転生貴族リデル・バートンの野望
「おい」
修道士が杯を手にしたまま、ふらりと麓の方向を見つめた。
「今、向こうで何か光らなかったか?」
隣の同僚は、肉の塊を豪快に汁を散らして噛みちぎりながら答えた。
「向こうの連中も、こちらに合わせて花火でも打ち上げてくれたんじゃないのか?」
冗談めかした能天気な声だった。
二人して顔を見合わせ、鼻で笑った。それが自分たちに向けられた凄絶な死の合図である可能性など、微塵も考えていなかった。
次の瞬間──空気を鋭く切り裂く高音の風切り音が襲いかかった。凄まじい速度で接近してくる空中からの衝撃。
直後、弾音とともに連鳴が走り、山腹の至る所で爆発が弾けた。
着弾した砲弾内部の火薬が炸裂し、無数の子弾や破片が四方八方へと猛烈な速度で飛び散る。
近くにいた者たちは、悲鳴を上げる間もなく叩き潰され、血の海へと倒れ伏した。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
悲鳴と狂叫が巻き起こる。
一発では終わらない。続いて第二波、第三波の連撃が山を揺らした。
花火の快音に慣れきっていた人々の耳に、今や全く異なる質の音──肉を裂き建造物を砕く炸裂音、崩壊する建物、そして絶望的な叫び声が怒涛のように飛び込んできた。
華やかな宴は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変貌を遂げたのである。
人々は狂ったように逃げ惑った。だが、漆黒の暗闇と爆風のさなか、どこへ逃げればよいのかすら分からなかった。施設の中へと雪崩れ込む者、外へ飛び出す者、地面に頭を抱えて伏せる者──統制など完全に皆無であった。
「指揮官はどこだ!? 指揮官を呼べ!」
錯乱した叫びが交錯する。
しかし、兵らを指揮すべき将校たちの多くは、その夜、甘美な秘薬と女たちの肌に溺れ、まともな意識すら保てていなかった。
容赦のない砲撃が降り注ぎ続ける。
神聖なる霊峰に、無慈悲な死と破壊の雨が激しく叩きつけられた。
山の中腹に点在する建造物の各所から、赤黒い凶暴な炎が噴き上がり始めた。その惨状を照らす不気味な紅蓮の光が、冬の夜空を不吉に染め上げていく。
麓の陣地にて、リデルはその光景を静かに見つめていた。
炎に包まれ、破滅へと向かう霊峰の姿を。
その薄い口元には、冷ややかな笑みが浮かんでいた。
彼はそれを隠そうともしなかった。
「リデル様」
ブルムンが傍らへと歩み寄ってきた。
「第十斉射の準備が完了いたしました」
「そうか。ならば、それで攻撃を終了にしろ」
「終了……でございますか?」
「ああ、夜間演習はここまでだ。ご苦労だったな」
伝令が直ちに命令を携え、各砲列へと駆け抜けていった。
ブルムンは怪訝そうな表情でリデルを見つめた。
「よろしいのですか? もう少し継続すれば、さらに敵へ打撃を──」
「着弾の観測すら不可能な暗闇での夜間砲撃など、元より物理的な打撃力など期待してはいない。派手ではあるが、見た目ほど損害もないだろう」
リデルは、赤く染まる山肌から目を逸らさずに淡々と言い放った。
「敵の精神を根底から叩き、恐慌に陥れられればそれで十分だ。今夜の甘美な宴が、前触れもなく突如として阿鼻叫喚の地獄へ変わった──その事実を叩きつけただけで、我々の目的は達成された」
「では……」
「そろそろ、今回の作戦の『主役』が動く時間だ」
リデルは山の暗がりへと鋭い視線を向けた。
「あとは彼らの活躍に期待することにしよう」
───
霊峰の中腹、敵の主要施設にほど近い鬱蒼とした森林の中。
三千の精鋭部隊が、息を潜めて潜伏していた。
リヒトはその先頭に立ち、微動だにせず佇んでいた。
遠くで響いていた砲撃の轟音が、徐々に引き始めていく。
最後の炸裂音が山霊に吸い込まれるように消え、静寂が戻ってきた。
それは先ほどまでの狂乱の宴とは、似ても似つかぬ凄惨な静寂であった。
リヒトは山上を見上げた。
紅蓮の炎が大きく燃え盛り、風に乗って錯乱した悲鳴と怒号が届いてくる。
彼は振り返った。
暗闇の中、三千の兵たちの精悍な顔立ちが浮き彫りになっていた。
「よし──」
静かな、しかし通る声であった。誰一人として聞き逃す者はなかった。
「それでは諸君、行動を開始する」
一拍置き、リヒトの唇が冷酷に歪んだ。
「……空想の天国を嘯く者どもに、本物の戦場の地獄というものを教えてやろうじゃないか」
三千の影が、一斉に動いた。
一切の音を殺して森を脱出し、闇に乗じて一気に山の上へと駆けあがっていった。
───
イングリア大司教は、その夜も愛人の部屋で快楽を貪っていた。
最初に響いた砲声を聞いた時、彼はそれをただの祝賀の花火の音だと高をくくっていた。
二発目の重苦しい衝撃波で、異変を感じて跳ね起きた。
そして三発目の凄まじい炸裂音と、続いて聞こえた惨叫の群れが重なった瞬間、青ざめた護衛が部屋へと飛び込んできた。
「敵の攻撃を受けております!」
その報告を聞くや否や、イングリアは愛人を放り出し、なりふり構わず廊下へと飛び出した。
山中はすでに地獄絵図と化していた。
狂乱状態で逃げ惑う者、血を流して倒れる者、半壊した施設から立ち上る黒煙。
イングリアは護衛たちに守られながら、しわがれた声を張り上げた。
「落ち着け! 落ち着くのだ、皆の者!」
だが、パニックに陥った者たちの誰一人として足を止める者はいなかった。
「我々には崇高なる女神様の御加護があるのだぞ! 武器を取れ! 麓の不浄なる悪魔どもを撃ち払うのだ!」
振り返る者はわずかにいたが、足を止めて立ち向かおうとする者は皆無であった。
絶叫しながら走り去る人波が、イングリアの脇を容赦なく駆け抜けていく。
彼らを責めることなど、到底できはしなかった。
前触れのない突然の凄まじい砲撃、甘美な宴の最中という最悪のタイミング、秘薬の毒で酩酊し使い物にならない指揮官たち、そしてどこから敵が迫っているのかすら分からぬ暗闇。
この山には三万もの兵力が隠匿されていた。しかしその三万は今この瞬間、指揮系統を失ったただの烏合の衆に過ぎなかったのだ。
統制は完全に瓦解していた。
その混乱の隙を突くように、山中の重要拠点が次々と陥落していった。
アリシアが作成した地図は、恐ろしいまでに正確であった。防衛拠点の正確な配置、入り組んだ通路の構造、指揮所の隠された場所──すべてが手元の地図に描かれた通りであったのだ。
リヒト率いる部隊は、その完璧な情報に基づいて冷徹かつ無駄なく動いた。
実戦経験を積み重ねた旧親衛隊の精鋭たちが、パニックを起こした烏合の衆を相手にすれば、勝負の行方は火を見るより明らかであった。
それはまるで、赤子の手をひねるかのような圧倒的な蹂躙であった。
要塞化された武器庫が破られ、兵舎が瞬く間に制圧され、重要な山道は完璧に封鎖された。
三万の大軍は、内側から完璧に分断され、個別に撃破されていった。
イングリアが必死の思いで曲がり角を曲がった、その時であった。
前方の暗闇に、人影が浮かび上がった。
小さな集団であった。
護衛らが、悲鳴のような声を上げた。
「て、敵だっ!」
「神敵め!」
イングリアもまた、正気を失った顔で金切り声を上げた。
「殺せ! 今すぐあの神敵どもを殺し尽くせ!!」
護衛たちが武器を抜き、一斉に飛び出そうとした。
その瞬間──四方八方の暗闇から、同時に目も眩むような火花が散った。
一斉射撃であった。
襲いかからんとした護衛たちは、悲鳴を上げる間もなく全身を撃ち抜かれ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
直後、暗がりの中から静かに人影が現れた。
一人ではなかった。気付けば数え切れないほどの武装兵が、イングリアを取り囲んでいた。
イングリアはその場に力なくへたり込んだ。
両足から完全に力が抜け落ち、立っていることすらできなかった。
「や、やめろ……!」
声がみっともなく激しく震える。
「私は……私は尊き女神様に仕える大司教であるぞ! この私に手をかけたりすれば……!」
「顔をお上げください、大司教様」
静かな、しかし恐ろしいほどに落ち着き払った声が響いた。
イングリアはおそるおそる顔を上げた。
一人の凄絶な気迫を纏った男が、目の前に立っていた。
「我々の目的はあくまでこの霊峰の確保であり、無意味な虐殺ではありません」
リヒトであった。
イングリアの絶望に満ちた目に、かすかな生気が宿った。
「で、では……私は助かるのか……!?」
「いえ──」
リヒトは表情一つ変えずに言葉を継いだ。
「愚かにも我らに牙を向ける者たちへの見せしめのためにも──」
一拍の静寂。
「大司教様には、ここで死んでいただかなくてはなりません」
イングリアの顔が凍りついた。血の気が完全に引いていく。
「め、女神様に仕えるこの私を殺せば……お前たちは必ずや灼熱の地獄へ落ちるぞ!!」
それが、かつて権勢を誇った男の口から出た最後の恐喝であった。
リヒトはその言葉を静かに受け止めた。
「……ご安心を」
彼は冷ややかに言い放った。
「我々はすでに、敵も味方も殺しすぎました。……どのみち今更、あるかどうかも分かららぬ天国など望むべくもありませんよ」
その瞬間──イングリアの目には、目の前に立つリヒトの顔が、返り血と業火によって赤黒く染まり上がった悪鬼の姿として映し出されていた。
静寂が戻りかけた夜の霊峰に、絶望に満ちた大司教の最後の絶叫が虚しく響き渡った。