悪役令嬢は世界のバグを修正する
最初に動いたのは、
風だった。
止められていた礼堂跡地の空気が、
レティシアの周囲だけそっと流れ始める。
半径数メートル。
ほんの小さな円の中だけ、
世界が呼吸を思い出した。
彼女の髪が揺れる。
頬に張りついていた前髪が離れ、
制服の裾がかすかに翻る。
その些細な変化が、
この場にいる全員の背筋を凍らせた。
ありえない。
制御陣は最大出力。
停止した空間で、
風だけが戻るはずがない。
次の瞬間、
頭上の白い格子線に亀裂が走る。
乾いた硝子の割れるような音。
レティシアの真上を通っていた数本の光線が、
耐えきれず砕け散った。
光の破片となって舞い、
空中で霧のように消えていく。
「……なっ」
監査官の声が初めて乱れた。
石畳の下から、
低い振動音が返ってくる。
長く眠らされていた古代回路が、
再起動した音だった。
地面の継ぎ目を走る細い紋様に光が戻り、
脈打つように連鎖していく。
足元から生命が戻ってくる。
そんな錯覚すらあった。
広場の隅に生えていた草が、
風に合わせて揺れる。
先ほどまで彫像のように固まっていた葉先が、
ようやく柔らかな弧を描いた。
そして、
礼堂の崩れた鐘楼から、
ひとりでに鐘の音が響いた。
ゴゥン――と、
低く長い音。
止められていた時間が、
再び動き出したことを告げるように。
レティシアの視界に、
警告表示が連続して走る。
AUTHORITY
CONFLICT
AUTHORITY
CONFLICT
AUTHORITY
CONFLICT
白い神殿制御層と、
この地に本来流れていた権限が、
一点で衝突していた。
押さえつける力。
戻ろうとする力。
均そうとする命令。
自然へ還ろうとする流れ。
そのせめぎ合いが、
目に見える形で空間を軋ませている。
騎士たちは思わず後退し、
教師たちは息を呑み、
生徒たちは声も出せずにその光景を見つめた。
誰も理解できない。
だが一つだけ分かる。
これは暴走ではない。
破壊でもない。
世界が、
本来の姿を取り戻そうとしている。
広場の中央で、
レティシアはゆっくり立ち上がる。
白い格子の破片が舞う中、
その周囲だけ風が流れていた。
まるで彼女の立つ場所だけが、
別の真実に属しているかのように。