がりの至る所で獣のように互いの身体を求め合っていたのだ。
そこには、清廉さの欠片も存在しなかった。
神聖さなど、もとより無縁であった。
三百年にわたって積み重ねられてきた絶大な宗教的権威の陰で、今夜この場所に集った者たちが撒き散らしていたのは、世俗の果てなき欲望のすべてであった。
しかし──それを一方的に責め立てることが、果たして誰にできただろうか。
宗教というものが、元より人間の都合の良い救いと望みから生み出されたものだとするならば、酒と肉の情欲を貪るこの醜悪な光景こそが、ある意味では辿り着くべき当然の帰結であったのかもしれない。神が人を自らに似せて作ったのではなく、人間が己の欲望を満たすために神を作り上げたのだとすれば、なおさらであった。
この黄金の饗宴が、今夜ばかりは永遠に続くと誰もが信じて疑わなかった。
いや──信じ込もうと必死にしがみついていたのかもしれない。
山麓の平原には、数日前からローズヴェル軍の八千が密かに陣を展開していた。
表向きは「冬期軍事演習」とされていた。
だが、山の上に蠢く者たちの誰一人として、それを本気で気にとめる者などいなかった。
なぜなら──ここは聖域インテグロモンテなのだから。
帝国の西と南とを分かつ絶対の霊峰。三百年もの歴史を誇る女神教最大の聖地。八千万の信徒がひれ伏す、この世で最も神聖にして不可侵とされる場所。
たとえどのような大軍であろうと、この地を踏みにじることなど断じて不可能である──。
誰もが、そう強固に確信していたのだ。
……しかし。
リデルの冷徹なる作戦は、すでに彼らの予想とは不可逆的に動き出していた。
血と炎で彩られる新たなる饗宴の幕開けは、目と鼻の先にまで迫っていた。
───
山麓に広がる暗闇の中、整然と並ぶ鉄の砲列が存在していた。
ヴェーデル公国軍が誇る砲兵隊である。
合計「四十八門」におよぶ巨大な大砲が、冷たく張り詰めた闇の中に据え付けられていた。
山頂から打ち上げられる華やかな花火の明かりが、砲兵たちの手元を不気味に照らし出す。
兵士たちは口を噤み、ただ黙々と最終調整の作業を進めていた。
一人の砲兵が、作業の手を動かしたまま、隣に立つ若い同僚へ密やかに声をかけた。
「……おい」
「何だ」
「ただの『夜間演習』だと聞いていたんだがな……」
兵士は、自身が照準を合わせている砲身の角度と俯角を、引きつった目で見つめた。
「……この砲の向きと角度だと、狙撃地点は絶対に……」
「……何も言うな。何も聞きたくねえ」
若い同僚が、きっぱりと制した。
低い声であったが、そこには拒絶の意思がはっきりと込められていた。
「俺たちは……命じられた通りの作業をこなしているだけだ。上意下達こそが軍隊の鉄則だろう。……違うか?」
問いかけられた兵士は、重苦しく唇を噛み締め、それ以上は何も言わなかった。
周囲に控える他の砲兵たちもまた、程度の差こそあれ、全員が同じ疑問と致命的な予感を抱いていた。しかし、誰もそれを口に発する者はいない。ただただ無言で、砲撃の準備を推し進めていた。
この恐るべき現実の真意を理解している「確信犯」は、この麓の現場に二人しか存在しなかった。
この演習の全権を握る宰相リデルと、砲兵隊を率いる指揮官ブルムンである。
ブルムンは、五十に手が届く大柄な叩き上げの軍人であった。二十年以上にわたって血生臭い修羅場を潜り抜けてきた男であり、目にしてきた地獄の数など数え切れなかった。
しかし──今夜ばかりは、その武骨な両手が微かに震えていた。
「……リデル殿。本当によろしいのですか」
ブルムンは、隣に立つ青年に向けて問いかけた。
百戦錬磨の彼の声からすら、震えを完全に削ぎ落とすことはできなかった。
「ああ」
リデルは、氷のように涼やかな声で返した。
「ブルムン」
「はっ……」
「軍事行動によって生じるすべての罪と責任は、命令を下した者だけに発生する。……命令に従った君や配下の兵に及ぶことは、万に一つもない」
リデルはそれだけを静かに告げ、それ以上は何も語らなかった。
ブルムンはその言葉を噛みしめた。
目の前に立つのは、己の上官。しかし、自分よりも遥かに若い、まだ見た目では青さの残る青年である。
その若い青年に、これほどまでに配慮をさせてしまった──。
ブルムンは己の逡巡を深く恥じた。
もう、迷いも躊躇いもなかった。彼は静かに腹を決めた。
やがて、部下から緊張の走る報告が届いた。
「──報告! 大隊砲四十八門、全門の配置および照準、完了いたしました!」
ブルムンの瞳から、一切の揺らぎが消え去った。
「全門に通達──」
重厚な声が闇に響く。
「これより我が隊は、特別夜間演習を開始する」
一拍の静寂。
「──試射は不要。最初から全門『効力射』を即座に開始せよ!」
苛烈なる命令が、瞬く間に砲列の端から端へと伝達された。
砲兵たちが最後の手動確認を終える。
数十秒の、死よりも重い沈黙が流れた。
次の瞬間──天地を切り裂く圧倒的な閃光が走った。
一門ではない。
四十八門の巨砲が、完全に合致したタイミングで一斉に火を噴いたのだ。
重なり合った爆裂音が、凄絶な地鳴りとなって夜の空間を激震させる。
悲鳴のごとき轟音が、偽りの聖域に向けて容赦なく飛翔していった。
そして暫くして、夜空を彩る甘美な花火とは根本から異なる、絶望と死の光芒が漆黒の山肌を苛烈に照らし出した。