未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
逆さに本を持った男が、列の中を一人分ずつ前へ進んだ。
灰色の帽子は目深に下ろされ、外套も靴も王都では珍しくない物だ。魔力反応も一般人の範囲から外れていない。それだけ見れば、どこにでもいる客だった。レイルは怪しい理由を頭の中で積み上げるのをやめた。綺麗に並べ始めれば、何でも怪しく見える。
必要なのは、今ここで見えている事実だけだった。
本が逆さま。入場記録なし。列へ入った時刻も不明。署名を待っているのに、一度もページを開いていない。
そして、右手の親指だけが表紙の端から動かない。
「次の方、どうぞ」
レン・マーレとして低くした声を保ったまま、レイルは前の読者へ署名を返した。
男との間には、まだ三人いる。
リィナは会場の側面で子どもへ笑いかけながら、腰の【継刃】から手を離していた。抜く気配を見せれば、相手も動く。代わりに、足だけが少し変わっている。右足を半歩引き、こちらへ一直線に踏み込める位置を空けていた。
セレネは出版社係員へ何かを説明するふりをして、東広間の出口と窓を順に見ている。アルドは列の後方へ回った。
白銀の家宝鎧では目立ちすぎるため今日は軽装だが、【帰城盾】だけは壁際へ立て掛けてある。
フィアが記録板を胸元へ寄せた。
「対象、三人後。右手位置、変化なし。歩幅、列の平均より短いです」
「緊張してるだけかもしれない」
「否定しません。未確認です」
その返答がありがたかった。
フィアは怪しいと決めつけない。記録にないことを、あることにはしない。
男の前に並んでいた少女が署名を終え、嬉しそうに本を抱えて離れていく。あと二人。
ニアの黒銀猫型が机の下から小さく表示を出した。
『金属反応ナシ。魔石反応、微弱。紙面内部ニ薄型術式層ヲ検出』
「本の中?」
『確定ニハ接触解析ガ必要デス』
レイルはペンを持ち直した。
次の青年が席へ座る。
「レン先生、二巻も書きますか?」
「書くつもりです。まだ一巻で旅が終わっていないので」
「よかった。僕、最後の町で主人公が振り返るところが好きで――」
話を聞く。
目の前の読者を乱雑に扱えば、それこそ何のために二つの名前でここまで来たのか分からない。
青年の感想へ答えて署名を渡し、次の読者も見送った。列の先頭へ来た灰色の男だけは椅子へ座らず、机の前に立ったままこちらを見下ろした。
「お名前は?」
レイルが聞いた。
男は答えず、『白紙の向こうへ』を机へ置いた。
逆さまだった表紙が、ようやく上を向く。
その中央に、白い細線が一本走っていた。
印刷にはない線だ。
「先生ご本人ですか」
低い声だった。
「出版社との約束で、個人的な情報には答えられません」
「そうですか。では――書いていただければ分かる」
男の親指が表紙の端を押した。
パキッ。
本の背が割れた。
中から飛び出したのは刃ではない。白磁の薄片が三枚、扇状に開き、机の上へ小さな環を作った。そこへレイルの署名用インクが吸い寄せられる。
『照合術式、起動!』
ニアの警告と同時に、レイルは椅子ごと後ろへ下がった。
男の左手が外套の内側から伸びる。指には白い環が嵌まり、その中心から針のような光が走った。
机を越えて一直線に胸へ来る。
逃げれば後ろに係員がいる。
レイルは右へ半歩だけずれ、机の脚を蹴った。厚い机が斜めへ回り、光針の線と来場者の間へ入る。
ギィンッ!
光が木板を貫いた。
穴の縁から白い硬質化が広がり、机の一部が陶器のように変わる。
「伏せて!」
リィナの声が広間を裂いた。
来場者が身を低くするより早く、彼女は三列分の椅子の間を斜めに抜けていた。剣を大きく振らない。鞘に収めたままの【継刃】で男の手首を下から叩き、照合環を机から浮かせる。
男は腕を引かず、そのままリィナへ肩をぶつけようとした。
リィナは正面で受けない。左足を男の外側へ置き、肩が通る線を空ける。すれ違う勢いを鞘で肘へ流し、男の身体だけを机の横へ送った。
その先にアルドがいた。
ドンッ!
【帰城盾】の平面が男を受け止める。
「ここから先は通さない」
アルドは押し潰さず、盾を床へ固定した。男が逃げる方向だけを塞ぎ、背後の来場者へ衝撃を逃がさない。
男の白環が二度目の光を作る。
「同一動作、二回目」
フィアの声が飛ぶ。
記録板の文字が淡く青く光った。
【記録律】
男の指先で白い環が組み上がる速度が、ほんのわずかに鈍った。光量も最初より数%落ちている。大きな差ではない。それでもセレネが横から薄い光板を差し込み、来場者へ向いていた射線を床へ逸らすには十分だった。
ジュッ!
石床の表面だけが白く硬化する。
「何を――」
「記録しました。単純な固定手順なら、反復するほど誤差を拾えます。ただし、次に別の手順を選ばれたら最初からです」
フィアの声は平坦だったが、その目は男の指先から一度も外れない。
セレネが四枚の薄い光板を同時展開し、出口、窓、天井側の換気口、床下の術式線へそれぞれ置いた。
「逃走経路、四つ閉鎖。レイル、東側だけ空けています。来場者をそちらへ」
「分かった!」
レイルは面具を外さないまま、出版社係員へ手を振った。
「順番に東扉へ! 走らなくて大丈夫です、出口は開いています!」
避難が動き始める。
男はそこで初めて、面具のレイルを見た。
「……レイル・アルヴァートはどこだ」
「え?」
「レン・マーレを守っているなら、近くにいるはずだ」
一瞬、誰も答えなかった。
リィナの口元が引きつる。
セレネは眼鏡を押し上げた。
ノアは衝立の陰から顔だけ出している。
「……標的、分かってないの?」
リィナが聞く。
「黙れ」
「いや、だって」
男が白環をこちらへ向ける。
レイルは反射的に構えながら、どういう顔をすればいいのか本気で分からなかった。
「レン・マーレを殺しに来たんですよね?」
「そうだ」
「レイル・アルヴァートも探してる?」
「必要なら排除する」
「あなた……忙しいですね」
「レイル、それ本人に言うこと?」
リィナのツッコミが入った。
男の眉が初めて動く。
「なぜ、その名を――」
遅い。
避難列はすでに東扉の向こうへ流れ、広間に残っているのは警備に回った仲間と出版社の責任者だけだった。セレネが一度だけ周囲を見回し、机を中心に薄い遮音膜を張る。半径4メートルほどの声だけを内側へ落とす、簡単な生活魔法の応用だ。
「ここからの会話は外へ漏れません。身元秘匿は維持します」
ニアが机の下で猫耳を伏せた。
『音声偽装、解除シマシタ』
レイルの声が元へ戻る。
「すみません。俺がレイルです」
男の顔から表情が消えた。
「……では、レン・マーレは」
「それも俺です」
今度こそ、完全に止まった。
「……」
「……」
「……どちらを殺せばいい?」
「どっちも俺なんで、できれば両方やめてください?」
リィナが吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
そのわずかな緩みを男は逃走へ使おうとしたが、アルドの盾は動かなかった。
「帰還条件、来場者全員の退館と対象拘束。俺も含む」
盾の魔力線が青く走る。
男が三度目の白環を起動する。
「三回目。同じ指順、同じ配列」
フィアの記録律が重なる。
白い環は成立したが、外周の1ヶ所だけが明らかに薄い。セレネはそこへ二枚の光板を挟み込み、外部へ伸びる術式線を切った。環は行き場を失い、白い粒となって床へ散る。
フィアだけで敵の術式を消したわけではない。記録が弱点を見つけ、セレネがその弱点を使った。
ノアがゆっくり近づく。
「同じ術式を同じ指順、同じ魔力配列で三度。フィアの前でそれは悪手ですよ。研究者として、もう少し工夫を要求します」
「ノア、煽らなくていい」
「厳しい評価は必要です」
男は抵抗をやめなかったが、逃げ道も攻撃手段も順に失った。最後はリィナが膝裏を鞘で払って姿勢を崩し、アルドが盾で壁際へ固定する。
白環だけをセレネが遠隔で切り離した。刃傷沙汰にせず拘束まで終え、来場者にも怪我は出なかった。
その報告を聞いた途端、レイルは安心するより先に膝から力が抜けそうになった。さっきまで自分の前には、子どもも、遠方から来た読者もいた。もし男が一人早く術式を起動していたら。机を回す方向を間違えていたら。考え始めれば、悪い結果はいくらでも作れる。
「レイル」
リィナが【継刃】を鞘へ戻しながら呼んだ。
「何?」
「今、また全部自分のせいにしかけたでしょ」
「……顔に出てた?」
「出てた。『俺がサイン会なんかやったから』まで考えた顔」
図星だった。
セレネも遮音膜を解きながらこちらへ来る。
「責任がないとは言いません。ですが、狙った側の責任まで貴方が引き受けないでください。貴方は読者に会うと決めた。あの男は、その読者を巻き込んで殺そうと決めた。その二つを同じ責任として抱える必要はありません」
「でも、俺が正体を隠して二会場なんてやらなければ、もっと警備を単純にできたかもしれないだろ?」
「逆の可能性もあります」
セレネは珍しく間を置かず続けた。
「替え玉と導線分離がなければ、敵はもっと早く標的を確定できたかもしれません。今日の計画には改善点があります。そこは次に直します。でも、その反省を“全部自分が悪い”へすり替えないでください」
「……うん」
「返事が弱いですよ」
「分かった! 次は警備計画を見直す。でも、書くのをやめる理由にはしない」
リィナがようやく笑った。
「それならいい。私、まだ二巻読んでないし」
「まだ書いてない」
「だから早く書いて」
簡単に言われたその一言が、胸の中に残った。
出版社と警備局の判断で、午後の署名会はいったん中止となった。すでに並んでいた読者には整理札を配り、後日の振替会か出版社預かりでの署名を選べるようにする。責任者がそこまで決めたところで、最後の一人が東扉を抜けた。
レイルはようやく息を吐く。
「……今日、再開は?」
「しません」
出版社責任者とリィナの声が綺麗に重なった。
「待ってる人いるし」
「だから振替するの!」
「でも、遠くから来た人も――」
「暗殺未遂の直後に作家本人が追加署名を始めたら、警備の人が泣くでしょ!」
「……それは困る」
「そこまで言わないと止まらないの!? もうレイルのバカ」
リィナは怒りながらも、最後には少し笑っていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
男を王都警備隊へ引き渡す前、フィアが割れた本の背から薄い白磁片を拾った。
表面には、見慣れない二行が刻まれている。
【思想拡散源――優先除去】
【基準日候補――不適合】
セレネの青紫色の瞳が細くなった。
「作家を狙った理由が、これなら分かりやすいですね」
「分かりやすくないよ」
レイルは白磁片を見た。これまで敵が向けてきた殺意には、【未完】や戦闘力という分かりやすい理由があった。今回は違う。書いたものが誰かへ届き、その考えが広がったこと自体を消そうとしている。その狙われ方は、戦場で正面から敵視されるより妙に気味が悪かった。
「……本を読んで、殺しに来たわけじゃないんだよな」
「おそらくは」
「それ、ちょっと腹立つなあ」
リィナが隣で頷く。
「うん。せめて読んでから来てほしい」
「そこ?」
「そこも!すっごく面白いんだし、この本」
破れた『白紙の向こうへ』を拾い上げると、中のページは無事で、表紙だけが背から裂けていた。
レイルはしばらくそれを見てから、出版社係員へ渡した。
「これ、捨てないでください。あとで直します」
「新しいものと交換できますよ」
「それでも、これがいいです。今日ここにあった本なので」
係員は少し驚いたあと、丁寧に両手で受け取った。
完成した本でも、直す場所は残る。傷がついたから価値がなくなるわけでもない。
自分が書いた本を狙った敵が現れた。その事実は怖い。読者を巻き込むなら、次はもっと慎重にならなければならない。
けれど怖かったからといって、最初から何も書かなかったことには戻りたくなかった。
破れた背表紙を見ながら、レイルは初めてそう思えた。