未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
森人族救援団が到着した翌朝、アルドは自分の机に二つの包みが置かれているのを見つけた。
一つは濃紺の布で包まれ、紐が少しだけ歪んでいる。もう一つは白い紙で角まで正確に折られ、表面に小さな記録札が貼ってあった。
【贈答対象:アルド・クロイツ】
【内容物:焼菓子12個】
【第三者分配:想定外】
アルドは記録札を読んだ。
「これフィアだな」
「お前、何で分かるの?」
同室のレイルが笑う。
「書いてある」
「そりゃそうだけど、記名はないだろ」
もう一つの濃紺包みには名前がない。
開けると、焦げ茶色の小さな焼き菓子が八個入っていた。形は揃っているが、二つだけ端が明らかに濃い。
「こっちは誰だ?」
レイルが聞く。
アルドは少し考えた。
「ノアかもしれない」
「どうして」
「昨日、食堂の厨房で『温度管理が理論通りにならない』とか怒っていた。その後薄ら笑いを浮かべていたが......」
レイルは思わず吹き出した。
「それ、料理してたのかもよ」
「俺は最初、術式実験だと思った」
扉の外で何かが倒れる音がした。
ノアが入ってくる。
「誰が術式実験ですか」
「聞いていたのか」
「ただの偶然です」
淡い金髪はいつもよりきれいにまとめられているのに、右袖だけ薄く粉が付いていた。本人は気づいていない。
少し遅れてフィアも入る。
こちらは普段通り記録板を持っていたが、アルドの机を見ると足がわずかに止まった。
「確認しました」
「何を?」
「届いていることを」
ノアが白い包みを見る。
「それは貴方の?」
「はい」
「十二個」
「人数分ではありません」
「聞いていません」
「誤解防止です」
ノアの眉が動く。
レイルは嫌な予感を覚え、静かに椅子を引いた。
「俺、朝練行ってくる」
「まだ時間あるだろ」
アルドに止められた。
「そうだった」
逃げられない。
アルドは二つの包みを見比べたあと、真面目な顔で言う。
「ちょうどいい。皆で食べよう」
「駄目です」
ノアとフィアの声が完全に重なった。
アルドが目を瞬く。
「なぜ」
「貴方のために作りました」
フィアが言う。
「贈答対象は記録済みです。第三者分配は想定外です」
「十二個あるが?」
「貴方が十二個食べる想定です」
「俺一人には多くないか」
「リィナさん基準では少量です」
「――聞こえてるよ! 私を基準にしないでくんない?!」
廊下からリィナの声が飛んだ。
どうやら全員聞いている。ノアも腕を組む。
「私の方も分配しないでください」
「八個あるが」
「八個だから何ですか」
「一人で食べるには――」
「食べられます」
「ノアは少食だろ」
「貴方が食べればいいって話です!」
アルドがますます分からない顔になる。
「二人とも、俺が食べるために作ったのか」
「最初からそう言っています」
フィア。
「言わせないでください」
ノア。
「ありがとう」
アルドは素直に礼を言った。
今度は二人が黙る。
ノアの耳が少し赤くなり、フィアは記録板へ視線を落とした。
「昨日、姉上に救援物資をもらったから、俺も返礼を考えていた」
「何の話へ行くんですか」
ノアが警戒する。
「二人にも何か返したい」
フィアが顔を上げる。
「返礼は必要ありません」
「そういうわけには」
「返礼を欲しくて渡したわけではありません」
フィアは一度言葉を止めた。
普段なら「記録上」と続けそうなところで、続けなかった。
ノアも少し遅れて言う。
「私も同じです。研究中に余った――」
リィナが扉から顔を出す。
「絶対嘘じゃんか」
「何がですか」
「昨日、厨房で三回焼いてたって料理長が言ってたし」
「あなた、なぜ聞いているんです!」
「おいしそうな匂いしたから見に行っただけ」
「貴方は本当に食べ物への索敵能力だけ異常ですよね!」
リィナが笑いながら部屋へ入ってくる。
その後ろにセレネとマルティナもいた。
「朝から賑やかねえ」
アルドの姉が状況を一目見て、机の二つの包みを確認する。
「ああ」
「姉上?」
「別に」
マルティナは笑いを堪えている。
「アルド。もらったものは、誰に渡したいと思って作ったのかを少し考えてから扱いなさい」
「二人とも俺に食べろと言った」
「そこまで聞いてまだ皆へ配ろうとしたの?」
「最初は知らなかったから」
「じゃあ今は?」
「俺が食べます」
「よろしい」
ノアが小声で言う。
「姉上様、話が早くて助かります」
「姉上様はやめて。マルティナでいいわ」
フィアは自分の包みを指す。
「一度に十二個食べる必要はありません。保存期間は三日です」
「記録札に書いてある」
「読んだのですね」
「当然だ」
フィアの口元が少しだけ緩む。
ノアは自分の包みを見た。
「私のは今日中に」
「保存性が低い?」
「理論上は二日ですが、昨日一部で焼成温度が――」
「わかった。今日食べる」
アルドが遮った。
「味に問題があるなら言う。次に直せるから」
「……次」
ノアがその単語へ反応する。
「次も作っていいのですか?」
「ノアが作りたいなら」
天然だった。
本人に特別な意味はない。
ノアの赤紫の瞳がわずかに揺れる。
フィアも黙っている。
マルティナが弟の後頭部を軽く叩いた。
「姉上、痛い!」
「あなた、本当にもう少し自覚しなさいな」
「何をですか」
「それを聞いてる時点で駄目なのよねえ」
レイルは自分のことを棚へ上げられないので、何も言わなかった。
セレネが横から小声で聞く。
「レイル。今、自分も似ていると思いました?」
「かなり......」
「改善してください」
「はい――努力します」
リィナがすぐ反応する。
「そこ、二人だけで何の話?」
「俺の反省かな」
「私も聞く」
「あとでお願いします」
「またあとで?」
「国家案件が一段落したら三人で話すって約束しただろ」
「覚えてたならいいけど」
リィナは少しだけ安心した顔になった。
セレネも何も言わなかったが、眼鏡へ触れた指から力が抜ける。
アルドの机では、ノアとフィアの菓子が二つ並んでいる。
どちらが上でも、どちらが本命でもない。
今はただ、二人がそれぞれ自分の手で作り、同じ相手へ渡した。
マルティナはその光景を見ながら、余計な答えを口にしなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その日の夕方。
アルドは訓練から戻ると、ノアの焼き菓子を一つ食べた。
「で、どうです?」
なぜか本人が正面にいる。
「少し焦げているな」
「知っています」
「でも香りはいい」
「……それだけ?」
「甘さも俺にはちょうどいい」
ノアは視線を逸らした。
「なら、次は焦げを消します」
「楽しみにしてる」
アルドは普通に答えた。
ノアは三秒ほど固まってから、真っ赤な顔で立ち上がった。
「そういう言い方を無自覚にするのをやめなさい!」
「何が?」
「もう。知らなくていいです!」
部屋を出ていく。
アルドは焼き菓子を持ったまま、フィアを見る。
「怒らせたかな」
フィアは記録板へ何か書きかけて、やめた。
「未確認です。ただし、追わなくていいと思います」
「そうか」
「代わりに」
フィアは自分の包みを少し押し出す。
「次はこちらを食べてください」
アルドは頷いた。
「分かった」
フィアの頬も少し赤い。
フィアは逃げず、隣へ座ったままだった。