未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
最初の優先調査地点は、王都から北西へ半日の旧白環観測施設だった。
人が住む町から離れた丘陵地に、白い石柱が半分だけ地面から覗いている。周囲は低い草原で、夏草の匂いに混じって湿った土と古い魔石の臭いがした。
現地組合の調査員二名が入口で待っていた。
「昨夜から、地下の魔力が増えています。ただ、白環反応だけじゃないんです」
若い調査員が言った。
「別の何かがいるということか?」
レイルが問う。
「魔物の反応です。けど、襲ってこない。食料も荒らさない。地下の術式残滓だけが減ってます」
ノアの眉が上がった。
「術式を食べる生物?」
「そう報告されています」
レイルたちは地下へ降りた。
石階段は二十段ほどで終わり、そこから先は自然洞窟と人工通路が交互に続く。白環施設の壁は古く、一部は崩落して灰色の岩肌が露出していた。
ニアは犬型へ変わった。
黒銀の輪郭が四足へ落ち、鼻先を床へ近づける。
『魔力残響、複数。粘性生体反応アリ。距離42メートル』
「敵意は?」
『判定不能。移動速度、低めですにゃ』
リィナが【継刃】の柄へ手を置く。
「いきなり切りかかるなよ?」
「分かってる」
廊下を曲がると、床一面が濡れていた。
水ではない。
青灰色の半透明な粘体が、幅3メートルほどの通路いっぱいに薄く広がっている。中央だけが盛り上がり、人の腰ほどの高さまで膨らんでいた。
スライム。
レイルは幼少期から小型粘体の知識自体は持っている。だが、目の前の個体は知っているものと形が違う。
内部に、白、赤、緑、青の小さな核が数十個も漂っていた。核同士はぶつからず、それぞれが別方向へ緩く回っている。
『個体照合――該当ナシ』
ニアが少女型へ戻る。
『レイル一行トノ直接接触記録、ナシ。類似魔力残響......検索中』
フィアが記録板を構えた。
「初接触として記録します。攻撃行動なし。こちらからの距離、8.4メートル」
スライムの表面が一度だけ波打った。
その一部が細い触手のように伸び、壁へ残っていた白い術式片へ触れる。
じゅる、と湿った音がした。
白い術式片の光が消える。
代わりに、スライム内部の小核が一つだけ白く光った。
「あ。食べた」
リィナが呟く。
「魔力を吸収しただけかもしれません」
セレネが距離を詰めずに観測する。
「残滓の構造まで取り込んでいるなら、危険です。白環の命令文が内部へ残る可能性があります」
ノアは明らかに興味を抑えきれていない。
「捕獲――」
「しません」
フィアが先に止めた。
「まだ何もしていませんが」
「顔がしました」
「顔の記録は主観です」
「アルド」
フィアが呼ぶ。
「ノアを押さえる必要はあるか?」
アルドは真剣に考えた。
「本人が前へ出るまで待つ」
「その回答は正しいです」
「二人とも私を何だと思っているのですか」
スライムがまた波打つ。
今度は正面の一部が持ち上がり、丸い突起を三つ作った。
目と口のつもりにも見える。
「......真似してる?」
リィナが首を傾げる。
突起が増える。
四つ。
五つ。
七つ。
全部が別々の方向を向く。
「顔を一つに決める気がないみたいです」
セレネが言った。
レイルは一歩だけ前へ出た。
リィナの手が外套の裾を掴む。
「そこまで」
「話せるか試すだけだよ」
「届く距離で」
レイルは頷き、スライムへ向かってゆっくり話した。
「俺たちは、ここにある白い術式を調べに来た。お前を捕まえに来たわけじゃない。言葉が分かるなら、敵対するつもりがないことだけ伝えたい。わかるか?」
スライム内部の核が一斉に止まった。
数秒。
中央から、ぶく、と気泡が一つ上がる。
「......しろ」
音がした。
人の声ではない。空洞へ水を流したような、不鮮明な響きだった。
「白――?」
レイルが聞き返す。
「しろ......いたい」
リィナの表情が消える。
アルドが盾を構えた。
ノアは赤紫の瞳を細める。
「白環に攻撃された?」
スライムは答えず、壁の白い残滓へ触手を伸ばした。
今度は、残滓を食べた直後に身体がびくりと震えた。
内部の白い核が一つ、亀裂を入れて割れる。
レイルは反射的に【未完】へ手を伸ばしかけた。
だが止める。
何が起きているか分からない。完成直前かどうかも分からない。相手が望んでいることも知らない。
「ニア、過去記録を参照しろ」
『類似残響、一件検出。王立結着学院地下、旧白環残滓。個体接触記録ハ存在セズ』
レイルは息を詰めた。
「学院だって?」
『残響ノ一致率68%。同一個体とは断定不可』
フィアが記録する。
「初対面維持。まだ同一個体扱いはしません」
レイルは頷いた。
「分かった。お前のことを、俺たちは知らない。だから勝手に決めない」
スライムの表面が小さく震えた。
「しらない」
「うん」
「......いい」
その返事が、妙に人間らしく聞こえた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
調査は戦闘にならなかった。
スライムは白環残滓だけを食べ、レイルたちが近づきすぎれば身体を引く。触れようとするノアには明確に距離を取った。
「嫌われました」
ノアが真顔で言う。
「当然では?」
フィアが返す。
「まだ触っていません」
「触ろうとしました」
「研究者として自然な興味です」
「相手には関係ありません」
アルドが少し考えてから言った。
「ノア。俺が初対面で血を取ろうとしたら嫌だろう」
ノアが固まった。
「......例えが非常に悪いですが、理解はしました」
リィナが吹き出す。
「アルド、たまにすごいこと言うね」
「分かりやすくしたつもりだ」
レイルは笑いながらも、スライム内部の核を見ていた。
数十個の核は一つへ溶けない。互いに距離を取りながら、それでも同じ身体を動かしている。
(群体なのか。それとも、一体の中に複数いるのか)
答えはまだ先になりそうだった。