悪役令嬢は世界のバグを修正する
礼堂跡地の風は、
まだ戻り切っていなかった。
砕けた石畳の隙間を、
遅れて流れ始めた空気が撫でていく。
その中央で、
ルシアンは一人立ち尽くしていた。
剣は抜かれていない。
手は柄に触れたまま、
それ以上動かない。
周囲では騎士たちが再編のために走り、
神殿側の伝令が命令を叫び、
包囲陣の調整が進んでいる。
だが彼の耳には、
それらの音が遠かった。
頭の中で、
別の声が反響していた。
――神殿は“管理している”んじゃない。
――“制限している”んだ。
誰が言ったのか、
どこで聞いたのかも曖昧だった。
だがその言葉だけが、
鋭い刃のように残っている。
ルシアンは幼い頃から教えられてきた。
力は危険だ。
制御されなければ災厄になる。
選ばれた者が導き、
秩序によって守らねばならない。
だから自分は剣を取った。
私情を捨て、
感情を削り、
ただ世界を守るために。
迷いなく従ってきた。
それが正しいと信じて。
だが今、
礼堂跡地で見たものは何だった。
レティシアは壊していない。
暴走していない。
奪っていない。
止められていた流れを、
戻しただけだった。
白い格子が砕け、
風が動き、
鐘が鳴り、
葉が落ちた。
あれは破壊ではない。
回復だった。
ルシアンの喉がわずかに動く。
(……制御じゃない)
自分が使ってきた力。
神殿が執行してきた権限。
それは守るための枠だと思っていた。
暴走を防ぐための柵だと。
だがもし、
あれが本来の流れを押さえつけるものだったなら。
(制限……?)
胸の奥で、
長年積み上げた確信に亀裂が入る。
騎士としての誇り。
聖剣を預かった意味。
従ってきた命令。
切り捨ててきた例外。
その全てが、
別の意味へ変わり始める。
遠くで生徒たちのざわめきが起こる。
魔法が使えず泣く者。
倒れた友人を支える者。
意味も分からず怯える者。
これも秩序のためか。
これも保護のためか。
(守っていたんじゃない)
視線の先、
学園全域を覆う白い制御層が脈打つ。
均し、
削り、
揃える圧力。
そこには慈悲も信頼もない。
ただ効率だけがあった。
(閉じていたのか)
その瞬間、
ルシアンの中で何かが崩れた。
音はしなかった。
だが確かに、
支柱が折れた感覚があった。
信じてきたものは、
世界を守る盾ではなく、
世界を狭める蓋だったのではないか。
彼の指先から力が抜ける。
剣の柄を握る手が、
初めてわずかに震えた。
神殿側の伝令が駆け寄る。
「聖騎士ルシアン! 第二段階命令です、対象確保を――」
ルシアンは答えない。
命令の声が、
知らない言語のように遠い。
視線の先には、
膝をつきながらも顔を上げる少女がいた。
排除対象。
危険因子。
そう教えられてきた存在。
だが今は違って見える。
閉じられた世界の中で、
唯一、
外へ繋がる者に。