未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
群体スライムについての報告を終えた翌日、レイルたちは第一優先都市に指定された北央防災城塞へ入った。大河の氾濫と大型魔物の越境、その両方を想定して造られた古い城塞で、分厚い外壁の内側には軍の指揮所だけでなく、大陸継路組合、治療院、物流組合の出張所まで集められている。
合同対策会議の開始までは、あと二十分ほどあった。受付を済ませた一行が中央会議室へ向かう長い石造りの廊下へ出たところで、先頭を歩いていたリィナの足が不意に止まった。
右足を前へ出しかけたまま、赤栗色の長髪が背中でわずかに揺れている。何かを見つけたというより、身体の方が先に歩くことを拒んだような止まり方だった。
「リィナ、どうした?」
すぐ後ろを歩いていたレイルが声をかけると、リィナは返事の代わりに廊下の先を見た。金茶色の瞳が細くなり、右手は無意識のうちに腰の【継刃】へ寄っている。
「……前、行きたくない」
「珍しいこと言うな」
「私だって言いたくて言ってるんじゃない。行くよ。行くけど、ちょっと待って。今、普通に歩いたら駄目な気がする」
リィナがこんなふうに一歩をためらう姿を、レイルはほとんど見たことがなかった。王核大陸の知らない森でも、崩落しかけた坑道でも、彼女は怖がりながら前へ出る。危険があるなら、どこへ足を置けば次へ進めるのかを探す。それがリィナだった。
その彼女の視線の先、窓から薄い冬の日差しが差し込む場所に、一人の男が立っていた。
白銀に近い灰銀の髪。五十歳前後。濃灰色の戦装束には目立った徽章も装飾もなく、腰に吊るした長剣も宝剣らしい華美さとは無縁だった。柄革は擦れて黒ずみ、鞘には長年使われた細かな傷が残っている。
剣聖認定の場で、リィナは一度その男と言葉を交わしている。
人間圏でただ一人、現役の剣神として認められている男だった。
「剣神、か――」
レイルが小さく言うと、リィナはうなずいた。
「うん。前にも会ってる。分かってるんだけど……前より嫌な感じが強いの」
「嫌って、本人が?」
「違う。あの人は別に何もしてない」
ニアがレイルの肩口へ少女型の投影を浮かべ、剣神の方へ目を向けた。
『周辺魔力変動、通常範囲。精神干渉、威圧術式、闘脈励起、全部ナシ。対象人物カラノ意図的ナ魔力放出モ検出シテマセン』
「だってさ?」
「だからー、魔力じゃないんだって」
リィナは少し苛立ったように言ってから、息を整えた。自分でも説明しづらいものを無理に言葉へ落とそうとしているのが、横顔から分かる。
「認定の時も強い人だって分かったよ。でも、あの時は試験が終わった直後で、自分が剣聖になれたことの方が頭にあったし……たぶん今ほど見えてなかったんだと思う」
「今は何が見えるんだ?」
「見えるっていうより、見えないことが分かるの」
リィナは床の石目へ視線を落とした。そこから剣神まで、およそ二十数歩。人が二人並んでも余る広い廊下で、左右には壁際を通る余地もある。それなのに彼女は、足場を一つずつ確かめるように視線を動かしていった。
「真っすぐ行ったら斬られる。右から回っても駄目。左もたぶん同じ。壁へ寄ったら逃げ道がなくなるし、背中を向ける方がもっと嫌。ラガンなら『ここに入ったら噛まれる』って場所が分かるし、ヴァルカなら斬ったあとに私が戻れる線が見える。でもあの人は……どこまでが間合いなのか、分からない」
レイルも剣神を見る。剣士として上級相当まで鍛えてきた今なら、昔よりは立ち方の異常さが分かる。それでもリィナが感じているものほど鮮明ではない。
剣神は構えていなかった。腰も落としていない。右手は剣柄から離れ、窓の外に目を向けている。ただ立っているだけだ。
にもかかわらず、廊下の中央に一本の見えない境界線が引かれたように感じる。
「殺気とも違う?」
「全然違う。殺す気なんて向けられてない。それなのに身体が勝手に『そこへ入るなら斬られる準備をしろ』って言ってる。魔力じゃないし、術式でもない。……剣だけで生きてきた人が出す、何か。そういうの。わかんない」
剣士の気迫、という言葉では少し足りない気がした。
積み上げた年月が姿勢に染み込み、立っている位置そのものが斬撃の予告になっている。剣を抜くより前から、周囲がすでにその男の剣の内側にある。
リィナは剣聖になった。自分の間合いがどこまで届き、相手がどこへ入れば斬れるのかを、以前より細かく感じ取れるようになった。
だからこそ今、その感覚の外側にあるものが恐ろしかった。
前より強くなったせいで、前より遠さが分かる。
「……悔しいよ」
小さく漏らした声には、怯えよりそちらの感情の方が濃かった。
その時、窓辺の男がこちらを向いた。
視線が触れただけだった。それでもリィナの左足がわずかに引かれ、腰が落ちかける。柄へかけた指へ力が入り、抜けば間に合うかを身体が勝手に計り始めた。
間に合わない。
そう感じた瞬間、首筋に冷たいものが走った。
「また会ったな、リィナ・アルセイル」
低い声が廊下を通る。
「……はい。お久しぶりです」
リィナは柄から手を離さなかったが、頭は下げなかった。剣神の視線が一度、その右手へ落ちる。
「剣聖になってからも絶えず振っているようだな」
「毎朝。遠征先でも振ってます!」
「それで、今度は何が見えた」
「えっ?」
「認定の時より、私を見る顔が悪い」
リィナが一瞬だけ言葉に詰まったあと、むっとした。
「顔が悪いとか言わないでください」
「表情の話だぞ」
「分かってます」
後ろでレイルがわずかに口元を緩める。リィナが横目で睨んできたので、すぐに戻した。
「前より、............怖く見えます」
リィナはごまかさずに答えた。
「貴方が前より強くなったかは分かりません。でも、私は前より自分の間合いが分かるようになった。だから今、貴方の間合いがどこまであるのか分からないのが、すごく気持ち悪いです。剣へ手も置いてないのに、どこから入っても斬られる気がする」
剣神は少しだけ目を細めた。
「認定の時には、そこまで分かっていなかったか」
「はい。あの時は『ものすごく強い』で終わってました。今は、何で近づきたくないのかが少し分かる。その分だけ、前より遠く感じます」
「なら、剣聖になった意味はあったな」
あまりに淡々と言われ、リィナが瞬きをした。
「それ、褒めてます?」
「事実を言った」
「エルシア先生みたいなこと言う……」
「師匠なら最後に『バカ弟子』が付くけどな」
レイルが口を挟むと、リィナが振り返った。
「そこは補足しなくていいから」
「正確さは大事だろ」
「今はいらない正確さ!」
剣神は二人のやり取りを止めもせず見ていたが、やがてリィナへ視線を戻した。
「右手が三度動いた」
「……何の話ですか」
「抜く場所を探していただろう」
今度こそリィナの口が止まった。
レイルが驚いて彼女を見る。
「三回も?」
「見ないで!」
「俺には一回しか分からなかった」
「回数を検証しないで!」
頬を赤くしたリィナに、剣神はごく薄く口元を緩めた。
「怖いと言いながら抜きたくなるなら、まだ剣士としては正常だ」
「それ、褒められてる気がしないです」
「褒めてはいないがな」
「やっぱり!」
リィナは深く息を吐き、ようやく【継刃】の柄から手を離した。緊張は消えていない。それでも、一度会話を交わしたことで、最初に廊下へ出た時のような身動きの取れなさは薄れていた。
「認定の時に言われたこと、覚えてます。ラガンとヴァルカに勝って、そのあと来いって」
「忘れていたらここで話す意味はない」
「まだ二人には勝ってません」
「見れば分かる」
「最後まで言わせてください!」
声が思ったより響き、廊下の向こうにいた衛兵がこちらを見た。リィナは気まずそうに一度咳払いしてから、声音を落とす。
「まだ勝ってません。でも前とは違います。ラガンに何を奪われてるのか、ヴァルカにどこを閉じられてるのか、少しずつ分かるようになった。だから今度は、ただ二人と同じことができるようになって勝つんじゃなくて、教わったものを使った上で、私の剣で越えます」
「それで私のところへ来るか」
「必ず行きます」
迷いなく答えてから、リィナは一度だけ唇を引き結んだ。
「前に『待っててください』って言った時は、剣聖になれたのが嬉しくて、勢いもありました。今は前より貴方が怖いです。自分がどれくらい届いてないかも、あの時より分かります。それでも行きます」
「前より、少しだけましな返事だ」
「前も返事だけはいいって言いましたよね」
「覚えているのか」
「悔しかったので」
「なら、その悔しさは捨てるな」
剣神の声に、ほんのわずかに重みが増した。
「ただし、私へ届くためだけに剣を安易に変えるな。ラガンを越すための剣、ヴァルカを越すための剣、私を倒すためだけの剣。そんなものを継ぎ足していけば、最後にお前自身の剣が残らんぞ」
リィナの表情が引き締まる。
「……じゃあ、どうすればいいですか」
「それは自分で考えろ」
即答だった。
「私の答えを欲しがるなら、最初から私の流派へ来ればいい。お前はそうしなかった。なら自分で探せ」
「厳しいなあ……」
「嫌なら剣などやめろ」
「やめません」
反射のように返したあと、リィナは少し笑った。
「そういうところは、好きです。答えをくれないところ」
「変わった娘だ」
「よく言われます」
レイルが隣で首を傾げる。
「誰に言われてるんだ?」
「今は黙っててくれない」
剣神が会議室の方へ歩き出そうとしたところで、リィナがもう一度呼び止めた。
「最後に一つだけ。これは剣の答えじゃなくて、名前を聞きたいだけなんですけど」
「何の名だ」
「さっきから感じてるこれ、何なんですか。魔力でも殺気でもない。貴方が立ってるだけで、私の身体が間合いを警戒する。剣士のオーラって言ったら変ですか?」
剣神はしばらく返事をせず、今度は自分の右手を見た。長年剣を握った指には、古い傷と硬い皮膚が幾重にも残っている。
「好きに呼べ。剣気でも、気迫でも、圧でも構わん。名前を付けたところで技にはならない」
「技じゃないんですか?」
「何十年も剣を振っていれば、構えてから斬る必要がなくなる。足の置き方、視線、呼吸、肩の向き、重心。全部が次の斬撃へつながる。お前が感じているのは、私が何かを放っているからじゃない」
剣神は腰の長剣へ手を触れないまま、静かに続けた。
「お前の身体が、私のどこからでも剣が来ると理解しているだけだ」
リィナは言葉を失った。
魔法のように外へ放出される力ではない。剣だけで生きた時間が立ち姿に染み込み、その男がいる場所そのものを間合いへ変えている。
剣を持っているから剣士なのではない。剣を抜いていなくても、身体の全部が剣へつながっている。そこまで行くのに何年かかるのか。自分にも同じものが必要なのか。それすら今は分からない。
「……ずるい」
「何がだ」
「私はまだ剣を握らないと、そこまで自分を戦う形にできません」
「なら常に握れ」
「いつか握らなくても出せるようになります?」
「知らん」
「そこは教えてくれないんですか」
「今、答えを欲しがるなと言ったばかりだ」
リィナは少し黙ったあと、とうとう吹き出した。
「分かりました。自分で探します」
「そうしろ」
剣神は今度こそ会議室へ向かって歩き出した。
その背中を見送りながら、リィナは長く息を吐いた。肩の力がようやく抜け、最初に止まった右足を今度は自分から一歩前へ置く。
「まだ怖い?」
レイルが隣へ並ぶ。
「怖いよ。前より」
「でも行ける?」
「行ける。というか、余計に戦いたくなった」
「そこは本当に変わらないな」
「変わったよ。前は強い人を見たら、とにかく勝ちたいって思ってた。今は、何が違うのか知ってから勝ちたい」
リィナは少し考え、レイルへ人差し指を向けた。
「ただし今日のこと、あとで『剣神を見て前へ行きたくないと言った』とか記録しないでよ」
「事実としては重要な――」
「いらない!」
「フィアならもう聞いてる可能性が」
「レイル」
「はい」
「消して」
「俺の記憶からは無理だ」
「じゃあ誰にも言わない」
「それなら」
「約束だよ」
「……分かった」
リィナはようやく満足そうにうなずいた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「フフ。父から聞いていた通りね。ずいぶん元気な剣聖さん」
背後から女の声が届いた。
聞き覚えはない。リィナが振り返ると、少し離れた石柱のそばに、長身の若い女性が立っていた。
濃紺の長髪を高い位置で一つに束ね、金褐色の瞳には人を正面から見る強さがある。騎士令嬢を思わせる端正な顔立ちと整った立ち姿をしている一方、右手には隠しようのない厚い剣だこがあり、袖口から覗く前腕にも細い古傷が何本か走っていた。
柱へ軽く背を預けていたはずなのに、重心はどちらにも偏っていない。右にも左にも、前にも、一歩で動ける。
剣神ほどではない。それでもリィナの【先路】は、目の前の女性へ不用意に間合いを詰めるなと告げていた。
「……あなた、誰?」
リィナが警戒を隠さず聞くと、女性はむしろ楽しそうに笑った。
「そうよね。初対面なのに、こっちだけ知ってるのは失礼だったわ」
柱から背を離し、真正面からリィナへ向き直る。
「初めまして。私、ヴィオラ・アークフェルト。あの愛想のない剣神の娘で、一応、剣帝をやらせてもらってるわ」
リィナの目がわずかに見開かれた。
名前は知っている。若くして剣帝まで上がった現剣神の娘。剣術関係の記録や噂を追っていれば、一度は目にする名だった。
ただし、顔を合わせるのはこれが初めてだった。
「リィナ・アルセイルです」
「それは知ってる。父が剣聖認定から戻ってきた日に、珍しく若い剣士の話をしたから」
「剣神が、私の?」
「ほんの少しよ。『足だけは止めるな』とか、『返事だけはいい』とか。褒めてるのか分からない言い方で」
「本人にも同じこと言われました……」
思わず脱力したリィナを見て、ヴィオラが声を立てて笑った。
「やっぱり。父、気に入った相手ほど説明が減るのよ」
「それ、本人には言わないでください。次会った時に余計しゃべらなくなりそう」
「安心して。もう十分しゃべらないから」
初対面のはずなのに、父親への評価だけで妙に会話が噛み合う。
ただ、リィナは気を抜かなかった。笑っている間も、ヴィオラの足は崩れていない。剣士として一段上にいることは、向かい合っただけで分かる。
「ヴィオラさんも、さっきの……剣神の圧みたいなの、感じるんですか?」
尋ねると、ヴィオラの笑みが少し薄れた。軽い話として流さず、剣士として答える顔になる。
「感じるわ。毎回」
「剣帝でも?」
「剣帝だから、前より嫌なくらい分かるの」
あまりに迷いのない返事に、リィナは黙った。
「小さい頃は『父は強い』で終わってた。剣豪になれば、どこが強いのか少し見える。剣聖域まで来れば、もっと見える。剣帝になったら――近づいた分だけ、見える差が増えたわ」
「……じゃあ、上へ行けば楽になるわけじゃないんですね」
「何を期待してたの?」
「剣帝くらいになれば、あの人を見ても普通に歩けるのかなって」
「歩けるわよ」
「おお、そうなんだ!」
「怖いまま、だけどね」
「そこは消えないんだ……」
ヴィオラが肩をすくめる。
「消す必要もないでしょう。怖いものを怖くないと思い込むより、怖いと分かったまま一歩出られる方が剣士としては信用できるもの」
リィナは先ほど自分が踏み出した一歩を思い出し、少しだけ口元を緩めた。
「それなら、さっき一歩だけ進めました」
「見てたわ」
「え」
「途中からね。悪趣味だった?」
「ちょっと」
「ごめんなさい。でも面白かった」
謝っているのに全く悪びれていない。リィナは頬を膨らませかけたが、ヴィオラの視線が腰の【継刃】へ移ったことで表情を変えた。
「ところで、あなたのそれが【無終剣】に使う剣?」
「はい」
「父から技の話も少し聞いた。斬撃を終点にせず、次の足へつなぐんでしょう」
「……そこまで話したんですか」
「父にしては長話だったわよ。三十秒くらい」
「短いですね!」
レイルが耐えきれず横で笑った。ヴィオラの視線がそこで初めて彼へ向く。
「あなたがレイル・アルヴァート?」
「はい。初めまして」
「初めまして。こっちも名前はよく聞くわ」
ヴィオラは遠慮なくレイルを見た。暗い灰褐色の髪、青灰色の瞳、細身ながら朝練と実戦で鍛えられた体つき。外套の下からは第一世代の【七環外導架】の一部が覗いている。
品定めというより、剣士が知らない武器を見る時に近い、隠す気のない視線だった。
「思ったより普通の顔ね」
「初対面で最初に言うことですか、それ」
「もっと見ただけで周りの魔法が止まりそうな顔を想像してた」
「どういう顔ですか」
「片目が常に光ってるとか」
「常には光りません」
「じゃあ少しは光るのね」
「【未完】を強く使った時だけです」
「半分当たりじゃない、でも嫌いな顔じゃないわ」
レイルが返答に困っている横で、リィナの眉がわずかに寄った。
「……レイルの顔、そんなに見る必要あります?」
「あるでしょう。会ったことのない有名人が目の前にいるんだから」
「魔法使いなら、手とか術式具を見る方が先じゃないですか」
「顔を見ちゃ駄目?」
「駄目とは言ってません」
「じゃあもっと見るわね」
ヴィオラが本当にもう一度レイルの顔を見る。
リィナの眉間の皺が深くなった。
「長くないですか?」
「リィナ」
レイルが小声で止める。
「何?」
「初対面の相手への質問がだんだん尋問になってる」
「なってない。普通に聞いてるだけ」
「質問の間隔が短いのは事実です」
セレネが眼鏡を押し上げながら淡々と加わる。
「体感では1.5秒前後です」
「セレネまで数えないで!」
ヴィオラがとうとう堪えきれず笑い出した。
「なるほど。父が面白がるわけだわ」
「面白がってるんですか、あの人」
「たぶんね。本人に聞いても絶対認めないけど」
リィナはまだ少し納得していない顔をしていたが、ヴィオラはそれ以上からかわず、自分の剣の柄へ軽く指を置いた。
「リィナ。会議が終わったあと、時間ある?」
「あります」
「せっかくだし、一戦しない?」
今度は空気がはっきり変わった。
リィナの頬に残っていた照れも不満も薄れ、金茶色の瞳が剣士のものへ戻る。目の前の相手が自分より強いと分かっている。それでも、迷う時間はほとんどなかった。
「やります」
「即答なのね」
「剣帝と戦える機会を断る理由がないです」
「私が圧勝するかもしれないわよ」
「その時は、何で負けたか覚えて帰ります」
ヴィオラは一瞬だけ目を細め、それから嬉しそうに笑った。
「いい返事。じゃあ決まりね」
「ただ、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「さっき立ってるところを見ただけで、私より先にいるのは分かりました。でも、どれくらい遠いのかまでは分からない」
リィナは正面からヴィオラを見る。
「だから試合で確かめたいです。剣聖と剣帝の一段って、どれくらいあるんですか」
ヴィオラは少し考えたあと、すぐには答えなかった。代わりに腰の剣へ手を添える。その動作だけで重心が変わり、先ほどまで会話相手だった女性の周囲に、薄い間合いが生まれた。
剣神ほど途方もなくはない。どこへ入っても斬られるという感覚でもない。
だからこそ、リィナにはよく分かった。
自分より一段先にいる。
「口で説明したら、たぶんつまらないわ」
ヴィオラが笑う。
「一つ上がどれくらい遠いか、自分の剣で測りなさい」
リィナの口元も自然に上がった。
「はい」
怖さはある。それを消そうとは思わなかった。
剣神を前にした時には出なかった一歩が、今度は何の迷いもなく前へ出る。
レイルはその横顔を見て、ふっと笑った。
「何?」
「さっきまで『前、行きたくない』って言ってたのに、もう自分から前へ出てるなと思って」
「それとこれは別。怖いのと、行かないのは同じじゃないから」
リィナはそう言い切ってから、思い出したようにレイルへ顔を寄せた。
「あと、今のも記録しないで」
「今の?」
「『前、行きたくない』」
「二回目だからもう記憶に定着した」
「レイル」
「言わない。約束しただろ」
「ならいい」
会話を聞いていたヴィオラが、少しだけ意味ありげに二人を見る。
「仲がいいのね」
「幼馴染なので」
レイルが普通に答える。
リィナも同じ言葉を返そうとして、一瞬だけ止まった。
「……幼馴染です」
ほんのわずかな間だったが、ヴィオラは見逃さなかったらしい。ただし初対面の相手へそこまで踏み込む気はないのか、今は何も言わず、楽しそうに片眉だけを上げた。
その反応を見たセレネが、眼鏡の位置を静かに直す。
「会議開始まで残り十二分です。剣術談義は、試合の後にしてください」
「そうね。怒られる前に行きましょう」
ヴィオラは軽く手を振り、先に会議室へ向かった。
数歩進んだところで一度だけ振り返る。
「リィナ」
「はい?」
「初対面でいきなり試合を頼んだけど、嫌だったらちゃんと言ってね」
「嫌じゃないです」
「よかった。私、距離を詰めるの早いってよく言われるから」
「それは……ちょっと分かります」
「でしょう?」
ヴィオラは悪びれず笑い、そのまま歩いていった。
リィナはその背中を見送りながら、腰の【継刃】へ指を添えた。剣神を前にした時のような、どこへ行っても斬られる感覚はない。けれど、ヴィオラの背中にも自分がまだ持っていないものがある。
「一つ上か」
ぽつりと呟く。
「楽しそうだな」
レイルが言うと、リィナは素直にうなずいた。
「うん。すごく」
先ほどまで身体を押さえていた剣神の圧は、もう廊下には残っていない。それでも、その感覚は消えずに身体の奥へ沈んでいた。
いつか自分も、剣を抜く前から相手の身体が警戒するような剣士になるのか。それとも、自分の【無終剣】はまったく別の形へ育つのか。今はまだ分からない。
分からないから、次の一歩を試せる。
リィナは会議室へ向けて歩き出した。さっき剣神を前に止まった時よりも、歩幅はほんの少しだけ広くなっていた。