未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
工房仕事が一区切りした夜、エナが「今日は全員ちゃんと休むこと」と言い渡した。
エルデ村の共同浴場は、石造りの湯船を中央の壁で男女に分けただけの素朴な造りだ。山から引いた水を薪で温めるため、夜になると屋根の上へ白い湯気が立つ。豪華な設備はないが、幼い頃から何度も浸かった湯の匂いには、旅先の宿では得られない安心感があった。
レイルは男湯の縁へ背を預け、肩まで湯へ沈んだ。
温かな湯が右肩の古い炎症跡へ染み込む。旅を始めた頃より肩幅も広くなり、腕にも薄く筋肉がついた。それでも、白環施設で無理を重ねた跡や、戦闘で刻まれた細かな傷までは消えていない。左前腕には淡い治療痕が残り、指を開閉すると、奥の方へわずかな張りを感じる。
向かいにはアルドがいた。鍛えた肩と胸には、盾の縁で擦った跡や、魔物の爪を防いだ時の細い傷がいくつも残っている。本人はそれを気にする様子もなく、頭へ手拭いを載せて湯へ浸かっていた。
少し離れた場所には父・バルドがいる。
彼は息子が長い旅から帰ってきたからといって、何か特別な話をしようとはしない。腕を湯船の縁へ置き、いつものぶっきらぼうな顔で湯気の向こうを黙って眺めている。その無理に距離を詰めてこないところは、昔から変わらなかった。
「傷、増えたよな」
アルドがレイルの肩を見て言った。
「お互いにだ」
「無事、帰ってきた証拠でもある」
「その考え方、ちょっと危険じゃない? 傷は受けないほうがいいんだけど」
「傷を増やせと言ったわけじゃないが」
「ならいいけどさ」
その横で、バルドが鼻から短く息を漏らした。
「……何だよ、父さん?」
レイルが振り向く。
「いや。お前が人に無茶するなと言うようになったと思ってな」
「俺、昔から言ってるよ?」
「自分に適用しない規則は、規則とは呼ばん」
「それは――」
言い返しかけたところで、アルドまで深く頷いた。
「今のは親父さんが正しい」
「アルドまでそっち側なの?」
「俺も人のことは言えないが、お前よりはましだと思ってる」
「ここには、味方がいない」
バルドが今度こそ小さく笑った。
昔なら、それだけで少しむっとしたかもしれない。今は、不思議と腹が立たなかった。
旅先では何度も、自分より年上の人間と肩を並べた。王や研究者、冒険者、職人とも話した。それでも父親の前へ戻ると、自分の中にまだ「息子」の部分が残っていることを思い知らされる。
レイルは肩まで湯へ沈み直した。
「なあアルドさ」
「何だ」
「ノアとフィアのこと、どう思ってるんだ?」
アルドはすぐには答えなかった。
天井から落ちた水滴が、ちゃぷん、と湯面を揺らす。
「大事だ」
「どっちが?」
「両方」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
アルドは頭の手拭いを取り、湯船の縁へ置いた。
「でも、今はそれ以上うまく言えない。片方がいなければいいとは思わないし、どっちかだけ無事ならそれでいいとも思えない。ノアが無茶すれば止めたいし、フィアが一人で抱え込んでたら気になる。二人が帰ってこなかったら嫌だ。だから……たぶん、俺の中じゃもう、普通の仲間ってだけじゃないんだと思う」
そこまで真っ直ぐ言われ、今度はレイルが黙る番だった。
「お前……俺より進んでるかもしれない」
「何が?」
「いや、何でもない――」
横から、また低い笑い声が聞こえた。
レイルは父を見る。
「父さん!」
「何だ」
「今、笑っただろっ」
「笑ってない」
「絶対笑ってたよ」
バルドは知らん顔で湯へ肩を沈める。
そこでレイルは、ふと思った。
自分のことばかり言われるのも少し癪だった。
「じゃあ父さんはどうなのさ?」
「何がだ?」
「母さんと、どうやって一緒になったの?」
バルドの動きが止まった。
ほんの一瞬だったが、はっきり止まった。
アルドが興味深そうに顔を上げる。
「ほう、それは俺も聞いてみたいな」
「アルド、乗らなくていい」
「いや。親父さん、そういう話しなさそうだから、余計気になります」
「しないぞ」
バルドが即答した。
「なんでだよ」
「話す必要がない」
「今まで聞いたことないんだよ。母さんに聞いても『お父さんに聞きなさい』って笑うだけだし」
「なら聞くな」
「余計気になってきた!」
レイルが身を乗り出すと、バルドは露骨に面倒そうな顔をした。
「父さんから告白した?」
「違う」
「母さんから?」
「……」
「その沈黙は何なのさ」
「う、うるさい」
「もしかして父さん、気持ちに全然気づかなかったんじゃないの?」
「レイル」
バルドの声が一段低くなった。
だが、ここまで来たら引くのも惜しい。
「まず、どこで知り合ったの?」
「村だ」
「それは知ってるって。最初に二人で出かけたのは?」
「覚えてない」
「うそだね、絶対覚えてる顔してる」
「お前はさっきから――」
バルドが眉間を押さえた。
アルドは口元を隠している。明らかに笑いを堪えていた。
「……俺が若い頃、村の屋根や荷車を直す仕事を手伝ってた」
息子の追及に、とうとう根負けしたらしい。
レイルが目を丸くする。
「と、父さんが話した!」
「黙って聞け。もうやめてもいいんだぞ」
「いや聞く」
バルドは深く息を吐いた。
「あれはな――暑い時期だった。毎日大変な外仕事でな。エナが水を持ってきたんだ」
「母さんが?」
「そうだ」
「それで?」
「次の日も来た」
「うん」
「そしてその次の日も来た」
「……うん」
「飯も持ってきた」
「うん」
「破れた手袋を渡したら、翌日には縫って返してきた」
「うん」
「で、以上だ」
「待って待って待って」
レイルは思わず湯船を叩いた。
ぱしゃ、と湯が跳ねる。
「それでどうやって結婚まで行くのさ!?」
「知らん」
「父さん、当事者だろ!」
「気づいたらそうなってた」
「そんなわけない!」
アルドがとうとう耐えきれず、声を上げて笑った。
「親父さん、それ、たぶんずっと好意向けられてたんじゃないか?」
「後からエナにもそう言われたな」
「後から!?」
レイルは頭を抱えた。
「父さん、俺よりひどくない?」
「何がだ」
「毎日水持ってきて、飯まで作って、手袋まで縫ってくれてるのに何も分からなかったの?」
「すごく親切な奴だと思ってた」
「母さんがかわいそうだ!」
バルドの眉間に深い皺が寄る。
「最後はどうなったの?」
「……」
「ねえ父さん」
「エナに言われたんだ」
「何て?」
バルドはしばらく黙っていた。
耳がわずかに赤く見えるのは、湯のせいだけではない気がした。
「『ここまでして分からないなら、私から言います』と」
「それは母さん強いな……」
「それで?」
「それだけだ」
「その後、父さんは何て答えたの?」
ごつんっ。
「あ痛っ」
頭へ軽い拳が落ちた。
もちろん本気ではない。子供の頃、余計なことを言った時に落とされたのと同じ、重さだけ伝えるようなゲンコツだった。不器用な男の精一杯の反抗だった。
「うるさいぞ。お前は自分のことだけ心配してろ」
「今の絶対照れ隠しだろ!!」
「もう一発いるか?」
「いらない!」
レイルが頭を押さえる横で、アルドが肩を震わせている。
「笑うな、アルド」
「悪い。でも……ちょっと安心した」
「何が?」
「こういうの、親子って感じがするからな、俺も長く家には帰っていないから懐かしくてな」
レイルは一瞬だけ言葉を失った。
バルドも何も言わなかった。
湯気の向こうで、父の横顔が少しだけ柔らかく見えた。
そのまま少し静かな時間が流れた。
「父さん」
今度はレイルも声を落とした。
「母さん、前からあんなに疲れやすかったかな?」
バルドの表情から、さっきまでの照れが消えた。
「……少し前からだ」
「どれくらい?」
「旅から帰ってくる少し前には、前より休むことが増えてた。だが本人が大丈夫だと言うから、俺も強くは言わなかった」
レイルは湯の中で指を握る。
「次からは言って」
「お前は言われて聞くのか?」
「それは……」
答えに詰まった。
「エナも同じだ。自分が我慢すれば済むと思うところがある」
バルドは息子を見た。
「だから、お前一人で何とかしようとするな。俺もいる。医者もいる。エナ本人もいる。お前の魔法だけで決める話じゃないぞ」
「……うん」
「返事だけは昔からいいな、お前は」
「父さんにだけは言われたくない」
また軽く拳が上がる。
「ちょ、今度は何!?」
「口の利き方だ」
「さすがに理不尽だって!俺もう16だよ!?」
アルドの笑い声が浴場へ響いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
女湯では、別の意味で湯気が濃かった。
リィナは赤栗色の髪を頭の上でまとめ、肩まで湯へ沈めていた。剣術で鍛えられた体は、ただ細いわけではない。しなやかに引き締まった腕と脚に、湯の熱で血の色がにじむ。肩から胸へのラインは小さすぎず、女性らしい丸みをしっかり保ちながら、動けば浮き出る筋肉の線が健康的な艶を帯びていた。
湯に浸かった腰回りも、鍛えられた芯の強さと、柔らかな曲線が同居している。傷はいくつか増えていたが、それすらも今の彼女の立ち姿の芯の強さを際立たせていた。
対してセレネは淡い金髪を濡らさないよう高くまとめ、細い肩まで湯へ沈めていた。青紫の瞳も今は眼鏡越しではないため、普段より表情が近く見える。細身ですらりとした体つきは大きく変わらない。運動を主としないため、肌は柔らかく、湯に浮かぶ鎖骨から肩への線は繊細で、知的な印象を損なわないまま、しっとりとした色気を漂わせていた。
胸元はリィナに比べるとやや控えめだが、湯の揺らぎに合わせてわずかに動くそのラインは、かえって静かな魅力を強調していた。長旅を越えてきたせいか、背筋には学院にいた頃以上の落ち着きがあり、その穏やかなプロポーション全体が、湯気の中でより艶やかに見えた。
ノアは赤縁眼鏡を外しているため、普段よりさらに若く見える。小柄な体は湯に沈んでも、1世紀を生きた半吸血種らしいどこか魔性の余韻を残していた。華奢に見える肩や腕の内側に、意外な柔らかな丸みがあり、湯に浸かった腰から腿へのラインは、小柄さを感じさせないほど滑らかで、視線を誘う曲線を描いている。
長く生きていることを知らなければ、少し年上の女性にしか見えない——その印象は、湯上がりの湿った肌と相まって、さらに強くなっていた。
フィアは湯船の端へ背を預け、髪をまとめていた。三人に比べて明らかに小さく、湯に沈めても胸元はほとんど平面に近い。記録板を脱衣場へ置いてきたことが落ち着かないのか、ときどき何かを書こうとして空中で指が止まる。
「もう少し温度上げましょうか?」
ノアが言った。声には、どこか試すような甘さがある。
「やめてください」
フィアが即答する。
「なぜです?」
「生活魔法の温度調整、前回失敗を記録しています」
「今回は改善しています」
「実証なし」
「では実証を」
「浴場で試験しないでください?」
ノアの目がわずかに細くなる。却下された瞬間、唇の端が愉しげに上がった。
「その却下、非常に明快ですね。もう少し厳しく――もっと。ハァハァ」
「喜ばないでください」
リィナが吹き出した。
「ノアって、本当にそういうの好きなんだね」
「誤解です。論理的に鋭い批判を好んでいるだけです」
セレネが淡々と返す。
「一般には、それをかなり特殊な好みと呼ぶ可能性がありますが」
「セレネまで!?」
ノアが抗議すると、今度はフィアまで小さく口元を緩めた。支配される側の刺激を喜ぶノアの性質は、湯気の中でも隠せていない。
しばらく笑いが続いた後、フィアの視線が、湯に浮かぶ三人の体へゆっくりと移った。
「しかし……不公平です」
小さく呟いた声が、湯気の中に溶けた。
「何がよ?」
リィナが振り返る。
「体格です。三人とも、私より明らかに大きいじゃないですか。胸の……差分も、計測可能な範囲を超えています」
セレネが眼鏡のない瞳を細めた。
「フィア。今、何を比較していますか?」
「視覚情報です。記録板がないのが、非常に悔しい。数値化できれば、せめて『洗濯板との差分』として正式に残せたのに」
ノアが口元を押さえ、肩を震わせた。瞳の奥に、愉しむ色が浮かぶ。
「洗濯板、と明言しましたね。かなり直接的な自己評価です」
「事実です。私の場合、湯に沈めてもほとんど変化がありません。リィナの筋肉の上に乗っている豊かな丸みも、セレネの控えめながらも存在する起伏も、ノアの小柄な体に収まっているあの驚異的なラインも——全部、私にはありません、うう」
フィアは湯面を見つめたまま、真顔で続けた。
「記録できないのが、本当に悔しいです。せめて『三人の平均値とフィアの差分』として残しておけば、後で分析できたのに」
リィナが吹き出した。
「何その残念そうな顔。記録したところでどうするのよ」
「統計です。遠征後の体組成変化を追跡する際、基準値が必要になります」
「そんな基準値、いらないでしょう」
セレネが淡々と指摘した。
「フィア。自分の体を『洗濯板』と公言するのは、自己評価としてやや厳しすぎます」
「事実確認です。湯の中で三人と並ぶと、視覚的に明白です」
ノアが面白そうに首を傾げた。声のトーンが、わずかに甘い。
「では、記録板を持ってきて再計測しますか? 浴場での実証実験として。私が指示を出してもいいですよ。『もっと強く掴んで』『角度を変えて』——そうした命令、好きでしょう?」
「拒否します。脱衣場に置いてきたのは正解でした。数字にすると、さらに悔しくなります。――それに、それが好きなのはノアのほうでしょう? はあ......」
フィアは小さくため息をついた。
リィナが湯をかき混ぜながら、ふっと口元を緩めた。
「まあ、まだ成長期なんだから。これから変わるかもしれないし」
「成長期……」
フィアがぼそりと繰り返す。
「そうですよ。筋肉は鍛えればつくけど、こっちは待つしかない部分もあるし」
セレネも静かに頷いた。
「個人差は大きいです。現時点での比較は、統計的に意味が薄いと判断します」
ノアがくすっと笑った。その笑みには、支配する側の余裕と、被虐的な期待が混じっている。
「そうですね。フィアの場合、まだ『これから』の可能性が残っています。……ただし、可能性を指摘されるたびに悔しがる顔も、悪くありません」
その言葉が、かえって彼女のスイッチを押したらしい。フィアの瞳が、ゆっくりと三人の胸元へ移った。
「……可能性、ですか」
次の瞬間、彼女は湯を蹴って前へ出た。
小さな手が、まずリィナの胸へ伸びる。
「ひゃっ!?」
リィナが思わず声を上げる。フィアの指が、湯に濡れた柔らかな膨らみを、遠慮なくわしづかみにした。
「筋肉の上に、ちゃんとあります。弾力も、体積も、私とは比較になりません!」
「ちょっ、フィア!? いきなり何して——」
次にセレネへ。細くすらりとした体の、控えめながらも確かな丸みを、両手で包み込むように掴む。
「セレネのも、控えめと言いつつ、ちゃんと存在しています。肌の柔らかさと一緒に、形が残っています」
「フィア。突然の接触は——っ」
セレネの声が、珍しく少し上ずり、頭の上に光球がいくつも明滅する。
最後にノア。小柄な体に収まった、魔性を感じさせるふくらみを、しっかりと握る。
「ノアは小柄なのに、なぜかここだけ……悔しいです!」
ノアは抵抗しなかった。むしろ、掴まれた瞬間に瞳を細め、吐息に近い声を漏らした。
「……ふふ。直接的な計測、ですね。力の入れ方、もう少し強くても構いませんよ」
「はああ?」
「掴むなら、きちんと。表面だけなぞるのは、中途半端です。私は中途半端が嫌いなのです、さあフィアよ、もっと強くしなさい!」
フィアが戸惑ったように指に力を込めると、ノアは小さく肩を震わせた。快楽と被虐が混じったような、満足げな吐息。
「……いい感触です。フィアの悔しさが、手を通じて伝わってきます。悔しいなら、もっと雑に扱っても構いません。私は、そうした扱いも嫌いではありませんから」
「ノア、それ……」
リィナが呆れた声を上げる。
「また始まった。ノアって、本当にそういうの好きなんだから」
「誤解です。私は論理的に鋭い刺激を好んでいるだけです。支配される側の刺激も、与える側の刺激も——どちらも、同等に価値があると判断しています」
セレネが、掴まれたまま冷静に指摘した。
「ノア。今の発言は、ドSとドMの両方を同時に肯定しています」
「否定しません。事実ですから」
ノアはフィアの手を、自分の胸に押し当てたまま、ゆっくりと目を細めた。
「フィア。記録できない悔しさで私を掴むなら、もっと責任を持ってください。中途半端に離すのは、許しません」
「……許可を取る立場ではありません」
「では、命令に従う立場ですか? それとも、私を従わせる立場ですか?」
ノアの声が、甘く、しかし明確に落ちる。
フィアは一瞬、固まった。
「……どちらでも、悔しいです」
それでも手を離さず、むしろ強く握りしめた。
ノアは満足そうに息を吐き、リィナとセレネへ視線を向ける。
「見ていてください。フィアの『悔しさ』は、とても正直です。この正直さを、もっと引き出してあげたくなりますね」
「ノア、やめて。煽るなって!」
リィナが顔を赤くして止める。
フィアは三人の胸から手を離すと、湯船の端へ戻って深く沈んだ。耳まで赤い。
「……終わったら、忘れます。記録には残しません」
「ぜええええええったいに残すなよ!」
ぱしゃっ。リィナが湯をかけて抗議する。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
笑いが落ち着いた頃、リィナが湯の表面を指でなぞった。
「でさ、レイルってさ、結婚してもお風呂のお湯、毎回測りそうじゃない?」
セレネが自然に答える。
「外気温、湯量、入浴人数まで記録するでしょうね。季節別の適温表も作ると思います」
「あいつ、やりそう……」
「ええ」
二人とも想像した。
夜の家。レイルが真面目な顔で湯温を測り、リィナが先に入ろうとして止められ、セレネが横から数値を訂正する光景。それが妙に鮮明だった。
はっとリィナが先に気づく。
「……ねえ」
「何です?」
「今、誰と結婚した時の話してた?」
セレネの青紫の瞳が止まる。
「リィナこそ!」
「私は先に聞いただけじゃん!」
「質問順に優先権はありません」
二人の頬が同じくらい赤くなった。
湯のせいだけではない。
ノアが面白そうに首を傾げる。瞳には、すでに次の獲物を探す光がある。
「そんなもの、本人へ確認すれば早いでしょう」
フィアがすぐ向き直る。
「ではノアもアルドへ確認してくださいね」
「何をです?」
「『二人ともいないと嫌だ』の意味」
ノアが固まった。
「ふう……湯温が下がりましたね」
「現実逃避を確認、あとで記録します」
「なら、私の生活魔法を使います」
「あなた、失敗するのでやめてください」
「そこまで断言されると少し――いややっぱりもっと言ってほしいです」
「喜ばないでください」
リィナとセレネが今度こそ声を上げて笑った。ノアは湯に肩まで沈み、わずかに頰を赤らめたまま、唇の端だけを愉しげに上げていた。却下されることも、追い詰めることも、どちらも彼女にとっては上等な刺激らしい。困ったものだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
湯上がりの廊下で、レイルは女性陣と鉢合わせた。
先頭のリィナは、濡れた赤栗色の髪を肩へ下ろし、薄手の部屋着の上から一枚布を羽織っている。いつもは剣帯を締め、動きやすさだけを優先しているため、柔らかな服装へ変わっただけでも妙に印象が違った。
セレネも淡い金髪を下ろしていた。細縁眼鏡は掛け直しているが、湯上がりのため頬が薄く赤い。普段きっちり整えている髪が肩へ流れているだけで、学院や戦場で見る姿よりいくらか幼く見える。
レイルの視線が、一瞬だけ止まった。
リィナがすぐに気づく。
「何?」
「……髪、長くなったなと思って」
「今さら?」
「いつも結んでるからさ」
リィナの耳がじわりと赤くなる。
「そ、そうだけど……」
横でセレネが小さく咳払いした。
「私の髪も、以前より伸びています」
「うん。セレネも」
「……そうですか」
それだけだった。
それだけなのに、セレネの肩近くへ小さな光球が一つ浮いた。
レイルの肩へ黒銀色の猫型ニアが飛び乗る。
『恋愛反応、二方向同時検出――』
「またお前は。記録しなくていい」
『まだ表示シカ――』
「表示もしなくていい」
『承知シマシタにゃ……』
猫耳が露骨にしゅんと垂れた。
その向こうではノアとフィアがアルドを見つけていた。
アルドが軽く手を上げる。
「風呂、長かったな」
「女性の入浴時間へ意見がありますか?」
ノアがにっこり笑う。
「ない」
「賢明です」
フィアが頷いた。
「危険回避を確認」
「なんで風呂上がりに危険判定されるんだ?」
アルドが困ったように笑うと、ノアは一瞬だけ視線を逸らした。
先ほどまで湯船で追及されていた内容を思い出したらしい。
フィアはそれを見逃さない。
「ノア。確認しますか?」
「しません」
「ん、何をだ?」
アルドだけが分かっていない。
「何でもありませんって!」
ノアの返事が妙に早かった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜、エナの家は客が多すぎた。
部屋割りの結果、レイル、リィナ、セレネが同じ部屋で休むことになった。
寝具は三組。
中央がレイル、右がリィナ、左がセレネ。互いの寝具には十分な間隔がある。それでも、灯りを消す前から三人とも妙に落ち着かなかった。
黒銀猫のニアだけが何も気にせず、レイルの腹の上へ丸くなる。
「ね、寝返りでこっち来ないでよ!?」
リィナが念を押す。
「三組分離れてるだろ」
「念のため!」
「レイルの寝相には過去記録があります」
セレネが枕を整えながら言った。
「なんでセレネが持ってる?」
「遠征時の睡眠監視項目です」
「そういう言い方すると余計怖い」
「正式な健康管理です」
「俺の寝相まで研究対象なの?」
リィナがくすくす笑う。やがて灯りを落とした。
窓の外から虫の声が聞こえる。
王核大陸の夜とも、学院寮の夜とも違う。幼い頃から聞いてきたエルデ村の音だった。
暗闇の中で、誰からともなく昼間の話が続いた。
「朝練できる庭は欲しいな」
リィナが天井へ向かって言う。
「研究室も必要です」
セレネが続けた。
「台所は広い方がいい。レイル、料理する時まで道具並べるから」
「書斎も必要ですね。大陸記と小説の原稿が増えています」
「倉庫もいるよ。レイル、予備の予備まで持ってるし」
「その部分は削減対象です」
「俺の荷物を勝手に削るな」
レイルはそう答えてから、ふと気づいた。
「……何の家を設計してるんだ?」
沈黙した。
右側で、布団がかすかに鳴る。
左側でも、セレネが寝返りを打った気配がした。
誰もすぐには答えない。
(戦場で三人が一緒にいる未来なら、何度も考えた)
誰が前へ出るか。どこに退路を作るか。
魔力をどこまで残すか。怪我をしたら誰が運ぶか。
どの大陸へ行き、どう帰るか。
そんな未来なら嫌になるほど考えた。
(家の中に三人がいる未来は、考えないようにしてた)
選べないから。 期待させるのが怖いから。
言葉にすれば、その先へ進まなければならない気がしていたから。
それは自分がずっと嫌ってきた、前世と同じ逃げ方だった。
「……そういう未来も」
レイルは暗闇の中で口を開いた。
「ちゃんと考える。どっちにも曖昧なまま期待させ続けるのは違うと思うし、傷つけたくないって言いながら何も決めないのも、たぶん逃げてるだけだから」
右側から、すぐには返事がなかった。
やがてリィナの声が小さく届く。
「……うん。でも、急いで適当に決めるのも嫌だからね」
「分かってる」
「私は待ちます」
セレネの声も静かだった。
「ただし、待っているだけにはしません。リィナだけがレイルとの時間を増やすなら、私も増やします」
「そこ宣戦布告するところ?」
「かなり重要です」
「セレネ、こういう時だけ積極的だよね」
「必要と判断しました」
「……俺を挟んで相談しないでくれないか?」
二人が小さく笑った。
ニアがレイルの腹の上で、かすかに喉を鳴らす。
そのまま少しずつ会話が途切れた。
右からリィナの呼吸。
左からセレネの気配。
レイルは目を閉じる。
それでも眠りはなかなか来なかった。
理由は分かっていた。まだ一つ、大事な約束を果たしていない。
自分がレイルになる前、別の世界で別の名前を持って生きていた頃のこと。
小説を書いていたこと。
何度も最後まで書けなかったこと。
どうして完成することが怖かったのか。
白環に暴かれた断片ではなく、レイル自身の言葉で話すと約束した。
それをまだ果たしていない。
「リィナ。セレネ」
眠っていないことを確かめるように呼ぶ。
「起きてる」
リィナが答えた。
「私も」
セレネも返す。
レイルは一度だけ息を吸った。
「明日、話したいことがある」
「前の世界のこと?」
リィナには分かっていた。
「うん。今度は、ちゃんと俺から話す」
少し間があった。
「分かった」
リィナはそれ以上聞かなかった。
セレネも静かに続けた。
「では、私も聞きます。途中で『やっぱり今度』は禁止です」
「……分かった」
「返事だけではなく実行してください」
「厳しいな」
「必要です」
暗闇の中で、レイルは少しだけ笑った。
今度こそ、最後まで話そうと思った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
別室では、アルド、ノア、フィアが同じく三組の寝具を並べていた。
「アルド。寝返りでこちらへ侵入しないでください」
「そんなに寝相悪くないぞ」
暗闇でフィアが答える。
「過去記録、二件」
「記録されてるのか?」
「重要です」
「何が?」
「睡眠時の安全距離」
ノアが小さく笑った。
「今回は私が中央ではありませんから、被害はフィアへ」
「被害前提にしないでください」
「俺、どれだけ信用ないんだ?」
しばらくして、部屋が静かになる。
そのまま眠るのかと思った頃、アルドが口を開いた。
「ノア」
「何です?」
「フィア」
「はい」
「昼に言ったこと、変じゃなかった」
返事がない。
「二人がいると安心するってやつ。うまく説明できないけど、やっぱりそう思う。片方だけじゃなくて、二人とも無事に帰ってきてほしいし、その時は俺も一緒に帰りたい」
ノアはすぐには答えなかった。
いつもの冗談も、命令口調も出ない。
「……そうですか」
ようやく返った声は、普段より少し柔らかかった。
フィアも数秒置いて答える。
「記録しました」
「そこはやっぱり記録するのか」
「削除予定なし」
「永久保存?」
「重要度、高」
「それはちょっと恥ずかしいな」
アルドが笑う。ノアが寝返りを打った。
「アルド」
「ん?」
「今後、自分だけを帰還条件から外す行動は禁止します」
「急に命令か?」
「重要事項です」
「はいはい、分かったよ」
「返事は一回」
「はい!」
「よろしい、素直な男は女性に好かれますよ」
少し満足そうな声だった。
フィアがすぐ指摘する。
「ノア。今の『よろしい』は不要です」
「必要です」
「支配傾向を確認」
「記録しないでください」
「削除予定なし!」
「フィア。明日、記録精度について非常に厳しい再教育を――」
「嬉しそうなので全力で拒否します」
「まだ何もしていません!あぁ、でも拒否されるのも、いいものです」
相変わらずだな、この時間が永遠に続けばよいのに、と思いつつ、アルドが布団の中で笑った。
その後、三人の部屋では、しばらく寝返りの音だけが続いたが、やがて静かに音もなくなった。