未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
王都を出る前、セレネだけが一度グランツ家の王都別邸へ呼び戻された。
国家任務用の追加装備が届いた、と家令から連絡が入ったためだ。レイルたちは先発馬車の整備待ちもあり、全員で別邸へ寄ることになった。
グランツ家の建物は華美ではない。淡い灰石の壁と細長い窓、魔導線を隠さず意匠へ組み込んだ廊下。そこは貴族邸というより、研究所を住居へ寄せたような造りだった。
「ただいま戻りました」
セレネが玄関で外套を外す。
淡金色の髪は肩甲骨の少し上まで伸び、旅で毛先がわずかに軽くなっている。学院時代から使っている細縁眼鏡の奥で、青紫の瞳が奥の人影を捉えた瞬間、いつもより少しだけ開いた。
「久しぶりだな、セレネ」
男は二十代前半。セレネと同じ淡金髪だが、短く後ろへ撫でつけている。瞳は母方譲りらしい灰青色で、研究官用の濃紺外套の袖口には国家魔導研究部門の銀糸章が入っていた。
「兄様。帰国は来月ではなかったのですか?」
「妹が国家級案件へ放り込まれると聞いて、予定を前倒しした。正式には装備試験の出張だ。家族を理由にすると経費で落ちないからな」
レイルの後ろでリオンが小さく頷いた。
「経費は重要ですぞ」
「そこだけ拾わないでください」
セレネの兄、ルシアン・グランツは一同へ軽く礼をした。
「ルシアンです。妹から名前はよく伺っております」
「兄様」
「聞いている、と言いたかっただけだ」
「どの名前を、どの程度ですか」
「まあ、レイル・アルヴァート君は多めだな」
セレネが無言で眼鏡を押し上げた。
レイルは何となく天井を見た。
(俺、何を報告されてるんだよ一体)
リィナの視線が横から刺さる。
「多めなんだ?」
「共同研究者ですから」
「私の名前は?」
「もちろんありますよ」
「どのくらいなの?」
「比較を始めないでください」
ルシアンは笑いを隠しきれないまま、奥の研究室へ案内した。
中央机に置かれていたのは、五枚の薄い六角形結晶と一本の細い首環だった。結晶は掌より小さく、縁へ金属線が埋め込まれている。
「試作【五路演算晶】。国家研究部が作っていた並列補助晶を、グランツ家の演算式へ合わせ直した。通常術者なら二路まで。三路を越えると補助晶同士の遅延差で混線する」
ノアがすぐに一枚を持ち上げる。
「では五枚ある理由は?」
「妹なら使える可能性があるからな」
「可能性?」
「私には無理だった」
ルシアンはあっさり言った。
「四路目で判断遅延が出る。五路目は論外。セレネ、お前の【並列思考】は私より深い。使うなら、お前が完成させなさい」
セレネは結晶へ触れた。
いつもの彼女なら先に仕様を読む。今は一度だけ兄の顔を見た。
「兄様が使えなかった物を、私へ?」
「兄が使えない物を妹が使って悪い理由はない。家を継ぐのは私だが、家の技術まで私一人の限界へ合わせる気はない」
短い沈黙のあと、セレネは五枚を机へ戻した。
「試験します。ただし、国家規格のままでは戦場で重すぎます。首環一基へ五枚を固定する方式も、被弾時に全路が同時破損します」
「帰って五分で駄目出しか」
「兄様がそれを期待して持ってきたのでしょう」
「正解だ」
兄妹の口元が同じ角度でわずかに上がった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
装備の話が一段落したところで、ルシアンは別の資料束を出した。
表紙には【有線魔力通信網・前線運用損耗報告】とある。
「あとな。今回、こちらも持ってきたかった」
机上へ広げられた図には、都市間を結ぶ太い魔力線と、そこから枝分かれする細い通信線が描かれていた。
人間圏の魔力電話は、基本的に有線だ。魔力を通す線材を二地点へ敷き、声の振動を魔力変調へ置き換えて送る。長距離ほど中継施設が必要で、線が切れれば終わる。
「前線で何度切れているんですか」
セレネが問う。
「直近の国境小競り合いだけで47回。街道崩落、敵の破壊、荷車事故。戦闘以外の断線も多い」
「伝令は?」
「走っている。だから連絡が遅れる」
セレネは数字の横へ指を置いたまま、少し黙った。
「兄様がこの研究を持ち帰ったのは、国家任務だからですか」
「それもある」
「それ以外は?」
「聞くのか」
ルシアンは椅子の背へ身体を預けた。研究官の顔から、ほんの少しだけ兄の顔へ戻る。
「お前たちが王核大陸へ消えた八か月、家の通信室は毎日動いていた。けれど、線はどれだけ生きていても、相手が線の向こうにいなければ何も届かない。父上は学院からの連絡を待って、母上は夜中に廊下の足音がするたび起きていた。私は捜索隊同士の報告が半日ずつずれて、同じ谷を別々の隊が二度調べた記録を見た」
セレネの青紫の瞳が伏せられる。
あの八か月、自分たちは帰るためだけで精一杯だった。人間圏で待っていた家族の時間は、帰還してから何度聞いても全部を想像しきれない。
「無線にしたところで、大陸を越えてお前へ声が届いたとは思っていない。そこまで都合のいい話じゃない。でも、少なくとも捜す側同士がもっと速く情報を共有できたかもしれない。『あの時これがあれば』で研究を始めるのは、研究者として格好が悪いか?」
「いいえ」
セレネはすぐに首を振った。
「私も、そういう理由で作りたいです。次に誰かが帰れなくなった時、残された側が何も知らない時間を少しでも減らせるなら」
「なら持っていけ。家の技術は、家に飾るためにあるんじゃない」
ルシアンはそこでいつもの軽い表情へ戻った。
「ただし、試作品を壊したら報告書は詳細に」
「兄様」
「国家予算が入っている」
「分かっています」
「あと母上へ一通」
「それは国家規定ではありません」
「グランツ家規定だ」
セレネは呆れたように息を吐いたが、口元は少しだけ緩んだ。
レイルは図面の一本を指で追った。
「音声を線の中へ閉じ込めて送ってる。なら、線を使わずに同じ情報を飛ばせないのか」
ルシアンが顔を上げる。
「研究例はある。【念話】術式を媒体へ載せる方式、光へ載せる方式、精霊契約を使う方式。ただ、どれも術者本人の魔力適性か契約が必要だ」
「魔法適正がない一般兵が使えないですね、それだと」
「そうなる」
セレネは資料から目を離さない。
「術者を端末から切り離せればいい。音声変換そのものを魔導具で行い、送信時の魔力は外部槽から供給する」
ノアの赤紫の瞳が細くなる。
「受信側で魔力波を再び音へ戻す。理論上は可能です。ただし、空間へ放った魔力波は減衰します。複数端末を同時に使えば混線する。白環施設の近くなら干渉も受けるでしょう」
レイルはもう紙へ書き始めていた。
「失敗条件、少なくとも十二。送信距離、減衰、混線、傍受、外部槽切れ、受信側故障――」
「十三です」
セレネが言った。
「十三?」
「人間側の操作ミス。必ず入れてください」
「それは当然入れる」
「今、数えていませんでした」
「書く前だっただけだ」
「はいはい」
ルシアンは妹とレイルを交互に見た。
「......本当に聞いていた通りだな」
「兄様」
「何も言ってない」
「顔が言っています」
リィナは五路演算晶を一枚、指先でつついた。
「これ、セレネが五つ考えられるようになるんでしょ?」
「厳密には、既に並列で考えられる処理を外部へ分離して――」
「じゃあレイルへの説教も五倍になる?」
セレネがゆっくりリィナを見る。
「必要なら」
「怖すぎるって!」
レイルは通信図面から顔を上げなかった。
「説教回線は作らないでくれ」
「いいえ。作ります」
「作るんだ......」
ルシアンの笑い声が研究室へ響いた。