転生貴族リデル・バートンの野望
帝都の中央に鎮座する宮殿の上に、冷たくもどこか柔らかな風が吹き抜けていた。
冬の終わりが近いことを告げる、かすかに湿り気を含んだ風であった。
グランツは胸の前で腕を組み、城壁の縁にたたずみながら、はるか地平線の彼方を見つめていた。
「……リデルの奴には、いつも驚かされる」
ポツリと漏らした言葉は、独り言のようでもあった。
「まさか霊峰を制圧するだけに留まらず、聖母派へ停戦協定という名の巨大な楔を打ち込んでみせるとは」
「……本当にね」
すぐ隣から、静かな同意の声が返ってきた。
レイ・ヴェーデルであった。
風に揺れる髪、彫刻のように整った美貌。冬の淡い光の中に立つその姿は相変わらず美しかったが、その瞳の奥には、隠しきれない暗い鬱屈が滲み出ていた。
「誰の目から見ても、これ以上ないほどの望外の戦果を挙げたというわけだ」
レイは横顔のまま、グランツへと視線を向けた。
「……彼には、どのような褒美を与えるつもりかい? グランツ」
言葉の端々に覗くのは、紛れもない嫉妬であった。
レイ自身、それを懸命に隠そうとしてはいたが、湧き上がる感情を完全に殺しきることはできていなかった。
「そうだな……」
グランツは地平線から目を離さぬまま、淡々と答えた。
「奴にはそのままリヒトと共に、霊峰ならびにその周辺地域の一切を管轄してもらおうと考えている」
「……霊峰方面の、管轄を?」
「ああ。停戦が結ばれたとはいえ、あのアキレス腱にリデルを置くこと自体が聖母派への絶大な牽制となる。それに奴は調略や内政にかけても、紛れもない天才の部類だからな。あの方面を任せるには、最も適任だろう」
レイは一瞬、言葉を失って固まった。
そしてその美麗な顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
うっすらと、痛々しい青ざめた色がその肌を覆った。
──「霊峰方面の管轄」。
それが何を意味するのか、レイには痛いほど理解できたのだ。
霊峰インテグロモンテは、レイの故郷であり領地でもある「ヴェーデル公国」の南端に隣接している。その周辺地域一帯をリデルに一任するというのは──どう取り繕おうと、ヴェーデル公国の実質的な統治権をリデルに引き渡すことと同義であった。
これまでも、政治や軍事の実権はすべてリデルが握っていた。レイはただ、公王という名目上の君主として座していたに過ぎない。
だが、今やその「名目」すらも失われようとしているのだ。
それは事実上、己の国を丸ごと奪われるに等しい処置であった。
レイは息を飲み、グランツの横顔を見つめた。
かつて親友と慕い、自分という人間の存在価値と夢を肯定してくれたと信じていた男。
(……まさか、最初からこれが目的だったというのか?)
冷たい疑念が、急速に脳裏を駆け巡った。
自分が公王の座に就かされたのも、単にヴェーデルを手中に収めるための都合の良い布石に過ぎなかったのではないか──。
暗い疑惑が胸の中で大きく膨らみかけた、その時であった。
ポン、と優しく肩に手が置かれた。
グランツであった。
視線を向けると、グランツは柔らかく微笑んでいた。
人を心から安心させるような、温かな笑みであった。冷徹な打算を感じさせない、素直な表情であった。
「安心してくれ、レイ」
グランツは優しく言った。
「君には、それ以上の大役を任せるつもりでいる」
「……大役?」
レイは力なく言葉を繰り返した。
「そうだ」
グランツは城壁から身を離すと、レイの正面へと向き直った。
「現在、我が軍が帝国本領で手中に収めた膨大な領地は、東西南北の四方に分けて管理させている。西はフランク、南はドン、そして北はバートン侯爵家にそれぞれ任せているのは知っての通りだ」
「……ああ」
「だが──東の領域だけは、まだ管轄者が空いている」
グランツは力強い眼差しで続けた。
「我々が今回の戦役で獲得した中でも、広大で豊かな『東の本領二州』──そこを、すべて君に一任したいと思っている」
レイは言葉を失い、ただグランツを見つめ返した。
その胸の中で、冷えていた感情が激しく揺れ動いていた。
レイは、すぐには答えを返すことができなかった。
胸の内で、相反するいくつもの感情が渦巻いていたからだ。
真っ先に湧き上がってきたのは、甘美な「歓喜」であった。
グランツが自分を必要としてくれている。帝都に留まるグランツのすぐ側で、主要幹部として重用される。それこそが、レイが何より望んでいた形であった。
……だが。
「東の本領二州」──その言葉が、直後に深い「恐れ」を引き起こしていた。
帝国本領においても屈指の広さを誇るその二州は、確かに人口も多く、豊かな財力を誇っている。しかしその反面、古くからの土地の有力者や大商会、職人ギルドといった、蜘蛛の巣のように張り巡らされた根深い既得権益の絡み合う難所でもあった。
そのような複雑極まる土地を、果たして自分一人で統治しきれるのだろうか?
これまでの凄惨な政務や複雑な交渉は、すべてリデルが裏で処置してきたのだ。自分はただ、公王としての名前を貸してきただけに過ぎないというのに。
懸念はそれだけではなかった。
東の本領二州は、あの「ティーガル辺境伯領」と直接境を接しているのだ。
東方諸州の雄と称される名門ティーガル家。現在は北方軍閥マルシアとの熾烈な闘争に忙殺されており、こちらへ矛先を向ける余裕はないとされている。
だが、もしもその戦いが終わり、彼らが帝国本領へと侵攻を開始した場合──真っ正面から受け止める矢面に立つのは、他ならぬ自分自身なのだ。
(私に……そんな大役が務まるのか?)
言いようのない不安が、暗い影となってレイの心を蝕んでいく。
その時、グランツが静かに語りかけてきた。
「大丈夫だよ、レイ」
包み込むような、穏やかな声であった。
「君なら絶対にやれる」
グランツはレイの目をまっすぐに見つめた。
「君の秘めた真の実力を、誰よりも知っている私が言っているんだ。……私を信じてくれ」
その瞳に、一筋の偽りも打算も感じられなかった。
少なくとも──レイの目には、そう映った。
「最初からヴェーデルを奪うために自分に近づいたのではないか」という疑念は、確かに胸の片隅にくすぶり続けていた。
しかし今、目の前で自分を見つめるグランツの瞳は、決して「使い捨ての道具」を見るような冷たいものではなかった。
レイは、その眼差しを信じた。
……いや、「信じたかった」というのが、より正確な真実であったのかもしれない。
だが、レイにとってそれは同じことであった。
「……分かったよ」
レイは意を決し、しっかりと頷いた。
「引き受けるよ、グランツ。君のために」
グランツは深く満足そうに頷いた。
「ありがとう。頼りにしているよ、レイ」
レイはゆっくりと、東の方角へと視線を向けた。
寒々とした冬の空が、果てしなく広がっている。
その遥か先には、これから己が治めるべき広大な本領二州が横たわっているはずであった。
胸の中の不安が消えたわけではない。しかしそれ以上に、熱い高揚感が胸の奥底で灯っていた。
グランツに存在を認められた。これで己の本当の価値を示せる。グランツからの特別な寵愛を、永遠に勝ち取ることができるかもしれない──。
その強い執着が、襲い来る不安を無理やり押し殺していた。
レイは知る由もなかった。
この時に下した選択から僅か数カ月後──己が身も心も焼き尽くされるような、底なしの「地獄」を見る破目になることを。
今この瞬間、グランツの甘言を信じて頷いたことが、どれほど残酷で致命的な重みを持つことになるのかを。
宮殿を吹き抜ける風が、少しずつその強さを増していった。
冬の終わりと、新たな戦いの始まりが──刻一刻と近づいていた。