転生貴族リデル・バートンの野望
雪の降る量が、少しずつ減り始めていた。
降り積もる雪の層は日毎に薄くなり、窓から差し込む朝の光は少しずつその長さを増していく。
季節は確実に、冬から春へと移り変わろうとしていた。
ヴェーデル公国宰相府の執務室は、昼夜を問わず明かりが消えることがなかった。
巨大な机の上には、常に処理を待つ書類が山のように積み上げられている。
リデルはその書類の山の中に埋もれ、連日ペンを走らせていた。
一束の決済を終えれば、すぐさま次の一束が運び込まれてくる。
処理すべき内容は、驚くほど多岐にわたっていた。
対聖母派の軍事的な備え。霊峰インテグロモンテの守備状況の確認と補強。ローデンス第一皇子と結んだ「一年間の停戦協定」を維持するための外交連絡の管理。
ヴェーデル国内における内政。税制の再編、傷んだ街道の修繕、冬の間に滞っていた農地管理への対処。
グランツの指示によって全権を担うことになったローズヴェル公国の行政。
そして、復興を進める帝都の総括──水道網の修繕状況、食料配給計画の策定、治安回復のための施策の進捗。
実態を言えば、リデルは今や「霊峰方面軍総司令官」「ヴェーデル公国宰相」「ローズヴェル公王代理」「帝都総督」という四つの重職を、わずか一人で掛け持ちしてこなしているのと変わらなかった。
だが、彼自身これが避けられない負担であることを深く理解していた。
ローズヴェル、ヴェーデル、そして帝都の三地域は、グランツ陣営の覇権を支える極めて重要な後方補給拠点である。戦争の勝敗を最終的に決するのは「物量と物流」であるという確信を、リデルは抱いていた。その物量を確実に確保し、維持し、戦場へと届けるための仕組みを作れる人間が、他に存在しなかったのだ。
だからこそグランツは、リデルに対して一家臣としては、法外な権限と人事権を与えた。
そしてその試みは、今のところ見事に機能していた。
リデルが短期間で組み上げた、三地域を横断する巨大かつ緻密な官僚機構は、効率的に稼働していた。軍需物資の調達量は着実に増加し、春の大規模な戦役──ラングレー公始めとする北の本領貴族討滅に向けた準備は予定通り進んでいた。
──ただしその代償として、リデルの睡眠時間は極限まで削られ続けていたのだが。
そんな折、アリシアが姿を現した。彼女は霊峰での攻防戦以降、そのままリデル直属の諜報部門を担っていた。
着慣れた修道女の装束に身を包んでいたが、その表情は普段の静穏なものとは明らかに異なっていた。
「……リデル様」
「何だ?」
「急いでお伝えしなければならない……極めて重大な事案がございます」
リデルは走らせていたペンを止め、顔を上げた。
アリシアがこのように焦燥を覗かせて報告を持ち込んでくることなど、滅多にあることではなかった。彼女のもたらす情報は常に精度が高く、取り乱した形で報告されることなどこれまで一度たりともなかったのだ。
「……座れ」
「はい」
リデルの頭脳は、日々処理する課題で飽和しかけていた。しかし、アリシアの報告を聞いたリデルは徐々に目の色を変え、すぐさま傍らに控えていた側近のコールへ鋭く命じた。
「……コール、至急リヒトとジャックを呼べ。大至急だ」
二人が執務室へと駆け込んできたのは、それから半日ほど後のことであった。
まず先頭を切って入ってきたのはリヒトであった。
「ただ今到着いたしました」
リヒトは深く一礼した。隙のない、洗練された所作であった。
そのすぐ後ろから、ジャックが続いて入ってくる。
「おいおい、今日は俺の貴重な休日だったんだがなぁ……」
ジャックは肩をすくめ、羽織っていた厚手の外套を脱ぎながらぼやいてみせた。
「頼むから勘弁してくれよ、まったく」
「急に呼び立ててすまない」
リデルは二人に向き直り、低い声で言った。
「だが……どうしても、お前たち二人の意見を聞いておかなければならない事態が起きた」
その声に含まれる緊迫感は、普段の冷静なリデルのそれとは一線を画していた。
ジャックは浮かべていた軽薄な表情を一瞬で消し去り、リヒトはすでに姿勢を正して直立していた。
リデルが目で静かに合図を送る。
アリシアが、一歩前へ進み出た。
「……ベルノープルに潜入させている、私の協力者からの情報です」
アリシアの声は静かであったが、重々しかった。
「先週、大規模なティーガル辺境伯の特使団が大聖堂を訪問いたしました。使節団は、教皇ゲオルクス本人と直接面会を果たしております」
「ティーガル辺境伯と聖母派なんざ、昔から友好関係だったろ?」
ジャックが胸の前で腕を組み、怪訝そうに口を挟んだ。
「特使の訪問くらい、別に珍しい話でもねえんじゃねえか?」
「ええ。確かに……そこまでであれば、単なる形式的な親善訪問として理解できます」
アリシアは頷いた。
「問題は──その訪問の返礼として、今度は教皇ゲオルクス『自ら』がティーガル辺境伯領を親善訪問すると公言した点にあります」
執務室内の空気が、ぴんと張り詰めた。
「それが額面通りの親善訪問である可能性もゼロではない」
リデルが言葉を引き継いだ。
「だが……教皇ゲオルクスほどの大物がわざわざ自ら現地に出向くなど、あまりにも違和感が大きすぎる」
「……」
「教皇自らが動かねば成し得ない『別の目的』があると見て間違いない。たとえば──」
一拍の沈黙。
「──ティーガル辺境伯と、北方軍閥のマルシア殿下との『停戦協定の仲介』とかな」
部屋の空気が完全に凍りついた。
その可能性が現実となった場合、何が起きるか──その意味を、場にいる全員が瞬時に理解したからである。
マルシア皇女率いる北方軍閥と、三年以上にわたって互角の死闘を繰り広げ続けているティーガル辺境伯軍。もしその凄まじい軍勢が北方での戦いから解放されれば──今度はその矛先が、全軍挙げてグランツ陣営へと向けられることになるのだ。
「リヒト」
リデルは視線をリヒトへと向けた。
「君はどう思う? 辺境伯領や、その現当主について、何か知っているか?」
リヒトはしばし間を置いた。
「……地理的に近いこともあり、第二皇子親衛隊には辺境伯領の出身者が数多く在籍しておりました」
「彼らは何か話していたか?」
「いいえ」
リヒトの答えは、静かだがきっぱりとしていた。
「彼らは揃いも揃って……故郷のことについては一切喋りませんでした。ただの一言も、です」
「……」
「しかし戦場に臨めば、誰よりも前に出て戦いました。狂人的に戦い……死というものを、まったく恐れていないようでした。あそこまで死を恐れない兵士を、私は他に見たことがありません」
リヒトは重々しく言葉を継いだ。
「彼らが本当に敵に回るのであれば、これ以上厄介な相手はないでしょう」
リデルは次に、ジャックへと視線を移した。
「……ジャック、お前はどうだ? 確かお前は昔、辺境伯領方面の出身だと口にしていたことがあったが」
ジャックは即座には答えなかった。
一瞬の沈黙──しかし間違いなく、彼は言葉を詰まらせていた。
いつもの軽薄な表情が綺麗に消え去り、その顔には冷酷なまでの真剣さが宿っていた。
「……リデル」
やがて、ジャックが口を開いた。
「……たぶん、お前のその勘は当たってるぜ」
「……そうか」
「それとな」
ジャックはリデルの目を、まっすぐに見つめ返した。
「情報の真偽を確かめる前に……すぐグランツ様に報告し、対策すべきだ」
「どういう意味だ?」
「あの人に関する情報が出回ってるってことは……既に『二手三手先』を打たれてるってことだ」
ジャックは一拍を置いた。
「……親っさん……いや、ギリアス・ティーガルはそういう男なんだ」
その名前が口にされた瞬間、ジャックの瞳の奥を何かがかすめて通り過ぎた。
そんなジャックの姿を、リデルはこれまで一度も見見たことがなかった。