転生貴族リデル・バートンの野望
東方辺境伯の歴史は、今から二百年前に遡る。
当時の第七代ベルドルナ皇帝は、その生涯の大半を費やして「東方蛮領」と呼ばれる広大な未開地域の平定に挑み続けた。無数の強靭な氏族が割拠し、帝国への服属を拒み続けてきたその地は、歴代の皇帝たちが軒並み匙を投げてきた歴史的難題であった。
しかし、第七代皇帝は自らの生涯を賭して、ついにその地を完全征服してみせた。
蛮領の有力氏族たちを再編して「東方諸州」と改称し、その統治の要として新たに設置された役職──それこそが「東方辺境伯」であった。
初代辺境伯ジルド・ベルドルナは、当時の皇帝の実弟であった。彼の東方征服における軍功は帝国史の中でも突出したものとされ、その破格の恩賞として、帝国本領に匹敵する広大な領土の行政権が与えられた。
それだけにとどまらない。
本家ベルドルナ家の血脈に万が一の断絶が生じた際、辺境伯家の皇子を継嗣として戴く「副帝家」としての至高の地位すらも約束されたのだ。
名実ともに、連合帝国における第二の巨大勢力であった。
やがて、三代目の辺境伯の時代に一つの重大な決断がなされた。
現地住民との融合を深めてその歓心を勝ち取るため、古代この地に存在したと伝わる伝説的戦闘民族の名を、家名の姓として採用したのだ。
その名は──「ティーガル」。
以降、辺境伯家は「ティーガル辺境伯家」と称されることとなる。
帝国本領で大規模な動乱が発生するたび、ティーガル辺境伯軍は直ちに駆けつけた。
精強無比な東方の兵たちが、常に帝国軍の最前線を担い続けた。
中でも「戦士団」と呼ばれる強力な戦闘スキルを継承する強者たちの集団が、その中核に存在していた。彼らは敵を打ち砕き、幾度となく帝国の危機を救い、帝国の秩序を守り続けてきたのだ。
連合帝国五百年の歴史において、ティーガル辺境伯軍はまさに帝国の不可欠な支柱であった。
……だが、歴史は残酷なまでに流転する。
代を重ねるにつれ、かつての威光を誇った辺境伯家も徐々に衰退の一途をたどった。元より独立志向の強かった東方の有力氏族たちは、次第に反発と不満を強めていく。
辺境伯家の権威が揺らぐにつれ、比例するように帝国全土でも激しい騒乱が増加していった。その明確な相関関係こそが、帝国の衰退を冷酷に物語っていた。
そして五年前──決定的な大事件が勃発する。
ティーガル辺境伯の過酷な統治に怒りを爆発させた数百人の暴徒が、首都の城郭へと突入したのだ。
城内にいた重臣たちが次々と惨殺された。
ティーガル一族の多くの者たちが血の海に沈んだ。
そして、当時の辺境伯までもが惨死を遂げた。
首都エルドラの名を冠し、後に『エルドラ事件』と語り継がれるその凄惨な劇薬は、ティーガル辺境伯による長年の統治が完全に崩壊したことを意味していた。
帝国政府は、東方地域の決定的な不安定化を極度に恐れた。
そして──軍事力による徹底的な武力鎮定を決意。
皇子ローデンス率いる十万の大軍が、怒涛の勢いで東方へと殺到した。
しかし、東方諸州の民もまた、黙って惨めな屈辱の歴史を繰り返すつもりなど毛頭なかった。
この絶望的な苦境を跳ね返すべく、一人の男が諸州の絶対的な「盟主」として推戴された。
かつてのティーガル家に仕える、一介の陪臣に過ぎない男であった。しかしその男は、類稀なる天才的な軍略と、人々を魅了する圧倒的なカリスマ性を備えており、それを見抜いた先代辺境伯によって娘を与えられ、義理の息子となっていた。
だが先代辺境伯が死ぬと、その恐るべき才能を危ぶんだ義理の兄であり新辺境伯によって、長年幽閉・軟禁されていた人物であったのだ。
エルドラ事件によって現辺境伯体制が破滅したその瞬間、男は牢獄から解き放たれた。
そしてその男は、押し寄せる帝国軍十万に対し、東方諸州の寄せ集めであるわずか三万の兵で立ち向かった。
──『パルデラ大会戦』。
結果は、歴史に残る大勝利であった。
ローデンス率いる十万の正規軍が、わずか三万の東方軍によって完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
この歴史的大勝によって、男は東方における絶対的な地位を確立した。そして、かつての侵略者たるベルドルナ帝国に対し、決定的な不倶戴天の打撃を打ち込んだのである。
男は自ら「ティーガル」の名を正式に襲名した。
東方の威信を、五百年ぶりに現地住民の手へと奪い返したのだ。
ここに、東方諸州における新たなる絶対的支配者が誕生した。
──ギリアス・ティーガル。
後に「東方の覇者」として全土にその名を轟かせることになる男の名が、歴史に刻まれた瞬間であった。
───
首都エルドラは、凄まじい熱気に包まれていた。
街の至る所から、怒号と荒々しい歓声が混じり合った喧噪が響き渡っている。
酒場の重厚な扉は真昼から豪快に開け放たれ、娼館の前には昼間から男たちが長蛇の列をなしていた。
路地の角では、上半身裸の男二人が激しい取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている。
周囲の群衆が二重三重の輪を作り、それを囃し立てていた。止めに入ろうとする者などおらず、大半が酒杯を掲げて興奮気味に声を張り上げている。傍らに立っていた警備の衛兵らしき男すら、取り締まるどころか賭け金を手に握り締め、拳を突き上げて叫んでいた。
……信じがたいことに、かつてのエルドラは全く異なる顔を持つ都市であった。
かつては帝国本領式の都市計画に基づいて整備された、極めて整然とした美しい街並みを誇っていたのだ。
碁盤目状に区画された綺麗な街道、統一された建築様式、常に清潔に保たれていた中央広場。
当時は「東のミッテル」と称えられたほどの名都であった。
だが今や、当時の面影などどこにも残っていなかった。
しかし──それを嘆く者など、この街には誰一人として存在しなかった。
荒くれ者の兵士たちはもちろん、一見すれば住みづらくなったはずの老人も、若い子女たちまでもが、揃って口を揃えてこう断言するのだ。
「昔の綺麗な街より、今の方が遥かに生きやすい」と。
整然とした街並みを誇っていたかつての時代、この街の内部には腐敗した別の問題が蔓延っていた。
特権階級たる貴族や大商人たちが、複雑怪奇に絡み合った法律を巧みに悪用し、自分たちだけに都合の良い暴挙を繰り返していたのだ。身勝手な搾取、人道に反する非道な行為──それらが「法」という盾のもとで裁かれることもなく、表向き清潔な街の裏側で日常的に横行していたのである。
しかし、現在のギリアスが掲げる法律は全く異なっていた。
『騙すな』
『奪うな』
『殺すな』
──法は、たったのこれだけであった。
複雑な解釈や抜け道の余地など一切ない。いかなる立場であれ、誰に対しても完全に等しく適用される絶対の掟。
虐げられてきた民草にとって、この極めてシンプルな法は圧倒的な支持をもって受け入れられ、極めて有効に機能していたのである。
当然ながら──その極端にシンプルな三つの法を、例外なく全員に力づくで守らせるだけの圧倒的な武力と威厳を、この街の主が保持しているという前提があってのことではあったが。
───
ティーガル辺境伯邸の一室。
重厚な調度品が並ぶ応接間であった。
小さなテーブルを挟み、三つの席が用意されている。
部屋には、すでに先客が足を踏み入れていた。
中央の席に、一人の老人が腰掛けていた。
「ふんぞり返る」という表現がこれ以上なく合致する、豪快な座り方であった。椅子の背もたれに深く体を預け、片腕を肘掛けにどかと乗せ、もう片方の手には太い葉巻を挟んでいる。
教皇ゲオルクスであった。
ガチャリと音を立て、部屋の重厚な扉が開いた。
一人の男が静かに入ってきた。
全体的に無駄のない、スマートな身なりであった。纏っている服は仕立てこそ質素であったが、その引き締まった体に完璧に仕立てられている。
その顔を見た瞬間、言葉よりも先に強烈な「圧」が襲いかかってきた。
──眼光が、あまりにも鋭い。
「ティーガル」の名に違わぬ、眼鏡越しでも獲物を射抜くような猛烈な目であった。見事に行き届いた髭が、その眼光の鋭さをさらに際立たせている。
しかし、その瞳の奥底を注意深く見つめると、受ける印象はかすかに変化した。
硬質の冷徹さの中に、どこか底知れぬ柔軟さと温かみが潜んでいるのだ。この男の根底にある人間性が、瞳の奥に静かに滲み出ていた。
「待たせてしまって失礼したな、教皇猊下」
男が静かに口を開いた。
声は、その外見から想像される通りのものであった。低く、地に足のついた落ち着きがある。そしてその声の輪郭には、確かな温もりが宿っていた。
「……気にしなさんな」
ゲオルクスは挟んだ葉巻を指先で軽やかに弄びながら、ニヤリと笑った。
「押し掛けたのは、元よりコッチのほうやからな」
一拍の沈黙。
「──ギリアス・ティーガル辺境伯」
ギリアスはゲオルクスの正面へとゆっくり歩み寄る。
二人の怪物の視線が、鋭く交わった。