魔王が滅ぶその日まで
アダー・ブロを出発してから数日。
馬車は商業国家ルスロードの北部を抜け、西へ続く街道を進んでいた。
フィオナは揺れる荷台の窓から外を眺める。
見渡す限りの草原。
隊商とすれ違い、旅人が手を振る。
初めて見る景色ばかりだった。
「広いね。」
「うん。」
ララも窓の外を見つめながら笑う。
「こんなに遠くまで来たんだね。」
フィオナは小さく頷いた。
故郷だったアダー・ブロは、もう見えない。
それでも、不思議と寂しさよりも、知らない世界への期待の方が大きかった。
◇
数日後、一行は宗教国家アリアングランドの南側を通る街道へ差しかかった。
国境には大きな関所が建ち、その上では教典を描いた旗が風にはためいている。
馬車は順番に止まり、護衛が通行証を役人へ手渡していた。
フィオナはその様子をじっと見つめる。
「何してるんだろう。」
「分からない。」
ララも首を傾げる。
しばらくすると確認が終わり、馬車は再びゆっくりと動き出した。
遠くには、空へ突き刺さるような巨大な山が見える。
フィオナは思わず見上げた。
「あんなに大きな山、初めて見た……。」
その姿は、旅が続いてもなお遠くにそびえ立っていた。
◇
夕暮れ。
一行は帝国との国境近くで野営をすることになった。
護衛たちは手際よく天幕を張り、焚き火を囲む。
奴隷たちは配られた食事を静かに口へ運んでいた。
夜になると、空いっぱいに星が広がる。
フィオナはそっと天幕の外へ出た。
「きれい……。」
思わず声が漏れる。
見上げる空には、数え切れないほどの星が瞬いていた。
その静けさの中――
草むらが小さく揺れる。
フィオナが振り向くと、一匹の幼い魔獣がこちらを見つめていた。
子犬ほどの小さな身体を低くし、不安そうに尻尾を丸めている。
何度も辺りの匂いを嗅ぎ、落ち着きなく首を動かしていた。
フィオナは驚くことなく、ゆっくりとしゃがみ込む。
「どうしたの?」
魔獣が小さく鳴く。
「お母さんとはぐれちゃった。」
「それは心配だね。」
「帰れなくなったの。」
フィオナは優しく微笑んだ。
「きっと探してるよ。」
魔獣はもう一度風の匂いを嗅ぐ。
少しだけ安心したように耳が動いた。
その時だった。
「二一八四。」
護衛の低い声が響く。
フィオナが振り返る。
護衛がこちらへ歩いてきていた。
その視線が魔獣を捉える。
腰の剣へ手が伸びた、その瞬間――
魔獣が勢いよく顔を上げた。
「……お母さん!」
風が変わった。
魔獣は森の奥を見つめ、嬉しそうに尻尾を振る。
「ありがとう。」
そう言い残すと、小さな身体で草むらを駆け抜け、森の中へ消えていった。
護衛が近づいた頃には、もう姿はなかった。
フィオナはほっと息をつく。
「よかった。」
そこへララがやって来る。
「フィオナ、大丈夫?」
「うん。」
フィオナは笑顔で頷いた。
「帰れなくて困ってたみたい。」
「そっか。」
ララも安心したように微笑む。
「戻ろう。」
「うん。」
二人は並んで天幕へ戻っていく。
夜空には、変わらず無数の星が輝いていた。
フィオナはまだ知らない。
誰にも聞こえない声が、自分には届いていることを。
その小さな優しさが、やがて世界を揺るがす力へ繋がっていくことを。